<密章 A.A>
阿島雨幸には、七つ離れた姉がいた。
姉は小さいころから機敏で活発で、頭もよかった。
その姉が二十五歳の時、光暦正会という思想団体に入会したのは、青天の霹靂だった。
会はもちろん思想団体というのも聞き慣れない言葉だったが、雨幸から見たそれは悪質な宗教団体となにも変わらなかった。
十八歳の多感な雨幸は、姉と義兄がその才能と財貨を団体にささげるのを、苦々しい思いで見ていた。
高校を卒業後、雨幸はアルバイトを掛け持ちして食いつないでいた。
何度か正社員になりかけたが、とかく人間関係を築くのが大の苦手だった雨幸はことごとくその機会を逃したまま、その日暮らしを続けていた。
雨幸の姉は二十一歳で男の子を産んでおり、名前を慎といった。
その後、雨幸は実家の近くに賃貸の一軒家を借りて一人暮らししていたが、この甥は顔立ちが母親似の自分に似ており、文字通り他人とは思えなかった。
それだけに、姉夫婦によって慎が布教に駆り出されるようになると、気が気ではなかった。何度も姉や義兄にやめるようにそれとなく説得したが、まるで取り合われなかった。
やがて慎の妹も生まれたが、雨幸はこのきょうだいをどうにかして親の妄信から救ってやりたかった。
雨幸の借家の近くに座馬という家があり、犬好きの雨幸が飼い犬を連れて散歩をしていると、そこの一人娘がよく物珍しそうに寄ってきた。
こちらはこちらでかわいらしいご近所で、雨幸にすれば微笑ましい交流だったが、座馬家の母親も件の思想団体に入会したと聞いて、雨幸は衝撃を受けた。
姉夫婦の勧誘によるものではなかったらしいことだけは救いだったが、どのみち一家が泥沼に向かうのは目に見えていた。
雨幸には、人に言えない秘密があった。
両手で相手の頬を挟み、「命令」をすると、相手は必ず言うことを聞いてくれるという超能力を彼は持っていた。
悪用すればきりがないほど強力なのが目に見えているこの能力を、雨幸は決して濫用しなかった。
しかしこの力を使うしか、慎やすばるを救う道はないのかもしれない。
雨幸は博愛主義者ではなかったので、姉はもちろん座馬家の二親が、どんなに止めても自分の意志で団体に恭順を誓うなら、それも勝手だとも思っていた。
だが、幼い子供たちはその限りではない。
とはいえ雨幸個人の社会的な力など、強固な進行で築かれた団体の前には、とるに足らないものだった。
生来人づきあいが苦手な雨幸には頼れる友人などはいなかったし、親族はろくでなしやギャンブル狂、挙句の果てには光暦正会の入信者まで排出する始末で、まともなのは両親くらいという体たらくである。
もう、超常的な力にすがるしか道はないと思えた。
できることなら、思想団体自体を解体してやりたかった。なにか悪事の証拠でも握れれば、それを公にさらしてやろうと思った。
だが、雨幸の能力には反動があった。一度「命令」が遂行されると、その後雨幸と顔を合わせると、なにを言っても一切聞き入れられないほどの不信感を抱かれてしまう。
また、あまり複雑な命令を実行させることはできず、単純なものに限られていたので、使いどころが難しい。
具体的な悪事を――信者からの搾取以外で――突き止めるには、まずは自力で探偵じみた真似をするしかなかった。
そうしているうちに、座馬家のほうに異変が起きた。
十代半ばを迎えようとしていたすばるが、手首を切るようになった。
夏でも長袖の服を着ているすばるの手首を、犬を撫でさせてやっている時に偶然見て、雨幸は打ちのめされた。
近所に住んでいる他人というほど良い距離感が功を奏していたのか、すばるは自分の身に起きている不幸を、雨幸にだけはあけすけに教えてくれていた。
その苦悩がすでにこの少女の許容量を超えていることに、雨幸は戦慄を覚えた。
苦手な愛想をその顔に浮かべて、犬の散歩のついでのふりをしてそれとなくすばるの母親に、娘をよく見てあげて欲しいと告げたこともある。当然あまりいい顔はされなかったが、少しは効果があったようだ。
姉夫婦もそうだが、思想団体が絡んでいると、その場限りの「命令」をしても結局団体の影響によって元の木阿弥になってしまうことは想像がついた。たとえ彼らに「光暦正会を抜けろ」と命令したところで、結局あの組織は一度見つけた鴨をそうそう逃がしはせず、なんらかの搾取を試みるだろう。
その時には、もう自分は彼らから関係を断絶されている身の上になり、なんの役にも立てない。
警察や児童相談所へ通報したとして、家の中のことにどこまで踏み込めるか?
