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「例の、いじめです」


 すばるが小学五年生の時、思春期に入った男子が好意を抱いて接近してきた。だがその男子は、すばるの隣のクラスの女子と、幼いながら告白を交わして交際していた。

 当然、その女の子はすばるを責めた。

 すばるのぜんそくや、母親が得体のしれない団体に所属していることなどが、すばるを責める格好の材料になった。

 病気だからってなんでもしていいと思うな。自分がかわいそうなことを利用するな。お母さんもだけどあなたもおかしい人間だ。


 すばるの上履きや教科書が隠されたり、落書きがされるようになった。

 それまで仲のよかった友達に無視されるようになり、小学生にしてスマートフォンを与えられたクラスのリーダー格の女子に死角からいきなり写真を撮られもした――なにに使うつもりだったのかは、いまだに不明だが。

 身体への直接的な攻撃はなくても、小学生の少女の精神はどんどん追い込まれていった。


 いじめられているなら先生に相談すればいい、と人は言う。だが、自分がいじめられっ子であると告白することがどんなに子供の自尊心を傷つけるか。

 また、教師の目の届かないところでどんな報復を受けることになるのか。

 ただでさえ横行しているいじめに、「裏切者への罰」という免罪符が付されれば、どれほどエスカレートするのか。

 迫害は、やる側の人格が抱く根源的な欲求に基づいて行われるため、歯止めのかけようがない。どんなに禁止しても、より巧妙に、より多様な手口で、正当化を繰り返しながら飽きるまで続けらる。

 信頼も理性も備わっていない小さな社会での告発は、断絶による孤独へ自ら踏み出すことを意味した。


 そんなにたいそれたことをされているわけじゃない。そう自分に言い聞かせて耐えていたすばるだったが、落書きされた教科書が母親に見つかったことで、事態は発覚した。

 母親は、すばるに学校へ行くなと言った。

 すばるが、学校に行きたくないわけではない、会いたい友達もまだいると言っても、母親は「こんな人間たちとつき合う必要はない」とつっぱねて聞き入れなかった。


 それを聞いた慎は、意外に思った。顔を合わせて少し話した印象では、そこまで強硬な性格には見えなかったからだ。

 すばるが肩をすくめ、「あの時のお母さん、今とだいぶ違ったんですよ」と言う。


 小学校へ通わなくなったすばるは、漠然と、中学に上がれば再び学校には行くし、それまでは母親が勉強を教えてくれるのだろう、と思っていた。

 しかしそんなすばるの想像に反して、母親もまた家に帰ってこなくなった。

 このころにはすでに、母親は、離婚しても困らない程度の収入を得るために仕事に打ち込み始めていたし、すばるにもそう説明していた。


「でも、少し変だなとは思っていたんです。お母さん、その話をするたびに『女が一人で生きていくのは大変だから』って言ってて。私はそれを、一人で私を育てるのが大変だという意味だと、思い込もうとしていたんですけど」


「……そうじゃないの?」


「お母さんそのころ、光暦正会に彼氏がいたんです。一度酔っぱらって、彼とは結婚しないでずっと自由恋愛して生きていくんだって笑ってました。お母さんは文字通り、私と離れて一人で生きていくつもりだったんですよ」


 慎の肩が震えた。いくつもの感情がのしかかって、筋肉がこわばる。


「私のお父さんはその時にはもう、改めて音楽の道に進むために私たちとは縁を切るつもりでした。そしていよいよ離婚という時になって、二人とも自由になるために、私の押しつけ合いを始めて――」


 すばるの声が震えた。


「――お父さんは夢のために、お母さんはその時にはもうどっぷりだった光暦正会と、新しい男の人のために、私のことはもう邪魔だったんです」


 そんなこと、と反射的に言いそうになって、慎は慌てて口をつぐんだ。

 そんなことはない、わけではない。

 慎も一度、冗談で両親に「僕が光暦正会の勧誘に反対したらどうする?」と訊いたら、母親に「そうしたら慎ちゃんはうちの子じゃなくなっちゃうね」と真顔で言われたことがある。


「そうなると、考えてしまうわけですよ。私がいることは、両親の人生には負担でしかないんじゃないか。私の存在は、家族にとってただの負債なんじゃないか。私は、生まれてこないほうがよかったんじゃないかって」


「そんなことはない」


 今度は慎は、はっきりと言った。

 すばるが微笑む。


「ありがとうございます。でも小学生のころの私は、家と学校に居場所がなくなったら、もうそんなふうにしか考えられなくて。私が手首を切り始めたのはそのころなんですが、……これといった理由なんてないと思っていましたけど、今思えば、そういう積み重ねからの逃避だったのかな」


 すばるが、その時のことを思い浮かべながら、左手首を見つめた。


「ですが、結局は、お父さんがこの家と必要なお金を払い続けるということで、お母さんは私を引き取ることにしました。本当に生活の不安は大きかったみたいで。学生のころから、先々のリスクに対して敏感な人らしいんです。私のぜんそくが治るとだんだんお母さんは落ち着いてきて、光暦正会はおかしいと思うようになってくれて退会して、例の男の人とも別れました。落ち着いてしまえば、我が親ながら理性的な人なんです」


 道理で、少なくとも今の慎が見る限りでは、この家には男の影はない。


「近所の人が私のたびたびのリストカットを気にしてくれて、それとなくお母さんに私をよく見るように言ってくれたりしたのも、よかったのかもしれません。第三者の目って、結構大きいですよね。お母さん、今はすごく優しいです。あんな時期があったなんて思えないくらい。お父さんも養育費含め少なくないお金を送ってくれていますから、両親にはありがたく思っています」


