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 すばるが自嘲した。両手で口を押え、くぐもった声で続ける。


「死にたい。生きていたくなんてない。死にたいが生きたいだなんて嘘。もう起こったことはなかったことにはならなくて、一生私の中には残ったまま。私は死ぬまでずっと死にたいままなんです。そんなの、生きているって言えますか?」


 慎が腰を浮かせた。


「すばる。僕は悠長なことを言ったよね、ごめん。今聞かせて。君がどうして死にたいのか」


「小学生の時、私がされたことは、ものに落書きされたりだとか、そんなものじゃなかったんです。あまりにもひどいものは、覚えていたら生きていけそうにないから、記憶を隠してありました。直接的な暴力もありました、それに動物の、……お金も、……家にまで、……友達だからとか言って、家の……私の、」


 みるみるうちにすばるの目が大きく見開かれ、瞬きが止まり、涙がこぼれ落ちた。


「誰も止めてくれなくて、……報復が怖くて黙っていたなんてことはありませんでした、先生にも何度も、でも全然……、当時、もう、スマホを持っていた子が、……私を」


「すばる」


 すばるの頭の中で渦巻いているであろう地獄の光景に、慎が思わず口を挟んだ。


「お、おもちゃでした、私は。どこまでやったら壊れるんだろうって、そんなふうに楽しむおもちゃ。生まれてくるんじゃなかったって思った。こ、怖いのは、私は一生死ぬまで、今されていることを忘れられないんだろうっていうこと……」


 すばるが、がちがちと奥歯を鳴らしながら言う。


「だから手首を切ったんです。他愛なくなんかなかった。全然、そんなものじゃなくて、毎日消えたかった。リストカットでも首吊りでも、なんでもよかった。そ、その記憶を封印していたから、理由がないなんて……あんなに、毎日、あんなことされたのに!」


「……ご両親は?」


「ぜ、全部じゃありませんけど、たいていのことは打ち明けました。凄く苦しくて、自分がとても情けない人間のように思えましたけど、それでも。あなたたちの子供は落伍者ですって伝えるみたいで、最後の最後までできないでいた。でも、首を吊る前に、本当のことは誰かに、知って欲しかったから。でもお父さんは……子供はそういうものだ、ってうるさそうに言うだけで……せめてちゃんと聞いてって、何度もお願いしたら、家に帰って来なくなって」


「……すばるのお母さんは、光暦正会にますます……?」


 すばるの涙はすでに雫ではなく、筋になってとめどなく流れている。


「そ、そうです。でも、私を心配しているというよりは、し、し……しっ、」


 慎は、察して止めようとした。本人の口から言わせるべきではない言葉というものがある。

 しかし。


「し、失敗作を作ってしまった、その後悔というか、ショックというか……。私、はっきり言われました、失敗だったって。だからあんなにのめり込んで、まるで……そうすれば、失敗がなかったことになるみたいに、光暦正会の人に言われて……」


 慎は、胸がちぎれるような苦しみを味わっていた。だが、それを顔には出さない。歯を食いしばって耐えた。被害者は、すばるだ。自分が傷ついていてはいけない。


「ご両親は、そのことは今も?」


 すばるがかぶりを振る。濡れた髪が揺れた。


「わ、忘れさせました。絶対に覚えていて欲しくなかったし、私も覚えていたくなかった。だから二人共の記憶を隠しました。……お父さんは趣味的な人で、もともと子供は欲しくなかったんだそうなのに、できた子供がこんなのでした。お母さんはなんでもできる人だったのに、私のせいで、子育ては失敗したって会社で陰口を叩かれたって。申し訳なくて、情けなくて、自分のことなら我慢できても、人に迷惑をかけているって本当に耐えられなくて」


