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その時、部屋の隅でおとなしくしていた犬たちが寄ってきて、すばるの顔を舐め出した。
「ひゃあ。ひえ。くすぐったい……」
「すばるの犬たち、僕にも結構愛想よくしてくれるのは、見た目とかにおいが雨幸さんに似てるからなのかな」
「……ううん、今となってはそこまでは……」
「ね、すばる。すばるの記憶封印て、犬にも効くのかな」
「え、どうでしょう。試したことはないですけど……」
極力平静を装い、慎は言った。
「一番年長なのはヨシカド? なら、試してみてくれないかな。雨幸さんの記憶を封印してもなついてくれたら、純然たる僕と彼らの相性なんだろうから。できれば元の飼い主の身代わりじゃなくて、僕は僕として彼らと仲良くなりたいからさ」
「いいです、けど……。慎くんそんなに、犬がお好きでしたか?」
体もだが頭も疲労困憊のすばるは、いきなり変わった話の展開にあらがうこともなく、唯々諾々と従う。
慎に助けられて少し体を起こすと、正面からヨシカドの額に右手を置いた。
「それでは、雨幸さんの記憶をですね……」
「うん」
すばるの右手に力がこもる。
その瞬間、慎はすばるの右手を素早くとると、すばる自身の額に手のひら当てさせた。
そのタイミングは、たった今目の前で何度か行われた封印の様子を見て、充分に計れていた。
「あっ?」
力なく声を上げたすばるが、しかし、目の焦点を失う。
しばらく、そうしていて。
やがて視線に意思が戻ってきた時には、慎はすばるの腕を放していた。
「……あれ? 私今、なにか……」
どうやら成功した。次だ。慎は奥歯に力を込めた。
「すばる、実はさっきここに入ってきた時、慌ててたからヨシカドを蹴飛ばしちゃったんだ」
「え、そうでしたか」
すばるはまだ茫洋としている。
「だから嫌われたみたいで。ヨシカドの中のぼくの記憶を、一度封印してくれないかな。そうして、改めて仲良くなれればいいなと思って。一からやり直したいから、強めに――そんなことができるならだけど――頼むよ」
まだ心身ともに復調してこないすばるは、ぼんやりとした声で、「あ、はい、いいですよ」とクロウの額に再び手を置く。
「では、慎くんの記憶を……できるだけ、固く封印……」
慎はまたもすばるの、一瞬緊張を見せた手を取り、彼女の白い額に押しつけた。
すうっと、すばるの目が遠くを見る。
慎はその隙に、すばるのスカートのポケットからスマートフォンを取り出すと、すばるの右手の親指だけをつまんでその腹でロックを外し、メッセージアプリから自分のアカウントを消した。
「すばる。君が大切だった。大切に思える人に出会えて、幸せだった、とても。本当に、出会えてよかった」
夢が二つともかなう。君が死ななくなることと、僕がこの世から消えること。こんなに幸せなことはない。
言葉とは裏腹に、氷の杭で胸を貫かれるような思いの中で、それでも確かな充足感とともに、慎はひとりごちる。
一度封印を解いてしまったすばるの記憶には、どうしようもなくすばるを傷つけるものもある。
だがその気になれば、すばるは己を死に追い込む記憶を再び自分で封印できる。慎と雨幸のことを忘れれば、もう死にたがることはない。
いつか、すばるが言ったのだったか、自分たちは奇跡的な結論にたどり着いたと。
その通り、慎はすでに奇跡に出会っていた。
相馬慎にとって、座馬すばるに出会った日は、いわば魂の誕生日だった。こんなにも救われた思いをすることは、一生ないと思っていた。
そして、今日が命日になるという、それだけ。
さよなら、すばる。
つらくても、生きてきてよかった。
すばるが慎を忘れた今、増幅された慎の消滅志向を止められるものは、本人を含め、ここにはない。
慎は、虚空化を最大出力で発動した。
川面の霧が吹かれてかき消えるように、慎が極限までゼロに近づく。
力は失せ、思考はなまり、存在が重力に負けていく。誰からも見えない、誰にも彼の声はもう聞こえない。
すばるの腕をつかんでいられなくなり、慎はその手を放した。世界からも。
そして少しでも見つかりにくいように、これまでもそうしてきたように、人から見えないような片隅へと体を持っていく。動けたのはそこまでで、もう手足がすっかり萎えてしまった。
やがて、すばるが眠りから覚めるように目を見開いた時。
彼女の周りには、三匹の犬しか見えなかった。
「あ……あれ? 私、なにしてましたっけ? 散歩? お散歩の途中……ここは……?」
戸惑いながらも立ち上がろうとし、
「あ、なんだか痛い!? 体が痛いです!? ど、どうして!? わ、爪が割れています! 床が汚い!?」
慌ててリードを手に束ねたすばるは、玄関から外に出ようとして、靴がないことに気づいて引き返し、三匹の犬を連れてガラス戸から外に出た。
「わあ、暗い! 今日、お母さんは泊まりですよね……よかった。でも、早く帰らないと」
その声を遠くに聞きながら、もはや座っていることもできない慎は、汚れた床に同化するように身を横たえていた。
自分が泥水になったように思えた。このまま流れて消え失せてしまえたらいい。
意識を失うほどに虚空化を進めれば、やがて勝手に体は自壊するだろう。
これでもう阿島雨幸も、相馬慎も、面影の痕跡も残さずに彼女の前から消滅する。
すばるを自殺に追い込むつらい記憶も、もうよみがえらせる者はない。
すばるの希死念慮を原因ごと解決するなどというのは、もとより慎にはかなわないことだったのだ。
だからこれでいい。
どうしてか、涙がこぼれた。
力なく頬を横切ったいくつかの雫が、衰弱した皮膚を削り、流れた跡に血が滲んだ。
そこへ、ガラス戸を開けて、すばるが戻ってきた。
廃屋の中へ顔を突き出し、居間の中を見回す。
雨の去った空からは雲が消え、月光がまぶしいほどに降り注いでいた。
「なんでしたっけ……本当に、どうして私、こんなところに……あれ?」
物の少ない家の中に入り込んだ月明かりの中に、何かが見えた気がした。
目を凝らすと、床に落ちたいくつかの水滴のようだった。
「家の中に、雨? 雨漏りでしょうか……。平屋ですし、古い家ですしね……」
彼女の眼には、もう慎は見えない。
ガラス戸を閉じると、すばるは空き家を背にして、帰途についた。
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