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すばるが目を見開いた。
ややあってから、ぽつりと答を返してくる。
「思い出しました。でも、今は……もう無理ですね。遠くに行かれてしまったので」
「そうかあ。分かった。さて、どうするかな」
「慎くん。なら気分転換に、私と一緒に犬の散歩に行きませんか?」
外は夕暮れ時だった。
七月の日中の散歩は、犬にも人にも大変に不向きなので、日暮れの後に出てくる人も多いのだろう。すばるもその一人ということか、と合点がいって慎はうなずく。
「そうだね。歩いてるうちに、いい考えが思い浮かぶかも」
慎にすれば、妙な雰囲気になってしまった部屋からいっとき出られるのはありがたかった。
「では支度しますので、玄関の外で待っていてください」
すばるは台所でなにやらがたがたやっていたが、やがて散歩の用意が済んだと言って出てきた。
すばるも慎も制服のままで、空が濃紺に染まりつつある七月の黄昏の中へ、騒がしい三匹の犬とともに歩き出した。
西の空には分厚い雲が集まっていたが、先ほどの紅茶に似た明るい暖色がわずかに残っている。
涼しい部屋からこの時間に外に出ると、ぬるま湯の中に飛び込んだようで、独特の心地よさがあった。
雨が降りそうなせいか、人通りはほとんどなく、トワイライトブルーの中へ踏み出すと、まるで巨大な水槽の中を二人きりで歩いているような気分になる。
「僕、傘持ってこなかったな。すばるは持ってきたほうがいいんじゃない?」
「平気ですよ、少しくらい降ったって」
女子のほうが雨に濡れるのを嫌がるイメージがあったので、すばるはあまり気にしないほうなのか、と慎は胸中で勝手に納得する。
「すばるは、お母さんと手分けして散歩してるんだってね」
「はい。でっかいほう二匹が、私の担当です」
ヨシカドとクロウを視線で示しながら、すばるがにこにことして答える。
慎は、犬を連れて歩くすばるを見て、彼女の母親との会話をふと思い出した。
確か、「昔お世話になった近所の人のことを忘れたりして」というようなことを言っていたか。すばるが思い出したという人と、同一人物だろうか。
また、すばるが口にしていた犬の話題のことも思い出した。
確か、飼い出したきっかけはよく覚えていないのだったか。いついた野良犬ならともかく、三匹も飼っていてそんなことがありえるだろうか?
このあたりも、もしかしたらさっき思い出したのだろうか。いや、すべてがつながっていると考えるのは短絡的というものか。
そんな思索にふけったせいで黙ってしまった慎の顔を、いつの間にかすばるがのぞき込んでいた。
「わっ」
時々唐突な行動に出るのは、中学までの人間関係が希薄だったからかな、と慎は自分を棚に上げて思ってみたりする。
「歩きながらの考え事は危ないですよ」
「あ、そうだよねありがとう……。そういえば気になってたんだけど、すばるのお母さんてすばるがその、リストカットしてるの知ってるの?」
「えっ。……まあ……その」
気まずそうに、わざとらしく犬へと視線を逸らすすばるを見て、慎は察する。
「……忘れさせたんだ?」
どうりであの母親は、娘に対してどこかのんびりしていたわけだ。リストバンドについても、その意味まで理解していなかった。
「だ、だって、あれを覚えていられると、いつまでもぎくしゃくしてしまいそうで。私が果物ナイフ持っただけで青ざめたりしていましたから、こう、その、お互いのために……というか……」
すばるの視線がだんだんと足元へと落ち込んでいく。都合よく能力を使うことに、どこか後ろめたさがあるらしい。誰にともなく。
「まあ、そうだね。すばるが部屋で一人でいる間にも、もしかしたら……なんて考えてたら気が休まらないだろうし」
「記憶封印を使いすぎるのは怖い、なんて言っておいて、汗顔の至りです」
まあ悪用しているわけではないのだし、などと慎がとりなしていると、すばるは住宅街からやや外れた小道のほうへ歩いて行った。
空はどんどん暗くなっていく。気をつけないと、小さな段差でもあれば気づかずにつまづいてしまいそうな暗さになってきた。薄暮は夜よりも視界がききづらい。
相変わらず、周囲にはひとけがない。
「こんなところ通るんだ? 道が狭くて歩きにくそうだけど」
そう言いながら、慎は奇妙な感覚に襲われた。
街灯に照らされた、古ぼけたブロック塀。同じく古びた電柱。分かれ道や曲がり角の様子。
以前にもこの町を歩いていた時、郷愁のようなものに襲われたことがあった。しかし今のこれは、もっとはっきりと、慎の記憶と合致する風景だった。
「……あれ?」
「どうしました、慎くん?」
先を歩いていたすばるが振り向かずに訊く。
「いや……僕、ここ、前に……」
気のせいだろう。そう言い聞かせても、なぜか胸の鼓動が早まっていく。
確かここのT字路を右に曲がると、確か、黒い柵のある家があって……
すばるが右へ折れた。
慎が続くと、果たしてそこには、慎の記憶通りの黒い柵で囲まれた家があった。
「あ」
「もう少し、先まで行きましょう」
「すばる……雨が降りそうだし」
「もう少しですから」
すばるが歩いていく。
慎は続いた。
まるで答え合わせをするように、周囲の町並みはどんどん慎の記憶に明確さを与えていき、慎はタイムスリップしたような気分になる。
それにつれて、得体の知れない心細さが、慎の中でとめどなく膨らんでいく。
なぜだ。街並みに見覚えがあるくらいで、どうしてこんな気分になる?
