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5

 慎は、帰途についていた。


 見覚えがあるような、ないような町。

 一人でぶらりと、用もない駅で降りるような趣味は慎にはなかった。

 なぜ自分はここにいるのだろう。

 両親に連れられてきたのだろうか?

 いや、両親はだいぶ前に家を出ている。

 ……なぜだったろう?


 すばるは、慎の、光暦正会の記憶も封印していた。

 すばるが通常の精神状態ではなかったために深い考えもなく、慎に忘れてもらいたい忌まわしい記憶をとっさに隠したのだが、おかげで慎はぼんやりと混乱していた。

 駅に着き、家の方向を確認して電車に乗る。


 ほどなくして、自宅に着いた。

 祖母が自分たちの夕飯の用意をしている。慎がただいまと言うと、作り置きしてあった慎用の夕飯が別にあったが、手がつけられていなかったので、これから食べるのかと訊かれた。たぶん、と答えた。

 祖父は居間でコーヒーを飲みながら、スマートフォンで新聞を読んでいる。


 祖父にもただいまと挨拶をして、二階へ向かう。

 あれ、と思った。

 つい最近、ここでこうして、誰かと階段を上がった気がする。


 だが虚空化でいずれこの世から消え去りたいと常々願っている慎に、家に連れてくるほど親しい友人をわざわざ作るとは自分でも思えない。

 帰路の間中ずっとひねり続けていた首をもう一度かしげて、慎は自室のドアノブを手にした。


 その時、階下から上がってくる足音が聞こえた。振り返ると、トイレに行ってきたらしい、ジャージ姿の明音が立っていた。


「あ。……ただいま」


「お、お帰りなさい」


 慎としては、明音にはできれば引きこもりから回復してほしいとは思いつつも、なぜかこうして部屋の外で出くわすと妙に落ち着かない。


「えっと明音、」


「え、なに?」


 通り過ぎようとしていた明音が驚いて立ち止まる。

 慎にすれば、最近は必要最小限の会話しか交わしていなかったはずなので、なぜ呼び止めたのかは自分でも分からなかった。


「あ、いやあの、もうすぐご飯だと思うよ。部屋で食べる?」


「……うん。そっちは、今日は一人なの?」


「今日はって? 僕はいつもわりとぼっちだけど」


「……なんかごめん。ほら、すばるさんは? 今日晩ご飯一緒に食べてるのかと思った。うちには、また来ないの?」


「すばるさん? 誰?」


 振り向きざまの半身のままだった明音が、ぎょっとして体を慎に向けた。


「いや、この前連れてきた女の子。仲いいんじゃないの?」


「僕が? 女の子と?」


「え噓でしょ? ほら犬飼ってるとかさ、教えてくれた人。ついこの間来たじゃん。……彼女って感じじゃないなとは思ったけど、それにしたって」


 犬を飼っている。女の子。

 この階段を、一緒に上がった誰か。

 慎の記憶にはない。記憶にはないのだが、なにかが引っかかる。

 明音はまだなにか言っていたが、慎は思わず手を動かして、ドアを開けた。

 見慣れた自分の部屋だ。電気をつける。代り映えのしない様子。当たり前だ。

 だが、ここでかつてないことが、なにかあったような気がする。どうしてだろう。

 かつてないこと。僕がこの部屋に他人を入れた? そんなことはまずないはずだ。それも女子を? すばるさん?


 自問しながら足を踏み入れる。

 直線だらけの部屋。でも、ライトだけが円形。そんなことをわざわざ、最近口にしたような。なぜ?


 気にするほどでもないような、ささいな引っかかり。

 通り過ぎてしまえばそれまでの、とるに足らないもの。

 だが。


 慎は自室を出て、明音の部屋のドアの前に立った。


「え、あたしの部屋入るの?」


 明音の言葉に、慎は答えられない。切羽詰まった感覚がして、いつの間にか余裕がない。

 ほんの少しつまむ力を緩めれば、永遠に奈落に消えてしまいそうな、か細く頼りない違和感。

 それを、慎は絶対に手放したくない心持ちになっている。

 どうして。


 少し前に、明音と、明音の部屋で会話をした気がする。

 しかし、なぜ。わざわざ、引きこもっている妹の部屋に入るほどのことが、あっただろうか?


