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「私の力を利用して私を置いてきぼりにしようとした人の言うことなんて、聞けません。改心してくれないなら、……私のことと、虚空化できる記憶を忘れさせた後、封印を解除せずにおきます。光暦正会のことも忘れさせます。そのほか、慎くんを苦しめるすべてのものを。そうして、幸福に生きていってもらいます」
慎が、ぎょっとして目を剝く。
「すばる、やめろ。僕のことをもう一度忘れるんだ。そうすれば君こそ、普通に生きていける。自分と他人、どっちが大事なんだ」
目いっぱいの強い意志を、慎は視線に込めた。
だがすばるはお構いなしに、慎に手を伸ばす。そして額ではなく、人生で初めて、人の胸倉を両手でつかんだ。
「そんな質問に答えさせないくらい大切な人になっておいて、なにを言っているんですか。私はずっと、なにかに飢えていました。なにになのか、慎くんに出会ってやっと分かった。慎くんがいなくなれば、私はもちろん、おじいさんやおばあさん、明音ちゃんも、癒えることのない飢えを抱えることになりますよ。言語道断ですね」
すばるが手を離した。
慎は胸元を直さずに、すばるを見る。
すばるも見つめ返した。
「それでもまだ、消えたいですか……?」
己の行動は、すべてが悪い形で噛み合ってしまったせいだったと、今なら慎にも分かる。たった一つの正解を見つけたとどんなに確信して選び取った選択肢でも、それが本心だとは限らないことも。
長く抱き続けた念願が、別の本心を覆い隠してしまうこともあることも。
不思議と、能力による自殺を敢行したことに後悔はない。あの時の気持ちは嘘ではなかった、決して。だが本当でもない。だから、
「……いいや。しないよ。きっともう、二度と……。だから、泣かないで」
いつからか、すばるの涙はとめどなく頬を濡らしていた。
「慎くんの、せいですよ」
「うん」
「慎くんが虚空化を解いた後だから、反動で私、慎くんが凄く……本当は前から、ずっと大切だったのに、今は輪をかけて物凄くいとおしく思えてしまっていて」
「……ありがとう」
涙は月の光に、冷たい宝石のように青く輝いている。
すばるがかぶりを振ったせいで、光の粒が舞った。
「こんなの、まるで嘘みたいじゃないですか、力の反動のおかげなんて。でも本当なんです。私の胸は、一つしかないのに、今まで何度もばらばらに壊れてきました。罅だらけで、もう元には戻らないのかもしれません。さっきも壊れそうだった。今も、……こんなに、砕けてしまいそう……」
このまま生きていくなんて、考えただけでもぞっとする。
「ごめん、本当に。……すばる?」
すばるが両手を広げて、慎をすっぽりと包み込んだ。
慎は一瞬慌てたが、すぐに緊張を解いた。そしてゆるゆると、自分も腕をすばるの背中に回す。
すばるが慎に恋愛感情を持っているかどうかは分からない。
慎も、今、自身がすばるに対して抱いている最も強い思いが恋愛感情と言っていいのか、分からない。
それとは別に、慎は感じていた。お互いにただ大切なだけの存在というのが、どんなに尊いものなのかを。
「でも私は、いつか会えるかもしれないと思っていた人に会えたんですよ。思っていたより、ずっと早く。この人が傍にいてくれるなら、この世界はそんなに悪いものではないって思える誰か。雨幸さんも、きっとそうでした。でも、……」
すばるの腕に力がこもった。
「慎くんは、いなくならないで」
すばるはまだ泣いている。
慎は、今泣く資格は自分にはないと思った。だから心の中で涙した。けれどとうとう耐えきれなくて、目元から雫が溢れ出した。
あまりにも多くの感情が入り混じりすぎて、その涙の中身を紐解くのには、時間がかかりそうだった。
願わくばすばると共に過ごしていく、日々の時間が。
昨夜、薄れていく意識の中で、慎はただすばるのことを考えていた。
今目覚めて、おこがましくも思うのは――彼女の幸福のためには、自分が生きていたほうがいいのかもしれないということ。
ずっと願っていたはずの消滅が、慎の中で初めて意味を失ったのは、つまるところ、どうやらそのためだった。
目に見える涙と見えない涙が、月夜に流れている。
抱き締めている相手の肌が、生きるのを諦めてしまうには、あまりにも熱い。
慎もすばるも、怒っているからでも、悲しいからでも、つらいからでもなく、生きているから泣いていた。




