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「だから、今も消えたい。過去のことをなかったことになんてできないんだから、ずっとこんな思いをして生きていくくらいなら今すぐ楽になりたい。すばるの言ったとおりだ」


「私が?」


「死にたいは生きたいなんかじゃない。ただ死にたい。その先なんかない。裏もない。僕が虚空化を訓練し続けているのは、いつか、跡形もなく消えるためだ」


 慎の加わった布教のために、家族が崩壊したという同級生たちの顔が頭にちらついた。


「本当に限界だと思った時に、僕は誰にも迷惑をかけずに消滅したい。でも、普通に自殺したんじゃ、樹海で首を吊ったってあの祖父母は僕を探し続けてしまう。明音だって、記憶がなくたって、いくらかは傷つく」


「そう思います。明音ちゃん、いい子ですから」


「死体を残さない方法はあっても、周りの人の記憶からは消えることができない。だから僕は、虚空化を極めて、目の前から消えるだけじゃなく、僕の存在自体を誰の頭の中からも消せないかと思って、……その一心で、……」


 だんだんと言葉にならなくなっていく自分の声を、慎は消え入りたい気持ちで聞いていた。

 すばるになんと思われているだろう。情けない。男らしくない。後ろ向きだ。どうしようもない。

 悲しかった。

 だが、嘘をつくよりはましだった。


 さく、さく、と音がした。カーペットを踏む音だ。宇宙の奥で響いているようで、妙に現実感のない音。

 しかしすばるの足音は慎に近づき、やがて、制服のスカートが自分の膝の前に現れて、慎ははっと顔を上げた。


「……すばる?」


 すばるは無表情のまま、両手をついと出して、慎の両頬を手のひらで挟み込む。


「す、すばる?」


「やっぱり」


「え?」


 無表情だったすばるの顔に、一気に感情が現れた。


「やっぱり、そんなふうに思っていたんですね!」


 ただのふくれっ面などとは違う、本気のすばるの怒り顔を、慎は初めて見た。


「変だと思っていたんです! 虚空化はもう、生きていくのに便利な程度の特技としては充分仕上がっているのに、なお練習を続けていて! 慎くんのお部屋は妙にきれいで、整頓好きというよりは執着のなさみたいなものが満々でしたし、明音ちゃんには事情があって会わせてくれてもおじいさんとおばあさんに会うのは避けられるし、私のお母さんと会ったこともなかったことにしようとするし! 一つ一つは大したことじゃなくても、これだけ揃うと胸がざわざわするんですよ! あれ、まさかこれって、慎くんいつでも自分がいなくなれるようにしてたりするんでしょうかーって!」


「あ、いや、その」


 どれも図星で、慎はぐうの音も出ない。

 すばると明音を会わせたのは、本当に思いつきで、慎の信条からは外れる行為だったが、明音のこれからとすばるの人柄を考えれば、決して悪手ではないはずだ。後悔はしない、と決めていた。


「でもまさかと思ってかまなどかけてみれば、言わないことではありません! もう! もう! もう! なんてことを考えてるんですか!」


「かまかけだったんだ!?」


「そうですとも! でも……胸の内を話してくれて、ありがとうございます。今聞けて、よかった……」


 ふうふうと肩で息をしているすばるが、髪を耳にかけながら体を離す。


「……すばるの能力を知った時、正直に言えば、祖父母や明音の記憶から僕を消してもらえたらいいなと思ったよ」


「私、消しませんよ。……慎くんの、子供時代のつらい記憶のほうを封印しろと言われれば、やってみますけど」


 慎はかぶりを振る。


「確かに、あの時を思い出すと今でもつらくなる。でも消してしまったら、なかったことにしてしまったら、もっとつらいんだ、きっと」


「慎くんの考えは尊重します。でも封印するとしたら、私がいつでもできます。……そう思ったら、……生きていけますか?」


 慎はうなずいた。


「こんなふうに、僕のことを全部話せる相手ができるなんて、考えたこともなかった。聞いてもらうだけでも、全然違う。すばるのおかげだよ。記憶封印がなくたって、……今までとは、違う……」


