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すると、それまで明るかった母親がふと顔を曇らせた。
「ええと、そうね。すばるに聞いたの? でもあの子、よく覚えてなかったでしょう……」
覚えていない、と聞いて慎はぎくりとする。そういえば、この母親はすばるの記憶封印のことは知っているのだろうか。
慎の祖父母に会いたがるすばると違い、すばるの家族に会う気などなかった慎は、そのあたりを示し合わせることなど、今まで思いつきもしなかった。
「そう、そうですね。あまりちゃんと覚えてはいなかったような。最近飼い出したんでしょうに」
慎は、小ぶりなホーガンを見て言う?
「え? ああ、この子これでも犬としては大人なのよ。飼い出したのはもう何年か前なんだけど、……ごめんなさいね。そのへんは、すばるが覚えてないようなら聞かないであげて。ただでさえ最近、あの子ナーバスみたいだし……」
あれ、と慎は思った。犬を飼い出したきっかけと、すばるが最近ナーバスに見えることと、なんの関係があるのだろう。
ここしばらくでのすばるの変調といえば、なによりも、慎と会うと手首を切ってしまうことだろう。母親は、それについてはどこまで知っているのか。
少なくとも、相馬慎という同級生のせいですばるがリストカットしているとは知らない様子に見えるが。
慎は、少しだけ探りを入れてみることにした。
「ナーバスって、すばるの――すばるさんの、あれのことですよね」
そう言って、慎は左手を持ち上げて横に振って見せた。手首の傷のこと、とまでは、心当たりがなければ分からないであろうあいまいさで。
だが、母親はあまりぴんときていないようだった。
「ああ、あのアームカバーとか、似合ってないわよねえ。日焼け対策だって言うんだけど、日焼け止め塗ればいいじゃないって言っても、塗るの忘れるからって言うのよ。確かに結構ぼーっとしてるというか、忘れっぽい子ではあるんだけど、若いんだから日焼けなんて気にしなくていいのに」
その話の中で、慎としては、明らかに下手な言い訳の日焼け対策などとは別のところが気になった。
「すばるさんが、忘れっぽい?」
そんな印象はなかったので、慎にすれば意外だった。家族から見るとまた違うのだろうか。
「そうよお、特に嫌なこととかつらいこととか、結構すぐに忘れてけろりとしてるの。それはそのほうがいいから、得でもあるけどね。でも、昔お世話になった近所の人とかのこともすっぽり忘れたりもして」
慎の頭には、「すばるちゃん、大きくなって」と相好を崩す好々爺と、「どなたでしたでしょうか?」と首をかしげるすばるの姿が浮かんだ。
「ははあ。それじゃ、この近くでばったり会ったりとかしても、気まずそうですね」
「ばったり、……会うことはないんだけどね。あ、いけない、こんな時間。ごめんなさいね、私帰らないと。ええっと……」
慎は、話の切り上げ時を見計らって少しずつ発動させていた虚空化を保ちながら言う。
「僕はただの同級生です。すばるさんには、僕に会ったことは言わないでください。それじゃ」
こうして自分の存在感を薄めて淡々と質問すると、相手は独り言のようにして素直に答えてくれることがあるというのは、今までの実験を経て慎には既知のことだった。
そしてさらに虚空化を強めると、ホーガンを抱えたまま、母親の目が宙を泳いだ。
いきなり存在感をゼロに近づけるのではなく、徐々に薄れさせていけば、相手が慎によほど強い意志を持って相対していない限りは「消える」ことができるのも、積み重ねた練習の成果だった。
「……はあい。あれ、どこ行ったの、今の子? 名前、……名前、なんだっけ? やだなあ、もうそんな歳かなあ」
犬を地面に下ろして散歩に戻る母親を、慎は歩道の傍らに立って見送った。
これで、あの母親には慎の記憶はあまりよく残らないだろう。念のため口止めもしておいたことだし、すばるにこの邂逅のことが伝わることもあるまい。
できればしばらくこうして、すばるには伏せたまま、すばるの事情を探っていきたい。望まないリストカットの真因を突き止めるまで。
慎が彼女に尽くせる時間はどれだけ残されているのか、誰にも分からないのだから、極力急いで。
忘れてはいけない。今の人のよさそうな母親が、いくら今は朗らかに見えても、紛れもなくあの思想団体の被害者であることを。すばるの父親に家族を捨てさせた犯人たちの仲間に、かつての自分もいたことを。
片親だからその家庭が不幸だとは限らない。だが、誰も望まない形で家族を引き裂いた罪は、神経がまともであればあるほど耐え難い自責の念で在任をさいなんでくる。それでも償えることなど、なにもないのに。
すばるの家だけではない。数えきれないほどの、自分が生んできた不幸の数々を、慎はもう何百回頭に思い描いただろう。
いつの間にか、慎は右手で、自分の胸の中央を押さえていた。
シャツを握りしめる。
自傷行為の代わりに――いや、おそらくは慎にこそできる自傷行為として――虚空化を最大限に強めた。
急速に力感を失っていく体は、いよいよ気温の上がり始めた夏の道路の上で、よるべのない小さな氷のように太陽の光で溶け落ちてしまいそうだった。
両足で立っていられたのは、風が吹いていないおかげだった。
いっそ今こそ、大きな犬やランナーにぶつかられて、粉々に砕け散ってしまいたかった。