むしろ事態を悪化させることにはならないのか?
最善手が見つからず、悩ましい日々が続く。
超能力などあっても、なんの役にも立たない。
このころから、雨幸の酒量は増加した。
さらに雨幸が仰天したのは、すばるが自分と同じく、特別な能力がゆえの苦しみを抱えていたことだった。
すばるは、人の記憶を隠し、忘れさせてしまうことができるという。
最初は取り合わなかった雨幸だったが、己の身で実践されては信じるしかなかった。能力には反動がついてくることまで、雨幸の能力と一緒だった。
すばるは、生きているのがつらいと泣いていた。
もはや一刻の猶予もない。
団体を潰してしまうなどというのは、後回しだ。ひとまずこの、力なき女の子を救わなくては。
そのためには、どんなふうに能力を使えばいいか。単純で、根本的にすばるの自殺を防ぐ命令というのは。
考えた結果、ごく単純に、「自分から死ぬな」と命じることにした。自死を禁じれば、必ず後からなにかしら、救済の手立ては生まれるはずだ。死ねばすべてが終わる。
まずすばるに、雨幸が聞いた限りのつらい記憶を、苦痛が大きいものから順に忘れさせていく。下手に隠すと残した記憶との齟齬が大きくなりそうなものは残すように気をつけたが、どの程度上手くいくかは賭けだった。様子を見ながら軌道修正していくしかない。
それから、母親に忘れて欲しい記憶を封印するように言った。家の中でのやり取りから、すばるの記憶が取り戻されてしまうとも限らない。
この時、すばるはリストカットのほか、いくつかの気まずい記憶も母親から隠した。
その作業に数日かけた後、最後に、雨幸は彼のことも忘れるようにすばるに告げた。それが後々すばるのためになるからと繰り返し諭され、最初は戸惑っていたすばるだが、信頼していた頼りがいのある大人の男性にそう言われて、やがて従った。
それを確認してから、雨幸は能力を発動した。
決して、自分から死ぬな。
すばるの頬をつかまえてそう告げると、中学生の少女はしばらく目の焦点を失った後、人形のようにこくりとうなずいた。
無理矢理に能力で命令を聞かせる罪悪感はあったが、やむを得なかった。
もう一度面と向き合えば、能力の反動で蛇蝎のごとく嫌われてしまうからと、雨幸はその後すばると会わないようにした。だからこれが、彼とすばるが会った最後だった。
次に、慎だ。
雨幸は、姉一家が勧誘旅行で不在の時に実家に帰ると、姉一家と同居の父母に「命令」した。決して慎と明音を見捨てるな、と。
慎が物心つくころにはすでに雨幸は実家を出ており、借家に住み始めてからは、思想団体にかぶれた姉夫婦に会いたくなくて実家とは疎遠にしていた。
それでも比較的近所に住んでいたのは、なにかあった時には家族の一助となるためだった。ただ、生来人と関わる才能が乏しい雨幸の性質は実の親に対しても発揮されており、「おれのことは放っておいてくれ」と言い放って実家に寄りつかない時期が長かったので、他人同然に思われている節はあったが。
おそらく自分は、数だけは多いがまともな人間は少ない親類の一人として、あまり慎に印象深い人物ではないだろう。
慎は幼いころに何度か雨幸の家に来たことがあるが、姉夫婦に連れられて雨幸の勧誘に来ただけだったので、苦々しくは思えと歓待はしていない。いい印象を持たれていないどころか、もう忘れられているだろう。
だがあの少年は間違いなく、雨幸にとっては守るべき人間の一人だった。




