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慎もビスケットを手に取った。市販品のようだが、バターの香りが強い。もう一種類、チョコレートチップが散らされたものもあるようだった。どちらもおいしそうだ。
「彼女たちの高校の机に、『私はかつて同級生を迫害していました』と印字されたA4の紙が貼られていたそうです」
「ふうん。自分で書いて、自分の机に貼ったのかな。殊勝だなとは思うけど。わあ、おいしいねこれ」
「さらに副え書きで、『私はこの席の人間の第二の人格です。主人格の犯した罪をよく知っています。自らその罪を懺悔して反省する様子がないようならば、夏休み明けに主人格を乗っ取ろうと思います。悪しからず』……と」
「ふうん。僕は半信半疑だけど、二重人格っていうのも、本当にあるものなのかもね」
「複数の高校生が、一斉にですか? まずありえないですよね。本人ではない誰かが貼ったわけですよ」
「わあ、紅茶もいい香りだ。すばるの家って、飲み物がいつもどれもほんとに」
「犯行は放課後、まだ人の出入りのある時間に、けれど見慣れない人物などはいなかったのに行われたようです。……慎くんですね? 県内とはいえ複数の高校に、どういう行動力ですか」
すばるが、半眼で慎を見てくる。
明音が「え? お兄さん忍者?」などとつぶやいていたが、慎はそれには構わず、
「……本番の前に、人のいる建物へ潜入する練習もしたくてさ」
言うまでもなく光暦正会の建物のことだと、すばるも理解している。
「彼女たち、本気でおびえているようですよ。多重人格なんて信じていなくても、充分気味が悪いですから。……慎くんが彼女たちの名前なんて聞きたがるから変だとは思いましたけど、まさかこんなことをするなんて」
「やったことはなかったことにはならないよ。小学生のころのこととはいえ、少しはばちが当たってもいいんじゃないの。原因だって教えてるんだし、誰がやったかはともかくなぜやられたのかは分かるでしょ」
その結果どういう行動に出るかは、彼女たちの人格次第だ。ただおびえて終わるのか、多少は心の中で反省するのか、あるいは反省を行動にまで移すのか。
すばるが許すかどうかにかかわらず、小学生当時よりは多少分別がつくようになったであろう今でも自分たちの所業を軽く見積もるつもりなら、慎はこれだけでは済ませないことも考えている。
彼らがのうのうと今暮らすことができるのは、被害者であるすばるが報復に出ないでいてくれるからだ。そして、それを許さない人間が存在することは、おかしいことでもなんでもないだろう。
もう、とすばるが苦笑する。明音には聞こえないくらいの声で、ありがとうございます、と続けた。
すばるは記憶を封印できる。慎はそれを体験した。だから時折、錯覚しそうになるが、あったことはなかったことにはならない。罪を後から償う方法など、ないのかもしれない。
少なくとも、慎の小学生時代はもう誰にも取り戻せない。光暦正会への入会のせいで不幸にした人たちの半生を取り戻す方法もない。慎にも、両親にも。
一方で、この世に生まれた人間が死んでしまっても、いなかったことにはならない。阿島雨幸はいなくなってしまったけれど、いなかったわけではない。
知らないことのほうが多い彼のことを、少しでも知ろうとしよう。そして、忘れずにいよう。
「つらいことのほうが多くても、……」
「はい?」
「……数は少なくても、幸せや楽しいことが、なくなってしまうわけではないよね。それは、死者においても、まだ生きてる僕やすばるにおいても同じことだ」
すばるも同じように考えているだろう。だからもう、雨幸の思い出は死を希う理由にはならない。
「あたし、さっきから全然ついていけないんだけどなー……」
明音が口を尖らせた。
「す、すみません明音ちゃん。これから、なんでもお教えしていきますから。……では、そろそろ始めましょうか」
にわかに、明音が緊張する。
「……はい。お願いします、すばるさん」
女子二人が、ソファに並んで座りながら、上半身を向け合った。
明音の記憶喪失は、すばるの力によるものではない。けれどもしかしたら、記憶の扱いについては一家言あるすばるの能力は、記憶を戻す役に立つかもしれない。
すばるのほうからそう持ち掛けられて、慎は明音にすぐに相談した。
無理はしなくていい、すばるはいつでもいいと言ってくれているから。
そう言われた明音は少し考えた後に、夏休みの間にお願いしちゃおうかな、と答えた。
聞けばすばるが慎の家に来た時、提案だけはされていたのだという。その時は急過ぎて断ってしまったが、今はやってみたいのだと。
最初にすばるが記憶を扱う能力を持つと聞いた時、慎は、妹の記憶を取り戻すのに役に立つかもしれないという打算を頭の端に抱いた。
だがすばるのことを知るほどに、こちらに都合よくこの力を使わせるのはためらわれたし、明音に無理をさせて悪化でもしたらと考えると、いつしかそんな考えは霧散してしまっていた。
なのに、すばるなりに慎と慎の身内のことをいつも考えてくれていたのだと思うと、慎は胸が熱くなった。この結果がどうなろうと、すばるにがっかりするような様子だけは見せまいと心に誓う。
すばるが、明音の額に手のひらを当てた。
しばらく、二人とも目を閉じまま黙っていた。
やがて、
「あっ」
とすばるが声を上げる。
「これでしょうか……。見つけたかもしれません。ああ、でも……私が封印する記憶とは、感じが違って……」
すばるが大きく息をついて、手を離した。額には汗が浮かんでいる。
「すみません、すぐには難しいかもしれません。でも、少しずつであれば、手繰り寄せられるかもです。今はかろうじて指が届いたくらいで……。大丈夫ですか、明音ちゃん」
「は、はい。ありがとうです、すばるさん。今、あたしも思った、なにか引っかかるところがあって、こう、もっとその先がある感じ」
慎には今一つよく分からないが、どうやら光明が見えた、のかもしれない。
「すばるさんが都合がいい時あれば、どんどんやって欲しいかも」
「無理は禁物ですよ。記憶って繊細ですから、焦るとどんな影響が出るか分かりませんし。お手伝いは、いつでもしますけどね」
明音はポニーテールにしている後ろ頭を小指で照れくさそうにかいた。
「うん、そうなんですけど……なんかそこのお兄さんも、おじいさんおばあさんも、あたしにめっちゃ優しくしてくれるから……。あたしかわいがられてたっぽいなーと思ったら、早く他人みたくなくなりたくて……」
雨幸による、明音の祖父母への命令はまだ利いていた。だが、もとよりかわいがっているものをかわいがり続けているだけなので、すばるの自死禁止と同じように、こちらもまた命令の意味はなくなっている。
「明音ちゃん……! いい子ですね、私なんでもしますよ!」
すばるは、お祈りするような姿勢で自分の両手をがしっと組み、目を潤ませている。




