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9

 日が沈みかけ、空の光量が乏しくなる中、街灯を頼りにわが身を見下ろす。

 改めて、ひどい格好だ。体にも痛みがある。

 ここまで来て初めて、すばるは、この服と体は記憶を封じた誰かの手によってつけられたのではないか、ということに思い至った。

 考えたくもないが、乱暴をされたか、されそうになったか。だから「犯人」の記憶を、雑ながらに消したのか?


 だが、どうも他人につけられた外傷らしきものはない。体の痛みも、筋肉痛がほとんどだった。

 スカートは綻んでいるところもあったが、人の手で力任せにやられたというより、擦り切れいるように見える。それは、昨日ガラス戸から覗いた埃まみれの居間の床の様子を見るに、そこで転げまわったせいだろう。


 一人でそんなことをしていたらまるっきりばかみたいだが、擦り傷はあっても、つかまれた跡や打ち身の一つもないのでは、すばるに害意を持った者と取っ組み合ったようにも思えない。

 しかし、だからといって、最悪の想定が外れていてくれる保証もない。


 空き家の中には人の気配はなかったが、


「ヨシカト、クロウ、ホーガン……外で待っていてください。怖い人が出てきたら、助けてくださいね」


 意を決して、すばるは門扉を後ろ手に閉めると庭に回り込み、ガラス戸を開けた。玄関は鍵がかかっていたのだ。そうだ、覚えている。


 居間には昨日と変わった様子はない。剥げた埃もそのままだ。

 目を凝らしたが、誰もいない。奥のほうは、暗過ぎて分からないが。


 だが、視界の隅で、なにかがきらりと光った。

 すばるは、靴を脱いで上がり込む。まだリードは手に持ったままだったが、長さが足りず、やむなく途中で手を離し、マテをした。

 居間を通り過ぎると、先は廊下になっている。そこで光っていたものに近づいて拾った。それは、自宅の台所で使っているナイフだった。


「うちのナイフですね……私はナイフを持ち出して、ここに来た? どうして……」


 現物を見たせいで思い出した。確かに昨日、自分で、台所からこのナイフを持ち出した。

 犬の散歩の時に。どうして、散歩のためにナイフを?

 死にたくなったから。手首を切るために。

 死にたくなった?

 どうして?


 振り返る。

 四角く区切られたガラス戸から、トワイライトブルーから深い群青へと移ろっていく外界が見える。

 月が出ていた。月光が強い。


 暗い中から明るい外を視界に入れたおかげで、すばるは気づいた。

 荒れた畳の上に小さな布が落ちている。ぼろ布ではない。拾い上げてみると、暗いせいで色は分かりにくいが、どうやらオレンジ色のハンカチだった。

 すばるのものではない。この色のハンカチは持っていない。


 ハンカチ。オレンジ色の。どこかで見た。

 どこで。喫茶店、初めての。なぜハンカチが。こぼれて、流れた液体を。私がハンカチを持っていなくて、

 ふいてくれた。

 その時、傷を見られてしまって。左手首の。

 でもその人になら構わないかと思えて。

 誰に。

 誰にって、


「お願い……」


 ナイフと布きれは、この果てしなく広がる世界の中であまりにも小さく頼りなく、すばるの手の中で震えている。


「お願いです、あなたが誰なのか、教えてください……」


 その時、とことこ、と足音が聞こえた。

 三匹の犬が、居間に上がり込んできてしまっている。

 慌ててリードを手に取ったすばるだったが、ふと気づいた。

 犬たちは、部屋の一方へ、そろって鼻先を寄せている。

 しかしすばるの目には、差し込む月明かりから外れているせいで、ただほの暗い壁と床にしか見えない。


「どうしたんですか、みんな? そこに、なにかあるんですか?」


 三匹は、ある一点を中心に、左右にうろうろと動き回っている。

 その動作は、横長に伸びた見えないなにかを嗅ぎ回っているように見えた。そのなにかの長さは、およそ人間一人分ほどある。

 もしや、とすばるは息をのんだ。


「その人は、ここに寝泊まりしていたんでしょうか? だからにおいが残っている? ……いえ……」


 すばるは目を凝らした。

 暗い中でも、そこにはなにもないのは見れば分かる。

 だが。


 そこに、いる。

 自分はそれを知っている。

 そこにいるのに見えない。存在を感じ取れない。


 気をつけなくては。

 これ(・・)をやると、彼はひどく弱体化してしまうから。

 軽く触れただけでも傷つけてしまうから。一度、やってしまったではないか。


 すばるは、なにもない――なにもないように見える――その空間に、そろそろと手を伸ばした。

 だが、触れたとしても、なにもできない。揺り動かすことさえ、彼には致命傷となってしまう。


 彼に意識はあるのか?

