<少し長いエピローグ――生者の希求>
七月が過ぎ、夏休みのある日の午前。
祖父が毎年つるす風鈴の音を聞きながら、慎は今となっては少し古くなった光暦正会の悪事のコピーを整理することに追われていた。
とにかく収集することだけに腐心して集められた細大様々な資料は、時系列や場所を明らかにするだけでも骨が折れる。期末試験前に手をつけなくてよかった、と今になって思う。
極力急いで作業をしつつも、今の慎にはいくらかの余裕がある。敵団体に対し、多少有利に立ち回れる見込みが見つかったからだ。
慎がその気になり、虚空化を使えば、白昼堂々光暦正会の建物に入り込んで悪事の証拠となる最新のデータを物色することも、やってやれないことはないのである。
できれば違法行為を犯したくはないので今までは踏ん切りがつかなかったが、雨幸の存在が慎を鼓舞していた。こうしている間にも新たな犠牲者が勧誘されていることを思うと、あまり悠長にも構えていられなかった。
実際、すでに慎は少し離れた市にあるかの団体の支部に虚空化で忍び込み、事務所がカラになった隙に、無防備に机上に置かれていたある不動産の記録を失敬することに成功していた。
原本を盗むのではなくスマートフォンで撮影したので、その支部の人間には気づかれなかった。
さすがに監視カメラは欺けないので、いくつかには慎の姿が映っていただろうが、それなりに変装もしていた。現行犯で捕まりさえしなければ、どうにかなる。
仮に捕まっても、なぜそんなことをしたのかを堂々と世間に述べるきっかけになるだけだ。まさか、簀巻きにされて海に沈められはしまい。
それでも、少し前の慎ならば、無謀に思えても破れかぶれで決行したかもしれない。
そのころの慎の強みは、自分がいなくなっても困る人間も悲しむ人間もいないことだった。少なくとも慎が、そう信じていたことだった。
今は違う。
件の不動産は県内の一軒家で、そこの住人が、様々な嫌がらせに遭って困惑していることを慎は突き止めた。
昔からある、光暦正会の手口の一つだった。会のメンバーがその家に勧誘に行き、偶然を装って、嫌がらせをしている者――当然光暦正会の関係者だ――を撃退するか、撃退方法を家主に無報酬で教える。それをとっかかりにして、信者として取り込みに行く。
撮影した不動産資料の画像は、どこに送ればいいか迷った結果、市役所と警察、それにかの町内会に匿名で送りつけた。
効果はあったようで、その地域ではすぐに光暦正会の排斥運動が起きた。似たようなことが何件か続けば、メディアも騒ぎ出すだろう。肝心なことについてあまり頼りにならない面や、ともすれば有害さが目立つ報道機関も、世に隠然たる力は持っている。
雨幸の残したものを無駄にせず、最大限に生かすためには、準備が必要だ。
慎は日夜資料の整理と、新しい情報の取得に邁進していた。
あいつらを、遠からず解体に追い込んでやる。その意志を胸中に燃やして。自分さえ消えればそれでいい、と思っていたころとはまるで違う。
両親は戻ってこなくてもいい。
失われた家族の団欒も、無理に取り戻そうとは思わない。
起きてしまったことはどうしようもないし、元に戻ることが最善とも思わない。なんのほころびもない理想的な家族などというものは、最初からきっと相馬家にはなかったのだから。
ただ、これから起きる――起こさなくて済む不幸は、この世の誰のもとでも、できるだけ起こさせないでやりたい。
雨幸が資料のところどころに残した走り書きにも、慎と似たような思いがこもっていることが読み取れた。
同じく、雨幸の手記には「自分は人に言うことを聞かせられるが、光暦正会打倒のためにいつどのようにそれを実行するかが課題だ」という意味合いの文章も散見されたが、これは慎には、雨幸の強い決意の表れとだけ受け止められていた。
彼の能力は、存在したことも、どう使われたかも、もう誰にも知られることはない。
すばるに課せられた自死禁止の命令は解けていない。解く者もいない。だが、それで困る者も誰もいない。
今の彼女には、死にたいと願う、罪悪感から生まれる強烈な衝動がなくなった。雨幸は自分のせいで死んだのではないと、何度でも否定してくれる人が傍にいる。
一人だけでも過去を分かち合い、ともに見つめてくれる人間がいるというのは、それだけ大きい。だから死ぬなという命令は、実質無力化している。言われなくても、すばるは生きたがっている。
慎のスマートフォンに通知が届く。すばるからだった。
慎は、出かける支度をして、祖母に昼食はいらないと告げた。
外に出る。真夏の太陽が容赦なく照りつける中、慎は待ち合わせ場所へと歩き出した。
慎があの夜再度封印させた、すばるの中の雨幸の記憶は、封印を解除するかどうか、夏休み前にすばるとひとしきり悩んだ。彼の存在は、すばるの希死念慮の発生と表裏一体だからだ。
だがすばるは、最後には、「封印を解除して、その人のことを思い出します」と慎に告げた。
「僕としては、心配だけど……」
「私もですよ。私そんなに心が頑丈ではないので、なにもかも忘れずにいればいいというわけにはいきません。でも、この人のことは――」
――忘れているほうが、きっともっとつらい。
それなら、思い出してつらいほうがいい。私と慎くんとで、彼のことをずっと覚えておいてあげたい。




