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引き出しから取り出したのは、雨幸と裏に書かれた写真。コピー用紙へのプリントアウトではなく、成人式かなにかの記念に写真館で撮ったらしい。飲酒運転の事故に巻き込まれて死亡したという、慎の姉の弟――伯父。
阿島は祖父の姓だ。
写真に映った顔は、慎とよく似ていた。慎の母親とも似ていた。造作だけでなく、あいまいな表情の作り方がそっくりだった。確か男の子は遺伝子の染色体の関係で、女親に似やすいのだったか。
写真には、紙束が紐でくくられている。
開いてみた。
一見して、それは、光暦正会の調査資料であると知れた。新聞記事の切り抜きもあれば、ノートに直筆で書かれた文章もある。不動産関係の記録が多いようだった。
伯父は、光暦正会を調べていた。なんのために。少なくとも入会のためではないことは、少しページを繰るだけで手書きの文章からにじみ出てくる、カルト集団への嫌悪感で分かる。
祖父は、この伯父もろくでなしと言っていた気がする。もし伯父が光暦正会の転覆でも図っていたのなら、会を憎んでいる祖父母とは意気投合しそうなものだが。
いや、そんなことは今は置いておく。慎は顔を上げた。
「すばる……」
先に明音からすばるの名前や容姿を聞いたのは、慎にすれば僥倖だった。
それだけで封印を解除することはできなくとも、迷路の終点を先に知り、そこまでの経路をたどるのは、始点しか知らないで出発するよりもずっと容易だった。
分からないことは、まだまだある。
だが、今やらなくてはならないことのためには、すべては些事だった。
慎は、夕飯はいらないと祖母に伝える余裕もなくこちらを見ていた明音に手を振ってから、日の暮れた外へと駆け出した。
そのころには相馬慎は、座馬すばると光暦正会のことを完全に思い出していた。
慎は、すばるの能力に勝利した。
■
すばるの右手をつかんだのは、すばる自身の左手だった。ナイフを奥の廊下へ放り捨て、まるで別の生き物のように、すばるの右手首を絞り上げてくる。
「な……!?」
いくら力を抜こうとしても、左肩から先の筋肉の怒張は増すばかりだった。華奢な右手首だけでなく、左手の指と手首の関節も悲鳴を上げている。
「なぜ……!? これは、なに!?」
あまりにも異常だった。
いくらなんでも、人に言い聞かされた自殺の禁止などで起きる現象ではない。
すばるは、自分の左手に残りの体が食らわれるような恐怖を感じた。
だが左手はあくまで右手を止めようとしているだけで、それ以上の加撃の意思は――意思などというものがあるのならだが――感じられない。
ついに、右手がすばるの額から完全に引き剝がされた。
するとようやく、左手の力がゆるゆると抜けていく。
「なんなんですか、これは……!?」
荒い息をつき、肩を上下させながら、すばるは自分の両手を見下ろす。
それから、そろ、と右手で再び額をつかもうとした。
すると、すばるの支配下に戻っていたはずの左手が鎌首をもたげ、獲物に近づく蛇のように右手をとらえようとうごめく。
そうしている間にも、すばるの自殺念慮は行き場を求め、体の中で荒れ狂っていた。
猫化の獣が跳びかかるように、右手が再びすばるの額に食らいついた。
その手首を、これも再び、左手がとらえて引き剝がす。
しばらく互いの腕は拮抗していたが、利き腕の分、やがて右手が優勢になった。
だが左手は爪の先を右手首に食い込ませ、それが無為であると悟ると、今度は右手の指を一本一本つかんで外していった。右手は力任せにそれにあらがう。
こちらも力任せの左手に、右手の中指がほとんど手の甲につくのではないのかというくらいに反らされて、すばるは激痛に悲鳴を上げた。
心の傷。体の痛み。無数の混乱。恐怖と絶叫。
その繰り返しの中でのたうち回りながら、すばるの意識は遠のいていった。
どのくらいそうしていただろう。
すばるが正気に戻ったのは、名前を呼ばれたためだった。
もう二度と聞くことはなくなったはずの声で。
「すばる!」
どうして、と言おうとして、すばるはせき込む。弾けた息には血が混じっていた。
叫びすぎて、喉が切れていたらしい。
「どうして僕の記憶を封印なんかしたんだ! どうして……」
助け起こされて自分の体を見下ろすと、すばるはひどい状態だった。