 呼びかけても答えないのは、意識がないせいか? それとも、答えるつもりがないのか。


 どうすればいい。

 去り往く彼をこの世に再び取り戻すには、どうすれば。

 彼と自分の間に残された材料を、どう使えばいい。

 そんな材料が、残されていたか?


 彼との思い出になるもの。

 最初ははなんだったろう。

 雛。

 そうだ、ここにくるきっかけにもなった、鳥の雛。


 私は、誰かの、鳥の雛の記憶を封印した……気がする。

 これが、きっと彼との。


 すばるは、自分の紺色のハンカチにすくい上げた雛を頭に思い浮かべた。

 ああそうだ、だから彼は私にハンカチを貸してくれたのだった。


 蓋が開いていく。

 すばるは、努めてゆっくりと、手を伸ばし続けた。

 やがてその指先が、ほんの気流の乱れのような違和感をとらえた。


 人肌と同じ温度の水の表面に指を滑らせるような、ごくわずかな感触を頼りに、すばるはその誰かの外郭をなぞっていく。

 これが、おそらくは肩。これが鎖骨だろう。これが首筋。顎。頬、こめかみ……額。

 手のひらを当てる。


「いきますよ……」


 すばるの力が記憶のプールに侵入し、かつて自分が封印した、雛の記憶を見つけた。

 封印を解除する。

 手ごたえはあった。


 ややあって。


「やめ、ろ……」覚えていない、だが知っている、その声が聞こえた。「かわいそうな、ことを……」


 自ら言葉を発したことで、慎の虚空化が敗れた。

 すばるは、慎の能力に勝利した。


 ただの空気の塊でしかなかった空間に、横たわった人体が現出する。

 そしてその顔を見て、すばるは自らの封印を解除するまでもなく、連鎖反応を起こした記憶が戻ってきた。

 だから、理解した。慎がなにを求めていたのか。なにをやろうとしたのか。

 いちどきに膨大な感情が弾け、すばるの胸は粉々になりそうだった。

 そしてただ、彼の名前を絶叫じみた声で呼んだ。


「慎くん!」


 三匹の犬が、驚いてびくんと身を震わせる。


「う……あれ、すば、る……どうして……? そうだ雛、鳥の雛を助けて……」


「雛は大丈夫です。今、慎くんの記憶封印を解除したので、反動で強く心に響いているかもしれませんが、とっくに巣に戻してあげたではないですか」


「……ここは……。ああそうか、僕は……」


 慎は、すぐには起き上がることができなかった。


「慎くん……私、とても怒っていますよ」


「だろうね……」


「どうしてこんなことを?」


「これですべてが上手くいって、僕の望みは全部叶うんだって、あの時は、そんなふうに思えた……絶対の正解に思えて、止めようがなくて……」


 すばるが幸せに生きていけるなら、それでいいと思った。

 だがそう口にするのは、今は卑怯だ。慎は唇を噛む。

 だが、


「私のためですね?」


「……言えない」


「忘れてしまったほうがつらい、のではなかったのですか? 私がつらくてもいいのですか?」


「二度と……思い出しさえしなければ」


「なら、私も同じことをします」


 すばるが、再び慎の額に手を置く。


「……すばる?」


「慎くんの、私の記憶を封印します」


 慎が目を見開いた。


「やめてくれ。それだけは忘れたくない」


 慎は、すばるの手を払いのけようとした。だが、まだ体が上手く動かない。


「大丈夫ですよ。一度封印した後、すぐに解除します。そうすれば、反動で、私のことを大切に思ってくれるかもしれないでしょう。……思い上がりかもしれませんが、慎くんが消滅を思いとどまるくらい大事なものって、……ほかに思いつかないんです」


「やめるんだ。そんなことしなくても、充分大切だよ。だから、……」


「だから、自分のことを忘れさせて消えようとしたんですもんね」


 慎は、歯噛みして黙った。


「私、そんなふうに自分を価値あるものに思えたの、初めてです」


「……問題があるね、君は。すばる、どうして戻ってきたんだ。君の願いをかなえてくれよ。死にたがらずに、生きていきたかったんだろう? それを邪魔する人間が、いなくなるだけだよ」


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