<第四章 喪失>
考えたくはないが、慎としては、考えなくてはならないことだった。
慎を見ると死にたくなるすばる。ならば封印されたすばるの記憶というのは、すばるが死にたくなるほどの苦痛をかつて慎が与えたことがあって、その時の記憶ではないのか。
あるいは慎が直接手を下したのではなくても、なにかすばるが絶望的な状況に陥ったことがあって、そこに慎も居合わせたのかもしれない。だから、慎を見ると深層意識でその時のことが思い出されて、死にたくなるということは考えられる。
もちろん慎にはそんな覚えはない。
しかしすばるが相手となると、記憶封印がある以上、自分の記憶というものが通常の場合以上に信用できない。
「すばる……」
慎の問いかけに、呼吸まで止めて硬直していたすばるの目が泳いだ。
「すばる、平気? 話しかけても大丈夫?」
「慎……」すばるの唇がかすかに動いた。それだけで慎はほっとする。「……くん」
「すばる、記憶、戻った?」
「今……ほどけていっています。だんだん……あっ?」
すばるがびくんと体を震わせた。リストバンドを取り去ってしまう。
「どうした?」
「あっ、だめ。だめです。切りたい。慎くん、私、手首切りたい!」
すばるが立ち上がろうとしたので、慎は慌ててその体を押さえた。
見た目以上に華奢な体のつくりにほんの少し戸惑ったが、やむなしとばかりに、すばるの両腕ごと胴を後ろから抱きしめる。
「すばる、だめだ。落ち着いて」
「嫌だ、あ、切らせて。慎くん、ごめんなさい! 切らせて! ごめんなさい!」
すばるの力は、どんどん強まっていった。
腕力自体は慎が振りほどかれるほどではないが、このまま力任せに押さえつけていれば、すばるの体がおかしくなってしまうのではないかと思えるほどの力が込められてくる。
「すばる!」
「ああ! ぐうう、はああぐうううう……ぎいい、ぐううふう……!」
縄にとらえられた野生動物のように、すばるは上半身を激しく揺さぶる。歯を食いしばり、その閉じた歯並びの間から絶え間なくうめき声が漏れた。
慎は、リストカットの衝動にあらがっている状態のすばるを見るのは初めてだった。いつもこんなに激しいのだろうか。これに耐えて、涼しい顔でまた慎と会ってくれていたのか。
それどころではないと思うのに、慎は泣きそうになった。
どれくらいそうしていたのか、冷房は効いているのに二人とも汗みずくになって、乾ききった喉はもうまともな言葉を発するのも難しくなったところで、すばるの体ががっくりとくず折れた。
だらりとした上半身を起こしてやると、慎はすばるの口元に、少し残っていた紅茶を含ませてやる。
「けほ、うう……」
「起き上がれる?」
「は、はい……お恥ずかしいところを、お見せしました……」
「そんなことはないよ、全然。むしろ立派だと思う」
「うう、慎くんお優しい」
すばるをベッドに座らせてやり、慎は少し間を空けて横に座った。
「……すばる、記憶戻った?」
すばるは下を向いたまま、はい、とうなずいた。
「ですけど、今は……まだ……私……これを、私から慎くんに聞かせる、のは」
その後が続かないので、今口にすることは難しいのだと慎は察する。
確かめたいことはたくさんあったが、それを今聞き出すことははばかられた。
言う必要のあることで、言えることであれば、すばるから言ってくれるはずだ。
ひとまずの一歩前進、とは思えたが。
「分かった。じゃ、また改めて、聞かせてもらえることがあったら聞かせてよ。落ち着いてからでいいからね。……でも、すばるの今晩が心配だな」
今さっきの、発作のような状態を見ているだけに、慎としては放っておく気にはなれない。
ただでさえ、こうしてすばると長時間接してもいるのだ。症状は倍加するかもしれない。
「そうですね。一人では、さすがに不安です」
「すばるのお母さんに見ていてもらう、というのは避けたいわけだよね。そうなると……」
「あ、今日お母さん帰ってこないです。実家の祖母の具合が悪いので、見てくると」
ん。と慎の体が固まった。
「え。すばるさっき、もう一二時間で帰ってくるって」
「うっかりしていました。さっきお話の途中で気づいたんですが、わざわざ訂正すると、意味ありげかなと思って黙っていました」
それはそうかもしれないけど……と口の中でうめきつつ、慎は急にいたたまれない気持ちになってきた。
「そこで相談なんですが」
「相談?」
「慎くん、今日うちに泊まりませんか? 私の見張り役として」
「と……っ……」
さすがに思考が停止して、言葉が出てこなかった。
「なにもしませんから」
「それは僕のせりふだろ!? 泊まりません! あそうだ、すばるがうちに泊まればいいじゃないか!? 一部屋くらい、なんとかなるかも!」
すばるは平然と言う。
「外泊は、私にはハードルが高いです」
「僕もだよ!? それも女子一人の家になんて。ああでもどうしよう、ホテルとか……はもっとだめだし、根本的解決になってないか」
「でも慎くん、私になにもしませんよね?」
「もちろんですとも」
すばるは胸に手を当て、
「私もです」
「聞きました」
「部屋も分けます」
「そうでしょうとも。いや、泊まるとしたらね?」
ベッドの上で、すばるが慎のほうへ、ずいと体を寄せてくる。
「以前から疑問だったんですが。お互いになにもしないと誓い合った上なのに、同じ家に泊まる程度のことがなぜいけないんです?」
すばるは、あくまで無垢で無防備な表情を慎に向けている。
だが慎のほうは、制御しようのない感情で胸が焼けつきそうだった。普通ならもう少しは冷静に対処ができるのだろうが、母親が一晩不在だという今知った事実と、すばるのプライベートな部屋のベッドの上に並んでいるという状況が、慎の思考回路を機能不全に陥らせてしまう。
顔が熱くなるのを感じる。慎は、そんなことをする気がなくても、自分が頭に不実なことを思い浮かべていること自体を看破されたくなくて、赤くなった顔をふいとそむけた。
そして言葉を絞り出す。
「し……信用してくれるのは、うれしいよ。でもやっぱりよくない」
「なにがよくないのでしょう?」
「だ、だって知ってる女の子の家だし」
「知らない人よりいいのでは」
すばるが半眼になる。
「そ、そうじゃなくて、その……すばるには僕はすごく気を許してるし、ほかの人とは違うよ。……僕は一応これでもまあ備わった性別としては男なわけで、それが、ああだから、好感度が高い人を……」
「ほほう。私の好感度が」
「だ、高いに決まってるだろ? とにかくそんな人を、万が一にも、都合よく勝手な男の目で見たくないんだ。きっと君が傷つくと思う。……でもさすがに、それを制御する自信がないんだよ」
すばるが体を離して、背筋を伸ばした。
「……すべて納得したわけではありませんが、慎くんが私のことを尊重してくれているのは分かりました。ですので、私も慎くんの意思を尊重します」
「それは、どうも……」
深く息をついて、慎がぐったりと肩を落とした。
「では私は今夜も、タオル縛りつけ作戦で孤独に夜を耐えるとしましょう」
「あ、あてつけがましくない!? ……でもそれ、やっぱり不安だなあ。完璧な対策とは言えないし。……ねえ、すばる」
慎は努めて真顔になる。
「今、言えるようだったら答えてほしい。例の、リストカットを心配してくれた近所の人のことは思い出した? その人に、今夜協力を求めることはできない? そうでなくても、居場所とかは分からないかな」