「……明音」


「な、なに?」


 ドアの前で立ち尽くしたまま、慎は明音を見もせずに訊いた。


「そのすばるって人、どんな人?」


「どんなって……座馬すばるさん? 大人っぽい、色白で黒い髪の、きれいな人でしょ。ちょっと目がきつそうだけど、話してみると優しいよね。犬三匹飼ってて、クラスメイトだって。……あたしとおしゃべりするために、連れてきてくれたんでしょ」


「知らない……」


「ええ? 絶対、そんなことないって。どうかしちゃったの? お兄さん」


 明音がそう口にして、慎は弾かれたように妹を見た。


「……明音。今、なんて?」


「いや、だから……あたし、記憶喪失でしょ? だからあなたのことも覚えてなくて、きょうだいってなかなか呼べなかったんだけど……。そうだよ、そのすばるさんが、機会があればでいいから、お兄さんと呼んでみてあげてくださいって言うから、あたし練習してて」


 すばる。座馬すばるという人間が、慎の紹介でここへ来た。

 記憶にない。この間というほど最近のことなら、いくらなんでも覚えていないわけはない。

 だが。


 慎は階段を下りた。

 見慣れた玄関。見慣れたドア。

 その先で、……覚えていない、覚えていないが、あの玄関に脅威が迫ったような気がする。

 どんな脅威なのか。

 覚えていない。

 それを、誰かが助けてくれた。

 けれど覚えていない。

 どうして。


 明音が、後を追ってきて告げた。


「それにあたし、実はちょっと聞こえてたんだ。あの日、光暦正会の人たち来てたでしょう。で、すばるさんが追い返してくれたんだよね? その人たちがあたしたちの両親をおかしくしたんでしょ? すばるさん、凄いよね。あたし、今度連絡先交換したいな」


 光暦正会。

 慎の頭の奥が、ずきんと痛んだ。

 初めて聞く名前だ。

 しかし、その禍々しい響きは異常だった。


 座馬すばる。光暦正会。

 慎の頭の中に二つの大きな点が浮上したことで、それらをつなぐくびきも現れてくる。

 自分は知っている。どちらも。だが、覚えていない。どうして。こんなにも、それぞれの言葉の(おん)を思い浮かべるだけで、寒気がするのに。

 それらを覚えていない(・・・・・・)ことは、|とても恐ろしいことに違いない《・・・・・・・・・・・・・・》のだというように。


 今、明音はなんと言った。記憶喪失。そうだ、記憶。自分は記憶を失くしているのか。

 だが、どうして。

 さきほどから、いくつものどうしてとなぜが慎の中で明滅している。


 その疑問を手放すな、と慎の本能が叫んでいた。取り返しがつかなくなると。どうして。なぜ?

 座馬すばる。光暦正会。犬を飼っていて。黒い髪。クラスメイト。この家で。僕の部屋。明音と。玄関で。記憶喪失。両親は。おかしくなって。座馬すばる。光暦正会。……


「ぐっ……!」


 慎は、自室に飛び込んだ。

 ドアを閉めもせずにベッドに倒れこみ、両耳を両手で押さえ、今思考の中に浮かんだ言葉を一つも漏らすまいとする。

 明音がドアの外から心配そうに声をかけてくれていたが、今の慎には届かなかった。

 

――いきなり忘れたものだけを聞いても、思い出しにくいみたいです。芋づる式というか、小さなきっかけから順序だてて記憶を引き出していくのがコツのようです――


 なんだったっけ、それは。

 誰に聞いた言葉だった?

 座馬すばるに? 顔も名前も知らない女の子に? どうしてそんなことを言われた?


 自分は、なにかを失くしている。とても大切ななにかを。このまま記憶の淵の底に失われてしまうことを思うと、恐ろしくて仕方のないほどのものを。

 それがなんなのか、もう少しで思い出せそうな気がする。

 なにか、もう一つ。もう一つだけ、引っかかりを。

 この指をかけられる、崖っぷちの手がかりを。

 なにか。


 あの町。なぜか僕がいた、さっきの町。……犬がいた気がする。犬? どうして。

 見覚えのある平屋。その中の誰か。住人? 違う。あの古く傷んだ家で暮らしているわけではない。あそこで暮らしていたのは、

 アジマアメユキ。


「アジマ……アメユキ……」


 彼の名前の記憶は、封印されていなかった。

 明音が部屋の外でつぶやく。


「アジマ? 誰それ? 親戚の誰か? だってそれ、」


 だってそれは――


 慎は続きを聞かずに部屋を飛び出て、仏間へと向かった。

 雑多にものが――一応、位牌や遺品だったが――置かれた仏壇の前に膝をつく。

 今まで一度も開けたことのない、黒い引き出しを開けた。

 いくつかの紙束をあさって、慎は、どうやら目当てのものを見つけた。


 ――あの人の名前はアジマアメユキといいます。知らない人でしょう?


 知っている。僕はアジマアメユキを。誰に、知らないでしょうなんて言われた?


 ――慎くんは、もともと無関係なんです


 無関係? 誰と?


 ――だから


 だから?


 ――さよなら


 それは、誰が言った?

 誰が。

 誰って。それは……


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