 慎は、もうどこへ腹を立てていいか分からない。

 すばるが、スカートのすそを握りしめながら言う。


「思想団体の活動のために、職場での信頼も人間関係もなくして、全部私のせいだって。学校でも家でもこれでは、私、なんのために生まれてきたんですか。全部だめじゃないですか。こんな思いをして長生きしても、なんの意味もない。私は、失敗だったんです。傷ついて悲観的になったのを通り越して、生きている意味がなくなってしまった。だから、もういなくなろうと思って……」


 慎は、あのやたらと平和的に見えたすばるの母親の様子に合点がいった気がした。

 おそらくすばるは、母親が娘に放った侮蔑の言葉、その記憶の多く――あるいはことごとく――を封印したのだ。

 だから母親の中では、すばるのことを心配しながらも穏やかに見守って暮らしてきた記憶ばかりが残っている。


「それも、記憶を封印する前のお母さんに言った?」


「い、言いました。そうしたら、……死ぬ死ぬ言ってる人ほど本当には死なないのよ、って」


 慎の背筋に悪寒が走った。母親の態度と、その時のすばるの気持ちを思って。

 すばるは、たとえ自殺しても、母親が娘への仕打ちに後悔を抱きながら生きることになるかもしれないことをよしとしなかった。だから記憶を封印してやった。幼いすばるのその気高さに、慎の肩が震えた。


 同時に、不用意に深刻な記憶を取り戻させるきっかけを慎が作ってしまったことを、胸中で歯噛みしながら苦々しく思う。

 早まるべきではなかった。拙速な封印解除は、無理にでも止めるべきだった。いや、解除を持ちかけること自体に、もっと慎重になるべきだった。

 心のどこかで思い上がっていたのだ。自分がいれば、すばるは自殺念慮を乗り越えることができると。二人でなら、どんな記憶にも立ち向かえると。絆の過信が、自分を盲目にしていたのだと。


「でも私には、一人だけ、真剣に話を聞いてくれる人がいました。近所に住んでいた男の人で、当時もう大人でした。私が外で泣いていたら、その人が犬の散歩をしていたのがきっかけだったんですけど。その人に、私はすっかり自分の自殺願望の理由を話して、それから死のうとしたんです。親でも取り合ってくれなかったのに、その人は真剣に話を聞いてくれました。まるで、自分の家族の話を聞くみたいに。そして――」


 すばるが、すぐ横にいたクロウの頭をなでる。


「――そして、私に言いました。『死ぬな』って。不思議なもので、そうしたらなぜか私、絶対に死んじゃいけないって、心から思えたんです。もう首を吊るロープも、吊る場所も用意してあったのに。ナイフで手首をどう切ればいいかも調べてあったのに。……とても真剣に、まっすぐに言われたからかもしれません。現金ですよね、子供って」


 慎には、そこには少し違和感があった。

 いくら心を許した相手でも、ひとこと言われただけで、ぎりぎりの窮地に追い込まれた精神状態の子供があっさりと宗旨替えするだろうか、と。

 だが、口を挟む気にはなれない。


「でも、もちろん完全に前向きになれたわけではなくてですね。死にたいのは、死にたいんです。実際の状況はなにが変わったことといえば、お父さんが出て行ったことくらいですからね。……でも手首を切るたび、あの人の言葉が思い出されて、死ぬところまで行けない。時には、彼の家で傷の手当てをしてもらったこともありました。そんな生活が中学に入ってからも続いて、どう見ても変な子だから友達もできないし、先生もどうしようもないんです。死にたい気持ちも、死んではいけない気持ちも、相殺されないまま際限なく膨らんで、私は頭がおかしくなりそうでした」


 その時を思い出したように、すばるがこめかみに両手を添える。


「その間も、その人はすばると交流は持っていたの?」


「はい。その人は、私を助けようといろいろ動いてくれていたみたいなんですけど、とうとう私の限界のほうが先に来て。彼に、『死ぬなと言ったのを取り消して。もう死にたい』って直談判したんです。それで私、私がいなくなった後もその人が嫌な思いをしなくて済むように、記憶封印のことを教えて、私のことを忘れさせてあげますって言いました。そうしたら彼は、凄く驚いていて……それはそうですよね、ほんの子供にそんなことを言われたら。でも彼は私の話を信じて、ある提案をしてくれました」


