<第三章 封印解除>
すばると明音が打ち解けてくれたことは、慎は純粋にうれしかった。
あの後明音の部屋の前を通ると、ドア越しのくぐもった声で「あの、すばるさんまた来る?」と訊かれ、「ああ、近いうちにね」と答えておいた。
数日後の放課後、慎とすばるは一緒にファミレスへ涼みに行った。空模様が怪しいので、雨が降るかもしれないが、それなら目的が雨宿りに代わるだけだ。
校舎の中にも談話スペースくらいはあるのだが、とにかくすばるが校内では有名人なので、落ち着いて話などできそうもない。
間もなく七月になる。
期末テストがあり、その後は終業式、夏休み。行事も日程も、強制的に進んでいく。
人にはない特別な能力を二人して持っていても、そうした社会の構造には抗いようもない。抗う気は、二人とも特になかったが。
このファミレスの名物だという、液体部分がピンクとアイスブルーの二段になったクリームソーダをストローで吸い込んだすばるが、最近買ったというオカルトの本の話をしてくる。
「つまり、細胞のコピーを繰り返すことで、寿命で死なない生物というのはいるんです。なら不死の人間だって存在しえますよね。ただ、遺伝子のコピーにエラーが出ると、普通の人間ではなくなる。吸血鬼みたいな不死身系のモンスターは、人間にそうしたエラーが起きた結果生み出されたのかもしれません……」
「いや、その生物ってあの小さい、ベニクラゲっていうクラゲとかでしょ? 人間とはちょっと違うんじゃ」
すばるのオカルト趣味は全ジャンルなんでもござれというものではなく、不老不死だとか永遠の命に関わるものについてのもので一貫していた。
いきおい、すばるが慎に切り出す会話は死生観に関するものが多くなる。
「たまに、漫画とかで、『死にたいという人は、本当は生きたいと叫んでいるんだ』みたいなのあるではないですか。実は私、あれが少し苦手で」
「え、そうなの? 死にたいと思わせる要素を背負って生きるのがつらくて限界だっていうだけで、本当はそれらが排除されれば生きたいというのが本音なんだ……みたいなことでしょ? 間違ってはいないんじゃない?」
「そんないい話というか、考え方次第みたいなことじゃなくて、まずその人の『死にたい』を受け止めてほしいと思うんです。本当は違うんだよって言われても、困るじゃないですか、死にたい人は」
「死なれたほうが周りは困ると思うけど……」
むう、とすばるは首をひねってから、
「ところで、慎くんの妹さんには会わせてくれたのに、おじいさんとおばあさんには会わせてくれないのはなぜなんですか? 土日に呼んでくだされば、お会いできましたのに」
慎は、突然ではあるがなにげなくもあるその質問に、ためらいもなく答えようとした。その答えが、喉で詰まる。
「なぜ、ということもないけど、なかなかタイミングが」
確かに慎は、すばるから、明音だけでなく祖父母にも挨拶したいと前から打診を受けていた。
慎なりに適当な理由をつけて、後回しにしていたのは事実である。紹介して恥ずかしい祖父母では、断じてないのだが。少なくとも両親よりは。
このすばるの希望を聞いた時、慎は、すばるは本当に死にたくないのだなと思ったことを思い出す。心底死にたいと思っていれば、特に必要性のない人間関係を新たに作ろうとは思わないだろう。
それなら、慎と会えば死にたくなるのはなぜなのか。
正直なところ、自分と会うことが自殺未遂の引き金になると思うと、すばるに会うこと自体は楽しいものの、慎としては気が引ける。いくら対策があるといっても、割り切れない。
それでもついついすばるに言われるままに、誘われれば会ってしまう。
「タイミング……ですから、日曜日とかならおうちにいらっしゃるのでは」