「それは、よかった。……その近所の人って、今も仲いいの?」


「あ、いえ、もう顔も名前も思い出せませんけど、なんとなくかばわれた覚えがあるんです。私、薄情なのかもですね」


「それがいくつくらいの時?」


「中学生になってしばらく経つと、お母さんは今みたいな感じになっていて、私ももうほとんど手首を切らなくなりましたね。それからの生活は静かなものです、お母さんも私も。ただ一度人づきあいが苦手になるとなかなか元通りとはいかなくて、クラスではあまり友達はできませんでした。」


 気恥ずかしそうに髪をなでるすばるを見ながら、慎は胸中で首をかしげていた。

 すばるがリストカットを始めたきっかけは、おおよそながら分かった。

 その原因はたった一つの衝撃的な出来事ではなく、複合的なものだというのも理解できる。

 だがそれと、慎を見てぶり返した理由が、今の話だけでは今一つつかめない。


 慎の様子を察して、すばるが小さく身を乗り出す。


「釈然としない感じですね?」


「いや、そんなえらそうなものじゃないけど。……中学に上がってから、いろいろうまくいったんだ?」


「はい」


「……さっきの近所の人っていうのかな。近所の人たち(・・)じゃなくて、一人なの?」


「ううん、よく覚えていないんですけど……たぶん……」


「そこまでお世話になった人を覚えていないって、意外かなって」


 すばるは、そう言われてみると、とつぶやいて口元に手の甲を当て思案顔になった。


「昨日、すばるのお母さんが言ってたんだ。すばるが、忘れっぽいって」


「え? あ、それはありますね。お弁当のお箸を何度忘れそうになったことか」


「僕はそうは思わない。すばるこそ聡明だと思う」


 ひえ、となぜかすばるがのけぞる。


「そうめい……。そんなこと、初めて言われました」


「これは仮説なんだけど。お母さんがそう思うくらい、すばるがなにか自分だけ忘れている、印象的な出来事があるんじゃないのかな」


 慎は、努めて穏やかにそう告げた。

 自分は、踏み込むべきではない領域に――少なくともかつてすばるが自分でそう判断したかもしれない部分に、すばるを踏み込ませようとしている。


「……と言いますと? つまり、私が、自分で自分に施した記憶封印が、まだ残っているんではないかということですか?」


 慎はうなずいた。


「すばるの話で、僕なりに違和感があったのは。お母さんの急な復調ぶりと、どうして僕を見てリストカットが再発したかの原因がまだ不明な点。それと、そこまでお世話になった近所の人について、すばるの記憶があいまいなこと。この三つだ。もっと言えば、すばるが不死身にこだわるようになった、具体的なきっかけも知りたかったけども。このどれも、特別な理由なんてもしかしたらないのかもしれない、でもなにかあるとしたら、すばるが封じた記憶がそのまま答えになるかもしれない」


「慎くん」すばるが、じっと慎を見つめた。「私のリストカット癖を、なくそうとしていますよね?」


 慎は苦笑する。


「さすがにばれるか。そうだよ。僕と会うたびにすばるが死にたくなるなんて、耐えられない。でも、すごく繊細な問題でもある。焦る必要はない。今日は聞ける範囲ですばるのことが聞けただけで、……」


 だが、慎と目を合わせていたすばるの焦点が、ふっとぶれた。

 どこか、慎よりもずっと奥のほうを見ている。


「すばる?」


「言われてみれば、不思議でした……どうして私、リストカットなんてまたし始めて、その理由を自分の記憶の中に探そうとしなかったんだろう……どうして、それでもこんなに死にたくないのに、この相反する気持ちの原因を自分で隠した可能性を考えなかったんだろう……自分で自分の記憶を封印できるって、私は知っているのに。おかしいですよね……」


 語尾に近づくにしたがって、すばるの唇の動きが小さくなっていく。


「すばる。ごめん。もっと丁寧に考えるべきだった。なにも今、」


 しかしすばるはなにかに神経を集中しているように、慎の声に応えずに押し黙ってしまった。

 そのまま一分、二分。

 慎がどうすることもできずにかたずをのんで見守っていると、すばるが口を開いた。


「あ」


「え?」


「……今探したら、ありました。私の頭の中に、封印した記憶。リストカットの原因にかかわるものだと思います。何年も前のものです、……こんな奥のほうに。なんていうか……泥の海に沈んでいる、巨大な鉛みたい。慎くんに言われなければ、ある(・・)ことにさえ気づきませんでした。これが、きっとそう……今の私がこうなっている――死にたくないのに死にたくなる、原因の記憶、かもしれないもの……」


 もう、すばるの目は慎を見ていない。


「すばる。待って。もっと態勢を整えて、落ち着いている時に」


「だめです。こんなの……耐えられない。放ってなんておけません。でも今なら、慎くんがいる……部屋で一人で、慎くんを思い出して手首を切りたい時じゃ、もっとよくない……」


 後半は熱に浮かされたようにひとりごちるすばるに、慎は手を伸ばした。


「すばる、封印解除は反動を生むだろう。だから今は、」


「開けます……」


「すばる!」


「私だって、慎くんと会うの、いつもとても楽しみなんですよ! なのにそのたび死にたくなるなんてもう嫌なんです!」


 慎の最後の制止の声は、そのすばるの叫びにかき消された。

 そして。


「あっ」


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