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7

 その時、部屋の隅でおとなしくしていた犬たちが寄ってきて、すばるの顔を舐め出した。


「ひゃあ。ひえ。くすぐったい……」


「すばるの犬たち、僕にも結構愛想よくしてくれるのは、見た目とかにおいが雨幸さんに似てるからなのかな」


「……ううん、今となってはそこまでは……」


「ね、すばる。すばるの記憶封印て、犬にも効くのかな」


「え、どうでしょう。試したことはないですけど……」


 極力平静を装い、慎は言った。


「一番年長なのはヨシカド? なら、試してみてくれないかな。雨幸さんの記憶を封印してもなついてくれたら、純然たる僕と彼らの相性なんだろうから。できれば元の飼い主の身代わりじゃなくて、僕は僕として彼らと仲良くなりたいからさ」


「いいです、けど……。慎くんそんなに、犬がお好きでしたか?」


 体もだが頭も疲労困憊のすばるは、いきなり変わった話の展開にあらがうこともなく、唯々諾々と従う。

 慎に助けられて少し体を起こすと、正面からヨシカドの額に右手を置いた。


「それでは、雨幸さんの記憶をですね……」


「うん」


 すばるの右手に力がこもる。

 その瞬間、慎はすばるの右手を素早くとると、すばる自身の額に手のひら当てさせた。

 そのタイミングは、たった今目の前で何度か行われた封印の様子を見て、充分に計れていた。


「あっ?」


 力なく声を上げたすばるが、しかし、目の焦点を失う。

 しばらく、そうしていて。

 やがて視線に意思が戻ってきた時には、慎はすばるの腕を放していた。


「……あれ? 私今、なにか……」


 どうやら成功した。次だ。慎は奥歯に力を込めた。


「すばる、実はさっきここに入ってきた時、慌ててたからヨシカドを蹴飛ばしちゃったんだ」


「え、そうでしたか」


 すばるはまだ茫洋としている。


「だから嫌われたみたいで。ヨシカドの中のぼくの記憶を、一度封印してくれないかな。そうして、改めて仲良くなれればいいなと思って。一からやり直したいから、強めに――そんなことができるならだけど――頼むよ」


 まだ心身ともに復調してこないすばるは、ぼんやりとした声で、「あ、はい、いいですよ」とクロウの額に再び手を置く。


「では、慎くんの記憶を……できるだけ、固く封印……」


 慎はまたもすばるの、一瞬緊張を見せた手を取り、彼女の白い額に押しつけた。

 すうっと、すばるの目が遠くを見る。

 慎はその隙に、すばるのスカートのポケットからスマートフォンを取り出すと、すばるの右手の親指だけをつまんでその腹でロックを外し、メッセージアプリから自分のアカウントを消した。


「すばる。君が大切だった。大切に思える人に出会えて、幸せだった、とても。本当に、出会えてよかった」


 夢が二つともかなう。君が死ななくなることと、僕がこの世から消えること。こんなに幸せなことはない。

言葉とは裏腹に、氷の杭で胸を貫かれるような思いの中で、それでも確かな充足感とともに、慎はひとりごちる。


 一度封印を解いてしまったすばるの記憶には、どうしようもなくすばるを傷つけるものもある。

 だがその気になれば、すばるは己を死に追い込む記憶を再び自分で封印できる。慎と雨幸のことを忘れれば、もう死にたがることはない。


 いつか、すばるが言ったのだったか、自分たちは奇跡的な結論にたどり着いたと。

 その通り、慎はすでに奇跡に出会っていた。

 相馬慎にとって、座馬すばるに出会った日は、いわば魂の誕生日だった。こんなにも救われた思いをすることは、一生ないと思っていた。


 そして、今日が命日になるという、それだけ。

 さよなら、すばる。

 つらくても、生きてきてよかった。


 すばるが慎を忘れた今、増幅された慎の消滅志向を止められるものは、本人を含め、ここにはない。

 慎は、虚空化を最大出力で発動した。

 川面の霧が吹かれてかき消えるように、慎が極限までゼロに近づく。

 力は失せ、思考はなまり、存在が重力に負けていく。誰からも見えない、誰にも彼の声はもう聞こえない。


 すばるの腕をつかんでいられなくなり、慎はその手を放した。世界からも。

 そして少しでも見つかりにくいように、これまでもそうしてきたように、人から見えないような片隅へと体を持っていく。動けたのはそこまでで、もう手足がすっかり萎えてしまった。


 やがて、すばるが眠りから覚めるように目を見開いた時。

 彼女の周りには、三匹の犬しか見えなかった。


「あ……あれ? 私、なにしてましたっけ? 散歩? お散歩の途中……ここは……?」


 戸惑いながらも立ち上がろうとし、


「あ、なんだか痛い!? 体が痛いです!? ど、どうして!? わ、爪が割れています! 床が汚い!?」


 慌ててリードを手に束ねたすばるは、玄関から外に出ようとして、靴がないことに気づいて引き返し、三匹の犬を連れてガラス戸から外に出た。


「わあ、暗い! 今日、お母さんは泊まりですよね……よかった。でも、早く帰らないと」


 その声を遠くに聞きながら、もはや座っていることもできない慎は、汚れた床に同化するように身を横たえていた。

 自分が泥水になったように思えた。このまま流れて消え失せてしまえたらいい。

 意識を失うほどに虚空化を進めれば、やがて勝手に体は自壊するだろう。


 これでもう阿島雨幸も、相馬慎も、面影の痕跡も残さずに彼女の前から消滅する。

 すばるを自殺に追い込むつらい記憶も、もうよみがえらせる者はない。

 すばるの希死念慮を原因ごと解決するなどというのは、もとより慎にはかなわないことだったのだ。

 だからこれでいい。


 どうしてか、涙がこぼれた。

 力なく頬を横切ったいくつかの雫が、衰弱した皮膚を削り、流れた跡に血が滲んだ。


 そこへ、ガラス戸を開けて、すばるが戻ってきた。

 廃屋の中へ顔を突き出し、居間の中を見回す。

 雨の去った空からは雲が消え、月光がまぶしいほどに降り注いでいた。


「なんでしたっけ……本当に、どうして私、こんなところに……あれ?」


 物の少ない家の中に入り込んだ月明かりの中に、何かが見えた気がした。

 目を凝らすと、床に落ちたいくつかの水滴のようだった。


「家の中に、雨? 雨漏りでしょうか……。平屋ですし、古い家ですしね……」


 彼女の眼には、もう慎は見えない。

 ガラス戸を閉じると、すばるは空き家を背にして、帰途についた。



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