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 雨幸の両親は善良な人間だったが、娘夫婦からの勧誘と世間からの目に、だいぶ疲れてもいた。いつ忍耐の限界が来るか分からない。

 そうなれば慎たちのよりどころがなくなってしまうことを、雨幸は恐れた。祖父母が健在であれば、慎の最低限の居場所は守られる。そう考えての能力の使用だった。


 そして実家の仏壇に、それまで少しずつ集めた光暦正会の悪事の証拠をまとめたコピーをしまった。

 借家には原本があるが、光暦正会と揉めれば奪われてしまうかもしれない。彼らがどの程度危険な連中なのかは分からないが、反社会的勢力くらいには警戒しておいたほうがいいかもしれないと考えての、リスク分散のためだった。

 実際、関東一円に根を張っているらしい彼らの悪事は、その証拠を素人の雨幸でもすでにいくつか集められたほどに、すでに世に溢れていた。


 両親にそのコピーについて伝えようとしたが、この日来訪した時はやや驚きながらも平静に迎えてくれた彼らは、「命令」を受けた後は別人のように冷たい目を雨幸に向けてきた。結果、コピーの話もろくにできなかったのは誤算だった。

 こうなることを承知の上でやったこととはいえ、自分のせいで縁遠くなっていたとはいえ、肉親にこういう扱いを受けるのは、深くこたえた。


 すばるにも「命令」してしまったので、幼い子供とはいえ、もう良好な人間関係を築くことはできない。

 ほかに親しい人間など、雨幸にはいない。


 雨幸は、自分が、自らどんどんこの世から乖離していっているように思えた。

 守るべきものを守ろうとしているだけなのに、なぜこうなる。人とつながれないというのは、単に一種の性格というだけでなく、簡単に社会生活を追い詰められてしまうものなのだということを、この先何度思い知ればいいのだろう。

 また酒が増えた。


 心配事は尽きない。たとえば、すばるの記憶封印は、条件となるヒントが整えば芋づる式に解除されることもありうるらしい。そうすると、せっかく封じたトラウマの種がよみがえってしまう。

 仮に、光暦正会のつながりかなにかで慎とすばるが出会ったとしたら。同い年の彼らが友人となり、慎が雨幸のことをすばるに話でもしたら、それが記憶復活の引き金にならないか。


 いや、慎の祖父母は今や雨幸のことをろくでなしとしか認識していないから、あまり家で雨幸のことが話題に上ることはないだろう。

 姉夫婦にしても、雨幸は脱会をうるさく勧めてくるやかましい存在なので、わざわざ口の端にも上らせまい。

 そうすると、あの家では、雨幸はいなかったも同然の存在になるだろう。

 大丈夫だ。自分は、世界から隔絶されていっているのだから。


 その事実に励まされるどころか、打ちのめされて、雨幸はさらに酒をあおった。

 いよいよだ。もう自分には、守るものなんてほとんどないぞ。あの団体。あいつらを、遠からず解体に追い込んでやる。

 ふらふらと、泥酔した雨幸は借家の外に出た。

 そこへ、彼と同じくらいに酔っ払った飲酒運転の車が突っ込んできた。

 激突はせず、かすった程度だったが、当たり所が悪く、雨幸は電信柱に頭を打って死亡した。


 近所の人々は、「阿島さんの長男が、飲酒運転の事故で死んだ」と粗雑に噂して、あたかも雨幸が事故を発生させたかのように伝わり、いたたまれなくなった慎の祖父母は、娘一家とともに数駅先の土地へと引っ越した。


 雨幸が借家に残した光暦正会の犯罪行為の資料は、仲たがいした息子のとりとめもない雑書きとして扱われ、ろくに顧みられもせずに慎の祖父母に処分された。


 借家には新しく住む者もおらず、なにも残されなかった。ただ座馬家が、娘が犬が欲しいと強く願ったので、彼が飼っていた三匹の犬を迎え入れた。

 母親はどちらかといえばそんないわくつきの犬を飼うのは反対だったが、気まぐれな父親がこのころには珍しく首を突っ込んできて、強引に娘に与えた。


 その際、すばるは阿島雨幸の名前や、地域内で回ってきた彼の顔写真を目にはしていたが、すでに記憶を封印しているため赤の他人としか思えなかった。ただ、無意識に三匹への愛着が残っていたのだろう。雨幸という「他人」にも一応、犬の元飼い主としての敬意を向けはしたが、それだけだった。

 娘のそっけなさに母親は首をひねったものの、中学生の女の子と三十前の男の、犬の散歩中に道で挨拶する程度の関係というのはそんなものかもしれないと勝手に納得した。


 葛藤の中、あまりにも報われない死を迎えた青年は、ほかの死者がそうであるように、心のうちのほとんどを誰にも知られずにこの世から去った。

 そうして、やがて阿島雨幸のことを口にする者はいなくなっていった。


 だが、潜在的にすばるの中に刻まれた、死を願いながら生きていたころの唯一の味方の死は、彼女の心に深くえぐれた異形の傷跡を残した。

 記憶封印は、記憶を隠すだけで、失くすわけではない。

 それでもあくまで傷跡だったはずの不可視の深淵は、雨幸と同じ面差しの少年と出会うことで、すばる本人にも見えなくも、生々しい鮮血を噴き出し始めた。


 阿島雨幸はもういない。

 彼は死んでしまった。

 あのころ、自分は確かに彼のおかげで生きていられたのに、その彼はもういない。

 幼くして味わった、死に至るほどの苦痛。

 それを知った両親への、設けた娘が自分のような人間であったことの罪悪感。

 その両親から押された、無価値な人間としての烙印。

 すべてを打ち明けることのできた人は、もういない(・・・・・)

 あまりにも深い、不可視の領域の絶望。

 それでも死ぬな(・・・)


 こうして、肉親からも忘れ去られかけていたある青年の足跡が、この世に確かに存在したことがおぼろげながら顕わになったのは、死なないことを強制されながら生きる少女が、雨幸と瓜二つの少年と出会った日のこと。


 それがこの夏、彼女に起きた「事件」だった。


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