すばる、待って、止まって、と言いかけたところで、すばるが立ち止まった。
周囲には誰もいない。
空き家も多いようだ。
すばるが止まったすぐ横の、木造の平屋の家も空き家だった。表札もない。
どうやら折り返し地点のようだ、と思った時、慎の頬にぽつんと冷たい刺激があった。
とうとう降り出した雨粒はどんどん数を増し、けたたましい音を立てる。
すばるの家までは、走れば十分もかからずに着けるが、これではどんなに急いで帰ってもびしょ濡れだろう。
「すばる!」
「ちょうどよかったです。ここの家で雨宿りしましょう」
そう言うと、慎が止めるいとまもなく、すばるは平屋の敷地の中に入っていった。
仕方なく慎が続く。不法侵入になるのだろうが、なるようになれという気持ちだった。
すりガラスのはまった玄関の引き戸は開かなかったので、庭へ回ると、そこに面したガラス戸があったが、当然こちらも施錠されていた。
すばるが軽く庭を見渡す。あまり広くはなく、雑草が無造作に生えているだけの庭だった。
「すばる、どうかした?」
「犬小屋がないなと思いまして」
「うん? そうだね、犬を飼ってなかったんだろうね。それより、中には入れないよ。庇も小さいし、雨宿りするにはちょっと……」
しかしすばるは、ガラス戸の左右をつかむと軽く上下に揺すった。
何度かそうしていると、鍵が外れたらしく、ガラス戸がからりと開く。
「え!? こういう戸って、そうすると開くの!?」
「いえ、普通は開かないと思います。このガラス戸がそうだったというだけですよ。偶然です。運がいいですね」
当たり前のようにそう言い放って、すばるが靴を脱いだ。
慎も靴を脱いで上がってみると、家の中は片づいていた――というよりものがない――ので、畳敷きの居間らしい部屋の床に二人で腰を下ろした。
外はかなり暗く、当然電気はつかないので、慎のスマートフォンのライトをつけて壁に立てかける。
慎は持っていたハンカチで、遠慮するすばるの足や床をふいてやったが、堅牢にこびりついた古い埃は容易には取り払えなかった。
ただ当のすばるは気にする様子もなくそこへ正座し、一瞬なにやら座りにくそうなそぶりを見せたが、背筋を伸ばして、「ありがとうございます」と長い黒髪に隠れた口元からつぶやいた。
「夕立だから、すぐにやむと思うけど……すばる、なんだか変だね?」
「そうですか?」
三匹の犬は、濡れた体を震わせながら、座ったり回ったりしている。すばるは自分の紺のハンカチで三匹の足と足跡をふいてやったが、この畳の上にいたほうが余計に足が汚れそうではあった。
「さっき封印を外した記憶のせい? ……また言える時に聞かせて欲しいとは言ったけど、もしなにか、」
「慎くん。私、死にたい。死にたくないのに、本当は死にたいです。中学のころにリストカットは一度収まりました。でも本当は、ずっと死にたかった」
声は小さかったが、確たる思いの秘められた声だった。
「……すばる。今夜、どうにかして一緒にいようか」
「いいんです、それは。私、人に大切にされてみたかっただけですから」
すばるの髪を滑り落ちて、いくつかの雫が汚れた畳を叩く。
「私、死にたい。こんなにも。たぶんずっと、生きている間。こんなに死にたいのに、なぜ死んではいけないのか、……だって、だめだって言われたから……」
「誰に?」
「近所に住んでいた人です。いつも私の話を聞いてくれて、私を励ましてくれた、この三匹の犬の、元の飼い主……。そんな人を忘れていたんだから、それはお母さんも私を忘れっぽいと思いますよね」




