8
翌日の日曜日の朝。
空はよく晴れていた。
起床したすばるは、母親が返ってくる時刻までは自由の身ではあるものの、特になにもすることがないので、とりあえず犬の散歩に行く準備を始める。
朝食は散歩の後にとることにして、ひとまず外出用のジャージに着替えた。
クローゼットの中の服は多くはない。散歩以外には出歩く習慣がほぼない人間としては、こぎれいなジャージと制服があれば、たいていの場合用が足りてしまう。
ふと、改めて、昨日家に帰って脱いだ制服をハンガーごと持ち上げて見てみる。
自分は決して活動的な人間ではないし、野山や廃屋へ冒険に出かける趣味もない。
なのにどうしてこんなに、制服が傷んでいるのだろう。替えがあるからいいものの、そうでなければとてもこれで学校には行けない。
なぜ好き好んで、あんな空き家に忍び込んでいたのだろう。それも犬を連れて。
人間は通常、知らないことに対しては注意をすることができない。
記憶がなければ、自分はこれこれを知らないかもと意識を向けることがそもそもできない。
そのためすばるは、自分がなにかの――誰かの――記憶を自分で封印しているなどとは、すぐに思いつけずにいた。
これは記憶封印の副作用でもあった。慎たちの記憶がなければ、すばるとしてはなんらかの気の迷いで自らあんなところに足を向けたとしか思えないし、そのように思考も自然に誘導された。
母親からも、忘れっぽいとかぼうっとしているとか、よく言われている自覚もあった。
まあこれから気をつけよう、と思うのみで済まされても仕方のないことだった。
だが、違和感はぬぐえずにいた。
さすがに制服と体のダメージが、無意識のうちになんとなくそうなったというには無理がある。
それに、とすばるは部屋の中を見渡した。
見慣れた自分の部屋。それが、なにかもの寂しい。
ここで、最近――ごく近い数日間に、なにかがあった気がする。
台所で乾燥させてあったティセットは、戸棚にしまう時はあまり気にしていなかったが、二人分なかったか?
仮に、時間をおいて飲んだために自分が二組とも使ったとして、自分一人の時に、わざわざソーサーもカップももう一揃い出すだろうか?
そこで、ようやく思いが至る。
――私は、なにかを忘れているのかもしれない。自分の記憶封印の能力で。
だが、もし自分で記憶を封じたなら、それなりの事情があったはずだ。それをわざわざ思い出すこともないだろう。
そうは思うが、こんなに痕跡を残すような記憶封印は、少々雑過ぎる。封印を解除して、原因を確認したほうがいいのではないか。
気になる、と気にしない、の振り子に翻弄されながら、すばるは、どんな記憶だったか探るくらいはしてみようかという結論に至った。
しかし、隠した記憶を闇雲に探そうとしても、手掛かりがなさ過ぎて上手くいかない。暗闇の中で、方向も距離も分からないどこかにある引き出しの取っ手を探すようなものだからだ。
隠したのがなについてのどんな記憶なのか分かっていればまだ探しようがあるのだが、記憶をなくしている本人ではそれが分からないので、ヒントをくれる協力者がいなければ実質的に詰んでしまう。
自然に任せようか、とも思う。ほんの少しずつだんだんに思い出していって、いずれ完全に封印を解除できる機会があれば、その時でいいかと。
玄関のドアを開け、外に出て、犬小屋という名の庭の木組みへ向かおうとした時に、庭の隅のハナミズキの枝に鳥の巣があるのを見つけた。
鳥の巣。
なにか、最近そんなものを見たような。
巣自体は珍しいというほどのものではないが、なにか、それを見た時に、心が動く思いをしたような気がする。
巣。
中の雛。
それが、落ちてしまって、
助けてあげようとした、
誰かが。
誰?
思い出せないということは、大した知り合いではないのだろう。
もとより、自分には仲のいい友人などはあまりいない。
学校では、クラスメイトもすばるをやや遠巻きにしている。どうやらすばるの見た目が目立つらしく、単所問わず時折ちょっかいは出されるのだが、気分を害することのほうが多かった。
特に、勝手にすばるを高慢な性格のように決めつけて、揶揄や嘲笑を向けてくる人間というのは枚挙にいとまがない。交際を申し込んできて振られた腹いせにそうする者もいる。
ああした時の人間の醜い笑顔は、大の苦手だった。
だが、
……これも最近、
そういうものとはまったく違う笑顔を見たような、
気がする。
犬たちのもとへ向かう足が止まった。
か細い、やさしく触れていなければすぐに崩れて闇の中に溶けていってしまいそうな、繊細な糸を手のひらに載せているような感覚。
私はなにかを忘れている。だが、なにを。
胸騒ぎがした。
どうして。
なにかの記憶を封印したとして、それはすばる自身の意思のはずだ。そうするほうがいいと決めたから、自分で自分に能力を使ったはずだ。なのになぜ、自分は取り返しのつかないことをしたような気持ちになるのか。
とにかく、散歩を済ませてしまおう。
すでに三匹の犬は、小屋の中から飛び出さんばかりに外出を待ちかねている。
普段は母親と分担することの多いこの散歩だが、今日は一人なのでリードを三匹分束ねて持つ。
家の門を出て、朝の町を歩き出した。
……また、記憶の底が疼いてくる。
誰かとこうして、ヨシカドたちを連れて歩いたような気がする。