「それは、いるけど。……でも、あんまり不老不死とか死者復活とか、そういう話はだめだよ。歳が歳だから、変な霊感商法で押し売りでもされるんじゃないかと思われるかも」
「心外です。私は一応、相手を選んで話題を選択しているつもりですよ」
わざとなのかどうなのか、すばるはわずかに頬を膨らませた。人間は怒ると頬を膨らませるという話を聞いたことはあっても、実際にそうなる人を慎はほぼ見たことがなかったし、理屈自体が理解不能だったが、こと相手がすばるとなると、そうしたしぐさの一つ一つがやけにかわいらしく見える。
いけない、気をつけろ、と自戒する。
すばるが慎を、男性として評価しているとは、慎には思えなかった。
そんな男から仮に好意を向けられていると思われれば、すばるはどれだけ不快に思うだろう。
それを考えると、視界の中ですばるに焦点を合わせることさえはばかられてくる。
「とはいえ私たちもうすぐ期末試験ですから、土日は勉強しないといけませんね。慎くんは自宅学習派ですか? それとも図書館とか?」
「ああ……自宅かな。自室で、ヘッドフォンして、誰とも一言も口を利かずに一日集中して勉強するんだ」
本当は今までなら図書館も活用していたのだが、万一にもすばるに「一緒に勉強しましょう」などと誘われれば、今の精神状態では集中などできる気がしない。
それに、もし数時間をすばると共に過ごしたとして、別れた後の夜に彼女を襲うであろう自殺衝動のことを考えると、それこそテストどころではないだろうとも思う。
「ストイックですねえ。私もそうしようかな。慎くん、点数、勝負しましょうか」
その後は試験範囲の話を少しして、能力や生き死にの話をしないで過ごせるのはとても普通の高校生っぽくていいなと慎がつぶやくと、すばるも笑って同意した。
「そろそろ帰ろうか。すばる、今夜もその、気をつけて」
「はい。先日は不覚を取りましたが、もう私に油断はありません」
胸を張るすばるの、武士のような口上に慎は苦笑する。
ファミレスを出ると、慎はすぐに帰って勉強を始めた。
日曜日の時間をなるべく空けるためである。
すばるにはああ言ったが、毎週日曜は、慎にとっては能力を磨くための曜日でもあった。
日曜午前中の虚空化の訓練は、すっかり慎の習慣になっている。
まだこの力が自分に宿っていると確認するための。そして、より自在に、より強力にこの力を使いこなすための。
いつか本懐を遂げる日まで――その計画は、まだ慎の中であまりにも大雑把にしか練られていなかったが――、なまらせるわけにはいかなかった。
日曜の早朝、慎は家を出た。
いつもは家の近くで能力を試すのだが、この日は、すばるには内緒で彼女の家の近くで虚空化してみることにした。
普段と違う場所で、アウェイの緊張感の中でやってみようというのが一つ。もう一つは、どうも気にかかることがあるためだった。
すばるの家の最寄り駅に着く。
まずは、普通に付近を歩いてみた。
真昼時まではまだまだ時間があるが、七月の太陽はすでに完全に空に現れており、ジョギングや犬の散歩をしている人とすれ違う。
この後慎は、人通りの増える時間になれば駅前に戻って、人ごみの中で虚空化を試すつもりだった。
その前に、まだ人目の少ない時間ではあるが、慎はすうっと息を吸い、ゆっくりと吐き出して、自分の存在感をその吐息に乗せるようにして周囲の透明な空気に溶け込んでいく。
「なんの変哲もない住宅街をじろじろと見まわしている、怪しい男子高校生」を目撃されるのは避けたかった。
この町に違和感を覚えたのは、最初からだ。
初めてすばるの家を訪れた時から感じた、妙な懐かしさ。
あれは偶然やすばるへの個人的な思い入れによるものではなく、|慎がこの町を知っているからではないのか《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》?