 すばると間近で目線が合った。

 今まで生きてきて、人とこんなふうに向かい合ったことが、何度あっただろう。すばるとは、何度目だったろう。

 瞳に吸い込まれそうになるとはこういうことか、とぼんやり考えながら、つかの間慎はそのままでいた。


 先に我に返ったのは、すばるのほうだった。

 ぱっとのけぞりながら立つと、ぱたぱたと手を振りながら、


「そ、それではドアを開けましょう。それと、少し待っていてくださいね」


 言うが早いか、すばるは一階へ降りて行った。

 数分後、二組のティカップを盆にのせたすばるが戻ってくる。


「ふっふっふ。ケーキは嘘なのですが、紅茶は本当なのです」


「え、うわ、凄くいいにおいがする」


 あまり紅茶に詳しくない慎にもはっきり分かるくらい、市販の普段使いのものとは明らかに質が違った。緑茶のような爽やかさに、花のような香りもする。


「この茶葉、缶を開けた時から全力全開でこの香りなのですよ。私のとっておきなんです。ちなみにヌワラエリヤといいます」


「今までに香りを嗅いだこともなければ、名前を聞いたこともないなあ……。色も明るくて、きれいだね。いただきます」


 慎はあまり――というよりまるで――交友関係が広くないため、来客の茶といえば祖父母が茶飲み友達に入れる煎茶かコーヒーくらいしか候補になく、どちらももてなしに充分なものだと思っていたが。

 この、透き通った明るい柑子色(こうじいろ)の香り高い液体を体の中に入れると、まるで自分の体が浄化されていくように思える。

 水色(すいしょく)は明るい分淡めだが、味はしっかりあった。


「お砂糖いりますか? って、飲む前に聞きますよね、本当は」


「あ、そうかも。でも大丈夫、このままで。おいしいよ」


 紅茶を飲み終えると、すばるがティセットを盆に戻し、台所へ置きに行った。

 かと思えば、作ってあったというアイスティのグラスを持って戻ってきたすばるに、慎が声をかける。


「すばる、……お母さんて、何時ごろ帰ってくるかな」


「そうですね、まだ一二時間は後だと思いますけど。なにか?」


「いや。……なら、ドアは開けたままでもいいかな」


「慎くん?」


 すばるが、わずかに身を引く。


「えっ!? いや違う、そういうことじゃなくて!」


 慎のほうが大きく後ずさりした。危うく、壁に後ろ頭をぶつけそうになる。


「冗談です。なにか、大事な話があるんですね?」


「そう。……僕も、すばるのことで気になってたことがあるんだ」


「なんなりと」


 二人は、カラーボックスを挟んで座り直す。


「……すばるがよければなんだけど、小さいころから今までのことを聞かせてもらえないかな」


 慎は、どうにも気になっていた。昨日、すばるの母親が娘を「忘れっぽい」と評価していたことが。

 しっかり者に見えてうっかり者、ということは世の中珍しくないかもしれない。

 だが、記憶封印の能力を持つすばるに関しては、これを見過ごしていいものか、慎は疑わしく思っていた。


「私の? 今までの半生をですか?」


「そう」


 前々から、頭の片隅にはあった。

 すばるは以前、友人を廃人に追い込みかねない能力に恐怖を感じたという。

 そういう場合、すばるのようにあまり交友関係が広くない人間は、自分で自分を実験台にして能力を試すものではないのか。

 封印解除が不可能だというならためらいもするだろうが、すばるは解除もできる。


 すばるは、|自分で自分の封印した記憶はないのか《・・・・・・・・・・・・・・・・・》?

 特別な理由はなくてもなんとなく死にたい、ということはあるだろう。しかしすばるが持つ自殺への衝動は、そうした正体のないものだとは慎には思えなかった。

 だがどうもすばる自身には、確固たる原因に心当たりがなさそうだ。

 ならその原因は、すばるが自ら記憶を封じたために思い出せないというのは、あり得る気がした。それも、かなり高い確率で。


「……なにか、理由があるんですね?」


「ある」


 慎の虚空化は、この世からの消滅を願った時に発動した。

 では、すばるの記憶封印は?

 確かすばるは、いつの間にか身についていたと言っていたが、慎の例からいくと本人に理由が思い当たらないというのは考えにくい。

 それぞれの能力はまったく別種の成り立ちかもしれないといえばそれまでではあるが、限られた手がかりから手繰っていくしか、今はやりようがない。


 能力の内容から考えて、すばるが、自分か他人の記憶を失くさせたいと心から願った時に記憶封印は発動したのではないのか?