よろめいた拍子に、背中にブロック塀が当たった。体を支えてくれたその塀に触れた衝撃が、重度のやけどのような威力で慎の背中を襲った。
耐えられず、倒れこんで、両手をアスファルトにつく。細かな黒い凹凸が、手のひらの皮膚に、槍襖のごとく突き刺さったように思えた。
苦悶の声をあげながら転がると、ガードレールにぶつかった。車にはねられたかのような衝撃だった。
目から涙と、食いしばった歯の間から、少し泡がこぼれた。
獣のように呻いて、うずくまる。
こんなにもつらいことが、ほんの少しだけ、慎の喜びでもあった。
己の罪のために痛い思いをすることなく、つらいと思うことさえなくなったら、きっともう自分は人間ではない。
■
翌日の月曜日、すばるからのメッセージに気づかないふりをして帰ろうとした慎は、校門で待ち伏せしていたすばるに捕まった。
「返信していただけていないようですけど。『一緒に帰りましょう』と送りましたのに」
すばるは半眼になっている。
「あ、あー! そうなんだ? 気づかなかったなあ!」
すばるに極力リストカットをさせないため、お互いのテスト勉強のため、なにより――これは言えないが――すばるの私生活の調査のために、少し距離を置こうと思っていた慎だったのだが。
「昨日、私のお母さんと会ったそうですね。私の家の近くで」
自分は、策を弄するには向いていないのかもしれない。どうしようもなくそう思い知らされて、慎はあっさりと降参した。
「……うん。僕は、日曜の午前は虚空化の練習をするのが習慣で、場所は、どこでもよかったんだけど」
「どこでもよかったのに私の家の近くまで来て、お母さんに家に誘われたのに寄りもせずに帰ってしまったと、こういうわけですね」
微妙に口喧嘩ふうの格好を呈している二人を見て、下校している何人かの生徒がひそひそと話している。
「と、とりあえず歩きながら話そうか。あ、でも大丈夫かな。二人で帰ってるみたいになったら、すばるは有名人だし」
「私にだって、たまには同級生とおしゃべりしながら帰途につく権利くらいあると思うのです」
そう言われれば、納得せざるを得ない。
観念して、慎はすばると並んで歩き始めた。
「すばるのお母さん、よく僕のこと覚えてたね。一応、虚空化で印象を薄めておいたんだけど」
口止めしたとは言わないでおく。
「分かりますよ。ホーガンを散歩させていたらいきなり道に男の子が忽然と現れて、偶然私の同級生で、しゃべっているうちになんだか姿がぼんやりとして見えなくなって、よく分からないまま帰ってきちゃった、なんて言われたら」
なるほど、自分の存在感を消してしまったら、口止めなんて言い含めても意味がないのだなと慎は学んだ。
「それで私、お母さんから、仲良くしている子なのかと訊かれまして。学校で一番仲がいいと答えたら、今度の土曜日、ケーキとお茶を用意して家で待っているそうです」
「え!?」
「来てくれますよね? ケーキは予約してしまいましたし、紅茶も缶から出しっぱなしで飲まれなければ、葉がしけってしまいますし」
「なんでスタンバイさせるの。分かったよ、お邪魔します。……勉強しないとって話は、どうなったんだ」
「それまでにお互い頑張りましょう。ヘッドフォンして勉強もせず、私のお母さんにうちに誘われても袖にした慎くん」
目を合わせずにそう言ってくるすばるにあらがえず。
土曜日は登校日だったので、学校が終わった後、慎は三度すばる宅に足を踏み入れた。
クラスで特に目立つタイプではない自分が、校内でも他を圧して目立つ存在であるすばるの家に当然のようにやって来ていると知ったら、クラスメイトたちはどんな顔をするだろうか。不思議な気分だった。
玄関で靴を脱ぎながら、慎はあれと思った。
すばるの話から、てっきり待ち構えているものだと思っていた母親の気配がない。
そしてすばるからも、リビングではなく二階の自室に促された。
深く考えずに家主に従い、冷房の動き出した、すばるの部屋に入った。
例のカラーボックスの前に置かれたクッションを勧められて座ると、すばるが後ろ手にドアを閉めた。座ろうとせず、その場に立ったままでいる。
「すばる?」
「お母さんが呼んだというのは嘘です」
「ん?」
すばるの顔から、愛想が抜け落ちている。
「慎くん、虚空化は、この世から消えたいと思ったいた時に身についたのでしたよね?」
「……そうだね。当時のことはあんまり思い出したくないけど。それが、どうかした?」
「その動機は、もう過去のことですか?」
「もちろん」
「ではなぜ今も、同じように消えたがりながら生きているんですか?」
あまりにも自然にそう訊かれて、慎は、一笑に伏すことができなかった。
つい先ほど、自分の策謀家としての才能のなさを思い知ったばかりということもあった。
なにより、言わなくていいことを黙っておくのならともかく、すばるが真面目に問うてきた質問から逃げるわけにはいかないと思った。
「……両親や団体と縁を切って、今の暮らしが始まってからは、後ろめたいことはない」
「はい」
「でも、……つらい記憶や、心の傷を癒すのには、時間の流れが一番の薬だなんていうのは嘘だ。希釈されるどころかどんどん煮詰まって、頭の中がその澱でいっぱいになっていく。腐って、固まって、全然減らない。ほかのものが入らなくなるくらいになって、のしかかってくる」
「……はい」
知らず、慎はうつむいていく。
自分の足しか見えなくなる。