スカートはあちこちが擦り切れて、肌にもいくつもの擦過傷がついている。
涙はもちろん、よだれも流れていた。歯を食いしばりすぎたのか、顎が上手く動かない。
羞恥心から、反射的に慎を押しのけようとしたが、上半身にはまるで力が入らない。特に、腕には。
すばるは、慎を見る。よほど慌てていたのか、靴を履いたままなのが、少しおかしかった。
「……死のうとしたんだね? でも、できなかった?」
重力に頼って、すばるは小さくうなずいた。
「すみません……しん、くんには……幸せになって、ほしかっらのですけろ……」
「すばるのことを忘れたら、なれないよ。……救急車を呼ぼうか」
今度は、なんとか首を横に振る。
「けがは、たいしたころ……ないれす……いろいろみられたく、ない……」
慎は、努めて冷静であろうとした。
だが記憶封印を破った反動は、慎の中でも猛威を振るっていた。
すばるへの想いが、津波のように押し寄せてくる。
光暦正会への怒りと憎しみが、黒雲のように湧く。
目の前でぼろぼろになったすばるを見て、それらが不条理に結びつき、慎は自己嫌悪に圧し潰されそうだった。思考が、衝動に塗り込められていく。慎の消滅志向もまた、その原因である光暦正会の記憶のせいで激しく煽られている。
震えそうな声を、慎は静かに絞り出した。
「ごめん、すばる」
「なにが……ですか?」
「阿島雨幸は、僕の叔父なんだ。顔が僕にそっくりなのは、そのせいだ。彼が、君のためにやった封印だったのに、僕のせいで……それで、すばるが……」
「しんくんのせいや、あいませんよ……そうなんれすか……おじ……しんくと……?」
「光歴正会だって、直接的ではないにせよ、僕が関わっていて……そうだよ、阿島雨幸が君の知り合いだったのは、偶然じゃないのかもしれない。彼は会のことを調べて……なんのためだかは、分からないけど……」
慎は、なんとか思考を論理的に組み立てようとした。
だがそれができない。
自分はどうすべきなのかという問いを、どうしたいのかという感情が覆い隠していく。
すばるを救いたい。そしてそれを最後に、消えてしまいたい。それだけが今の慎の願いだった。
なんとかしなければ。
かつて、阿島雨幸が記憶を封印させることですばるを自殺から遠ざけたように。
だが今の慎が、なにをどうやって?
慎は、部屋のある一方へ視線を巡らせた。
そこには、主人の異常事態をどうすることもできずに見守っていた、三匹の犬が身を寄せ合っている。
頭の中で歯車が噛み合う。
慎の感情が求める答えへの到達には、思考が邪魔されることがなく、時間はかからなかった。
すばるの希死念慮は、記憶に紐づけられている。
だから、封印された記憶を刺激するようなきっかけがなければ、死にたがることはない。
つまり、慎と阿島雨幸の顔や名前に出くわさなければいい。
かといってすばるに、慎と雨幸の記憶を封印しようと言っても、首を縦には振らないだろう。
なら、どうすればいいか。
「すばる。今日封印解除した記憶の中で、特につらいものを、もう一度封印するんだ。死なないために」
すばるの目から、新しい涙がぽろぽろとこぼれる。
「ごめんらさい、しんくん……わたし、しにたい……」
「分かるよ。君の希死念慮を否定しない。ただ、今は言うとおりにして」
「こんらに、しにたいのに……? わたしもう、いきたくらんか、らいんれすよ……?」
「今の君が、生きたがっていた時の君よりも正しいとは限らない。今の気持ちが過去のそれよりも正しいとも限らない。行きたいと死にたいはゼロと百のどちらかじゃないし、反対語ですらない。対決させるものじゃないはずなんだよ。今はただ、早まらないで。君を死なせてしまうものを、君から遠ざけるんだ。すばるの気持ちが変わるまで」
反動が落ち着くだけでも、気の持ちようが今とは変わるはずだ。さらにそう説得されて、熱に浮かされたようだったすばるが、それでも、よろよろと右手で額をつかんだ。
何度か、力が入ったり抜けたりするすばるの手の甲の筋と、そのたび魂が出入りするように呆けてはかぶりを振る彼女の様子を見ながら、慎は静かに覚悟を決めていく。
「これれ、……いいと思います……今日まれと、そうかわららいくらいにしました……」
「うん。これから、すばるがそうしたいと思うなら、だんだんに封印を解除していこう。必ず、僕がいる時にね。一人の時はだめだよ」
「……はい……」