 そして本人に覚えがないのなら、自分で自分の、発動にかかわる記憶を封じているのではないか。

 だとすればそこに彼女の自殺願望の真因があるのではないか。

 そうだとしたら、すばるの自殺をその衝動ごと消してやりたい慎としては、そこに切り込む必要がある。


 すばるに予断を持たせないために、あえてそのことは説明しなかった。

 それでもすばるは、深呼吸を何度かすると、滔滔と話し始めた。


「慎くんがなにを考えているのか、なんとなく分かるような気がします。それを別としても、そうですね、私は慎くんの過去をたくさん聞かせてもらいましたから、私もそうしないとフェアではない気がします。だから、私が生きづらく生きてきた今までのこと、……お話ししますね」



 すばるの記憶は、幼稚園のころのものから、おぼろげながら始まっている。

 これはごく平均的といえたが、変調が起きたのは、小学校に入学して間もなくのころで、小児ぜんそくの発作が起きるようになった。

 激しい咳で眠れないまま、白んでいく空と雀の鳴き声を聞くたびに、もう夜が明けてしまったとぞっとしていたのを覚えている。

 このまま咳が止まらず、眠れもしなければ、自分は近いうちに衰弱して死んでしまうのではないか。

 嫌だ。そんなのはあまりに理不尽だ。――不死身への願望の根幹は、このあたりにあるのかもしれない。


 体が成長すれば自然に治るかもしれないと医者に言われても、十歳になっても一向に平癒の気配がない自分の体を俯瞰して見て、幼いすばるは、次第に自分の命に諦観のようなものを抱き始めた。私はきっとどうせまともな人生は送れない、というような。


 日に日に目から光を失わせていくすばるを見て、やがて母親が精神の均衡を欠いた。

 母親は大学出で建設的思考を旨とする性格だったが、その性格が、病気というのは正しい対応をすれば必ず正しく治るはずだという妄信を生んだ。

 非科学的な新興宗教に溺れることはなかったが、その代わりに、合理的な思想は必ず計画通りの結果にたどり着くという教義(・・)を持つ思想団体に折悪しく勧誘を受け、深く傾倒した。


 ちょうど娘の病状が重い状態が長引いて、母子ともに弱気になっていた時期であり、運の悪さも重なった。


 以前から妻の聡明さを知る夫は、最初はあまり気にしなかった。成人のサークル活動の一種くらいにしか思っていなかったし、夫自身も趣味が高じた、副収入につながるレベルの音楽活動へ毎週末没頭していたので、妻にも好きにさせてやろうと考えていた。


「だから、お母さんが光暦正会に入会したのは、私のせいなんです」


 すばるがそこで、言葉を切ってぽつりと言った。

 それはどうかな、とだけ言って、慎は先を促す。


 最初は、まだしもすばるの体を頑強にしようとするために、はたから見ても合理的な行動を母親はしていた。

 飲食物に気を配り、適度な運動をさせ、どの動きが体のどこに効くかを明確にしてすばるに実行させた。

 しかしそれでなかなか目に見える結果が出ないと、様子が怪しくなっていった。


 聞いたことのないメーカーの、呪文のような異国の文字が書かれた大瓶の飲み薬。

 電磁波に似たなにかを伝播することで、体の中のなにかを改善するという機械。

 皮膚に塗ることで体内まで成分が浸透し、なぜか病変部に直接薬効を届けてくれるという塗り薬。

 一応の能書きはあるものの、一般的にはまるで説得力を持たないであろう文言を、この時期の母親は頭から信じた。


 母親が新しい試みを導入するたび、家計がみるみるうちに悪化していった。

 さすがに父親が止めに入った時には、母親はすでに借金までしていた。


 ここが鍔際だと決心した父親は、サラリーマンを辞めようかと悩むほどに追いかけたかった夢があったが、そのために揃えた音楽の機材をすべて売り、多少の利益を生んでいた音楽作品の権利も整理して、借金の返済に充てた。

 同時に、妻への愛も尽きていた。

 家庭内の会話は消滅し、それまでも自宅滞在の時間が長いとは言えなかった父親は、家に寄りつかなくなった。


 慎はそこまで聞いて、胸中で頭を抱えた。

 光暦正会の構成員というのは、どういうわけか、ちょうど精神的に参っていたり助けを求めたりしていて、入会しやすい状態にある人間というのをかぎ分けて接触していく。そういう嗅覚が特に鋭い人間がどんどん出世し、ノウハウを鼠算式に下部人員に伝授していき、搾り取れるだけの財貨を罪もない人々から搾り取っていく。

 慎の両親も最初は搾取される側であったが、途中からする側に周った。一時期、その手管を誇らしくさえ思っていた自分に吐き気がする。


「……本当に、あの団体の被害者が受ける仕打ちそのものだ。それじゃ、つらかったよね」


 罪悪感を抱えながらそう言う慎に、すばるはかぶりを振った。


「その時は、まだよかったんです。お母さんが私のためにいろいろしてくれているのはうれしかったし、お父さんはもともと家庭的な人ではありませんでしたし。ただ、……そのころから、家の外で」


「外? 学校? ……あ」


 すばるはうなずいて、続けた。


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