「その提案っていうのが……」


 まさにさっき、すばるが反故にしたもの。


「自分で自分の、自殺に駆り立てる記憶を封印することです。それと齟齬を起こさない程度に、お母さんの記憶も。……私もそれは考えないではなかったんですけど、本当にやってしまったら、あまりにも人生がかりそめめいてしまうというか……(かそ)けき生き方になるような気がして、抵抗があったんです。でも結局、そうすることに決めました。中学二年の時です。それで、リストカットは止まりました。そう、家の中が落ち着いたのとは、無関係だったんです……。あはは……」


 そうして、一度蓋をされた記憶を頭の奥に抱えて、すばるは生きてきた。

 またこの時、すばるが持つ彼の記憶も、彼自身からの提案で封印したという。彼とつき合いを持ったきっかけをすばるがさかのぼることが、記憶の蓋を開けることになりかねないから、自分のことは忘れたほうがいいと。


「その通り、私はあの人のことを今日まで忘れていました。ただ、それからの私が、不死身に憧れるようになったのは……きっと、死ぬなというあの人の命令が、無意識のうちに影響していたんでしょうね。とにかく、死なないということを目指して」


 こうして、不死身を(こいねが)う奇癖を持った、座馬すばるという女子高生は生まれるに至った。

 しかしこれにも、慎は少し引っかかるものがあった。

 記憶ごと自殺念慮を封印できたすばるの力が、言ってしまえばたかが近所の知り合い程度の人間の言葉などに、無意識下の影響を許すものだろうかと。

 しかしこれは、そうだったのだと納得するしかないのだろう。


「じゃあその後は、その人とはまったくの他人になったんだ」


「はい。……私が彼のことを忘れてから少し後に、亡くなりました」


「亡くなった?」


「この近所で飲酒運転をして、事故を起こしたそうです。そのニュースを聞いた時は、私は彼のことを忘れていましたから、近所の人が亡くなったとしか思いませんでしたけど……今なら分かります。名前、はっきり思い出しましたから」


 そこまで親身になってすばるに尽力してくれた人間が飲酒運転というのは、慎には今一つ印象が結びつかなかったが。だがこれも、今となっては納得するしかない。


 ただ、それでは済まない問題が残っていた。


「すばる……これを、僕は聞かなきゃいけない。もし、分かるのなら」


「はい」


 雨は降り続いていた。

 それでも、二人の声は互いに明瞭に聞き取れる。


「どうしてすばるは、僕と会うと死にたくなるんだろう?」


「これは……ごく単純な問題でして」


「単純?」


「やっと分かりました。さっき開いた記憶で」


「うん?」


 すばるが立ち上がった。

 スカートをはたきもせずに、数歩歩いて、慎の前にしゃがみ込む。


「すばる?」


 すばるが慎の顔を覗き込んだ。


「そっくりなんです、慎くん。あの人に。あの人が高校生の時、本当にこういう顔立ちだったんだろうなと思います。生き写しと言ってもいいくらい。まるでアメユキさんに、もう一度会えたみたいに……」


 いつしか引きかけていたすばるの涙が、また溢れてくる。

 だが慎は、それを正視できなかった。

 すばるが今見ているのは、慎ではない。二年も前に死んだ、見知らぬ誰かだ。

 名前は、アメユキというのか。

 今はもういない。けれどかつてのすばるの、唯一の味方だった誰か。


 すばるが身を起こす。


「ごめんなさい。あまりにも似ているから、封印された下から、記憶が刺激を受けているんですね、きっと。慎くんは慎くんですよね。失礼なことを言いました」


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