そう思えてならない。
まばらに道行く人の意識から自分が消えたことを、慎は確信して、歩道を歩き始めた。
向かいから来たジョガーは、スピードを落としもしなければわずかな進路変更もせず、慎の真横を駆け抜けていく。
左右には、どこにでもありそうな街並み。珍しくもないブロック塀。ありふれた赤いスレート屋根。特に個性的ではない庭。主張に乏しい外観の家、家、家。
だが、それらすべてに、覚えがある。
個々の特徴ではなく、空間全体の作りが伝えてくる、はるか遠い記憶の中の町。
自分は昔、ここに住んでいたことがあるのか。あるいは、頻繁に訪れていたのか。
家に帰ったら、祖父母に訊いてみよう。
そう思った時、慎の耳に、けたたましい犬の鳴き声が響いた。
「え? うわっ!」
しまった、と思った時には、慎は小型犬の突進をもろに足に受けて転倒していた。
虚空化は、人間からは姿を隠せるものの、感覚器が鋭敏な犬や猫には感知されてしまうことがある。
「あわああ、ごめんなさい! 大丈夫ですか!? あれ、でも今、ここに人なんていなかったような……」
そう言って小型犬を抱き上げたのは、ショートカットにゆるくパーマを当てた中年女性だった。
倒れ伏した慎をおろおろと心配そうに――少し不思議そうに――見つめている。
「い、いえ、大丈夫です。こちらこそ……あれ?」慎は、小型犬と目が合うと、その小柄な柴犬の名前を思わず呼んだ。「ホーガン?」
「え? あなた、なんでうちの子の名前を知ってるんです?」
慎の母親くらいの歳に見えるその女性は、立ち上がった慎と犬とを見比べた。
うちの子。ということは。
「すばるの……お母さん、ですか?」
「あらやだ、うちの娘を知ってるの? 同じ高校の子かしら」
「あ、はい。相馬慎といいます。おはようございます……」
そう言いながら、慎は、母親の後ろを慌てて見やった。すばるも一緒なら、一人で勉強すると言った手前、なぜこんなところにいるのかと話がややこしくなる。
「あ、すばるならもううちの子もう二匹、大きいほうを連れて別の道で散歩中よ」
「そうでしたか。では、僕はこれで」
そう言って踵を返そうとした慎だったが。
「ちょっと待って、それ、肘のところすりむいてるんじゃない? うちで消毒くらいするわよ、すぐそこだから」
母親は、そう言って邪気のない顔で微笑んだ。
人のいい笑顔だった。
それを見て慎は、この人も光暦正会の被害者なのだということを思い出す。
あいつらは、こういう、いい人を狙う。自分よりも家族や大切な人の幸せを願う、善良な人間ほど操りやすいからだ。自分の生きやすさや幸せを二の次にしてしまう人間など、彼らにとってはいい鴨でしかない。
「……いえ、本当に平気ですから。……犬、かわいいですね」
「そうなの、三匹とも本当にいい子で」
「ヨシカドとクロウ、でしたっけ」
「あら、よく知ってるわねえ。この子たちのおうち、私がほとんど作ったのよ」
「ああ、あのアスレチックみたいな。楽しげでいいおうちですよね」
できるだけ朗らかかつ無難に話を合わせたつもりの慎だったが、母親は、それを聞いて意外そうな顔をした。
「……それも、よく知ってるわねえ。うちに来たことがあるのね? じゃあこの間うちに呼んだお友達って、相馬くんのこと? へえ……」
あ、と慎は息をのんだ。これはまずかったか。あまり気にされないのか。どっちだろう。
「もしかしてだけど、相馬くん……この間すばるがおうちにお邪魔したお友達っていうのも、君のこと?」
母親が小首をかしげる。
慎は、首を縦に振るか横に振るか、頭を高速回転させて考えた。
だがその結論が出る前に、母親のほうが答えを見つけてしまったらしかった。
「わあ、そうなの!? まさかすばるが、男の子とね……! え、もしかして、彼氏?」
「違います」
これには即答する。
とりあえず、これ以上妙な方向に話が転がる前に、適当に犬を誉めてお茶を濁し、この場を去ろう。
慎はそう決めて、ホーガンを見やり記憶を探る。
「犬、みんなかわいいですね。確か飼いだしたきっかけって、……」
そこで言葉が止まった。
犬を飼い出したきっかけ。どこかでそんな話になった。そうだ、明音が質問したのだった。すばるはなんと答えたのだったか。