だが自分には、そんなことをするほど気の置けない友人はいない。
散歩が終わって家に戻ってからも、すばるの思索は続いた。
胸騒ぎは強まっている。もう、暗闇の中の取っ手を見つけ出さなくてはならない心持ちになっていた。
部屋で一人、ベッドの上で座ったり寝転んだりしながら、頭の中の記憶のありかを探る。
延々とそれを繰り返した。
食欲が湧かないので、昼食はとらなかった。
だんだんと日が傾きだす。
母親が返ってくるのは、夜の予定だ。
急がなければ、と思う。
今母親と会って、一晩眠り、明日登校してしまったら、生活のノイズの中でこの儚い糸は永遠に消え失せてしまうに違いない。
窓から外を見る。
黄昏時で、空が暖色と寒色の混じった複雑な模様を描いていた。
紅茶色の、
暖色の空。
誰かと見た。
私は、その誰かの記憶を失っているんだ。
その誰かと、ティセットを使った。犬の散歩をした。おそらくは、昨夜。
すばるは立ち上がった。
なぜ自分がその人物の記憶を封印したのかは分からない。
だが、その理由は今解き明かさなくてはならない。わずかな手掛かりをも失う前に。
少しでも再現性を高めたくて、傷ついた制服に袖を通す。きっとこの制服の傷みと、その誰かの記憶には関係がある。
玄関を出た。
少し悩んだが、制服を着たのと同じ理由で、犬たちを連れていくことにする。この三匹のふわふわした家族にとっては、いつもの散歩となにも変わらないだろうが。
犬たちを率いて、昼間の熱気が残りながらも後は冷えていく一方であることが分かる外の空気の中に、すばるは一人で漕ぎ出した。
失ってはならなかったらしい記憶を、その痕跡もろくにないのにたどる作業。それも、今夜中という限られた時間で。すばるは途方に暮れそうになる。
記憶を喪失する能力というのは便利なようで、やはり手に余るものなのだ。気軽に扱っていいものでは、到底ない。
この件にけりがついたら、もう生半可なことでは使わないことにしようと誓う。だって今、こんなにももどかしい思いをしているのだから。
明音だって、記憶喪失に苦しんでいたではないか。
すばるの足が、あるY字路で止まった。
「明音、ちゃん……?」
中学生の女の子だ。顔もはっきりと覚えている。彼女の家で、少し話した。
だが、自分はなぜ、そんな子と知り合ったのだったか。
彼女の家に入った。スマートフォンを取り出してみたが、明音の連絡先はどこにも入っていない。
仲介した人間がいるはずだ。だが、思い当たらない。ということは、この人物こそが。
すばるは、傍らのブロック塀にどんと背中をつけた。
思い出せ。
明音とはなにを話した?
犬の話をした。高校の話も。そして、
できることなら、お兄さんと呼んであげてください。
誰を?
はあっ、と大きく息を吐き出す。
これだ。
自分が封じた記憶の人物は、明音の兄だ。
だが、名前が思い出せない。名前や顔が分かれば早いのに、今のままでは手当たり次第に手掛かりを求め、運よく連鎖的に記憶が戻るのを待つことしかできない。時間は限られているというのに。
人の記憶封印を解除する時は、目当ての記憶がすばるのほうで分かっているから見つけるのもすぐだったが、「どこかにあるらしい誰かの記憶」を探すのがこんなに難しいとは思わなかった。
少し前に、リストカット再発の原因になった記憶を探し当てた覚えがある。それはあまりにも異質な存在感があったのと、トラウマに類するものだろうと見当がついていたこと、それに集中して探せたおかげもあって数分で見つかった。
あの時は澄んだ水の中を探索しているようで見つけやすかったのに、今はあるのかないのかも分からない記憶を、時間制限つきで焦りながら探し回っているせいで、五里霧中も同然だった。
あの時はなぜ、あんなに落ち着いた気持ちでいられたのだろう。
明音の苗字は何だったか。それを思い出せれば大きなヒントになるはずだが、そこに分厚い雲がかかったようで手が届かない。
明音の兄本人に関わる情報があれば。写真一枚、名前一つ、それさえ手に入れば、記憶の取っ手が確実につかめる。
だが明音の連絡先は知らないし、彼女の家まで聞きに行くいとまもない。
どこで出会った、どんな人だろう?
もしかしたら高校のクラスメイトだろうか。
だが、クラスメイトの連絡先もすばるのスマートフォンの中には一つも入っていない。人間関係の希薄さが、いまさらながらに悔やまれた。
明日登校して教室で人に訊けば、目当ての人物はすぐに判明するかもしれない。取っ手が闇に消えた状態ならともかく、ここまで強く意識していれば、実名を聞けば封印の解除はすぐだろう。
だが、そうじゃなかったら? 高校とは無縁の場所で、偶然出会った誰かだったら。
明日を待つわけにはいかない。
今できることを、今すぐにやらなくては。
すばるがY字路を、閑散とした町外れのほうへ折れたのは、昨夜この先から帰ってきたことが気にかかったというよりは、ほとんどただの勘だった。
なんとなく大通りのほうを選んでいれば、すべてはそれまでだったかもしれない。
だがすばるは、先の見えない迷路を手探りで進むように、ほとんど前方を見るよりも頭の中を覗き込むようにして、一歩ずつ歩を進めた。
やがてすばるは、ある空き家にたどり着いた。
昨日もここにいた。誰かと。
そうだ、こんなふうにして、犬たちを連れて一緒にいた。




