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 慎の部屋には、ラックの類はもちろん、本棚さえない。学習机にもともとついていた棚まで取り外され、机の上面はまっさらな天板だけだった。ペン立ての類もなく、文房具などはすべて引き出しに収納されている。

 壁にはポスターやカレンダーの一枚もない。


 慎が天井を指さした。


「ライトは円形だけど」


「そんな、間違い探しみたいに探すものじゃないですよ、曲線って」


 あまりにも見るべきものが少ないせいで、慎の部屋ツアーはそれで終わった。

 続いて、二人で明音の部屋へ向かう。

 慎はノックをしてから、


「明音、いるよね? 座馬すばるさん、来てくれたから。開けるよ?」


 明音の部屋のドアには、鍵はついていない。だが慎は、部屋の主に無許可でドアを開けるという行為が、とんでもない暴挙に思えて、そのドアノブをひねることがいつもできない。

 だがこの日は、


「……どうぞ」


 と絞り出された声に押されて、ドアを開けた。

 いつ以来だろう、まともに妹の顔を見るのは。

 トイレや入浴、食事のために部屋を出た明音を顔を合わせても、いつも妹はうつむいて慎の横を通り過ぎてしまう。

 髪が伸びた。切りに行かせてやらないと。どちらかといえば丸顔だった面立ちが、いくらかほっそりしている。背も伸びたんじゃないだろうか。新しい服がいるのではないか。

 パジャマではなく、ちゃんと着替えているところを見るのも久しぶりだった。白とネイビーのボーダーのTシャツに、丈が長めの白いショートパンツ。近所のコンビニくらいなら、すぐに出かけられそうな。


 明音は部屋の真ん中に立っていた。

 自分の部屋だというのに、居場所が見つからないというふうに。


「すばる、うち来客用のクッションとかないんだ。明音、ベッドに座ってもらってもいいか?」


 いいよ、と蚊の鳴くような声。


「じゃ、僕は飲むものを入れてくるから。すばる、麦茶でいい?」


「麦茶大好きですよ、慎くん。ありがとうございます」


 え、と再びか細い声がした。


「ふ、二人とも下の名前で、呼び合ってるの……?」


 明音が、高校生二人を見比べながら言う。


「ああ、なんだかんだあって」


「高校生って、そういうもの? 男子と女子で?」


「いや。僕を下の名前で呼ぶ同級生は、すばるだけだ」


 明音が両肩を少し持ち上げた。


「それって」


「ああ、違う。そういうのじゃない」


 明音の肩が下りる。そういう仕掛けのおもちゃのようだった。


「それじゃ、ちょっと失礼するよ」


 慎が席を外して廊下へ出ると、ドア越しに、二人が会話をし始めるのが聞こえてきた。

 内容までは分からないが、考えてみればすばるは少々変わり者だという噂を立てられているだけで、対人恐怖症でもなければぼっち気質でもない。そのあたりは、慎とは違うところだった。

 慎はその気になれば、何ヶ月も誰とも口を利かなくても平気だし、むしろそういう生活のほうがしっくりくる。


 台所で二つのグラスに麦茶を入れた慎が二階へ上がってくると、部屋の中から響く声は先ほどよりも大きくなっていた。

 特に、明音の声が、はしゃいでいる。

 すばる一人が家に来ただけで、失われてしまったと思っていたものがこんなにいくつも戻ってくるとは思わなかった。


 ドアを開けると、すばるがスマートフォンの画面を明音に見せていた。


「ええ~、この子もすばるさんの家の犬? かわいい! めっちゃ回る! 目回らないのかな!?」


「ありがとうございます。今日は学校帰りなので連れてこられませんでしたが、近いうちに、この子のうち誰かを連れてきて明音ちゃんに会わせてあげることはできますよ」


「えっえっ、本当ですか!? じゃあ、この一番小さい子……」


「ホーガンですね。了解です」


 あの一番小さい犬――犬種に疎い慎にはおそらく柴犬だろうことくらいしか分からなかったが――が一番迫力のある名前なのか、と意外に思いつつ。慎がドアを開けると、すばるが立ち上がってお礼を言ってきた。


「どういたしまして」と会釈で返した慎が、盆ごとグラスを学習机に置く。


「ねえ、すごいね。あたしも犬飼いたいな」


 明音からそんな積極的な発言をされた驚きを隠しながら、慎は「犬かあ。飼育のノウハウがないなあ」とかぶりを振った。

 まるで妹のようなねだりかた。まるで家族のような振る舞い。まるでここが自分の家のような当然さ。すべて本当のものなのに、ようやくそれらを取り戻しかけているような感覚。


 明音は、慎のことを兄とも慎とも呼ばない。明音なりに抵抗があるので兄とは呼べないし、名前で慎さんなどと呼ぶのも気が引けるのだろう。

 それでも全然構わない。

 慎もまた、明音が落ち着ける場所でなくては、そこを本当に自分の家だとは、おそらく思えない。なにもかもが、まだ途上なのだ。去ったものを取り戻すまでの。


「すばるさんの家、こんなにわんちゃんいたら賑やかそう。なんでそんなにたくさんになったんです?」


 すばるが、大げさな動きで人差し指を額に当てた。


「それが、はっきりとは覚えてなくて……気がついたら、犬だくさんな家になっていたのです。犬や猫を多頭飼いしているうちは、たいていそう言います」


 なんですかそれ、と明音が笑う。


 ここは女同士のほうが気楽に過ごせるだろうから、自分は部屋を出ていくべきだと、慎は頭では分かっていた。

 だが、なかなかそれができない。この声を、表情を、明音が自分に見せてくれるのは、次はいつだろう。そう思うと、かつてなく腰が重かった。


 その時、チャイムが鳴った。

 三人で顔を見合わせる。

 祖父母ならばチャイムなど鳴らすわけがない。


「僕が見てくるよ。宅配便かな。すばる、ゆっくりしていって」


 軽く手を振って、慎は明音の部屋を後にした。

 階段を下りる。誰だろうな、と首をひねりながら。


 どこか浮かれていたのだろう。

 慎は、ドアチェーンもせず、のぞき窓から外も見ずに、ドアを開けた。

 そこには、見知らぬ中年の男女が二人で立っていた。


 会ったことはない。

 それは間違いない。

 だが、この二人が何者なのかは慎には分かった。

 それも間違いない。間違えようがないほどの確信がある。


 なにが楽しいのか、にこにこと一様な笑みを浮かべている二人に、慎が言う。


「保護者がおりませんので、今」


「おやあ、『なんの御用ですか』くらい訊いてくれないの? おじさんたち、怪しいものじゃないんだけど」


 確かに怪しくはないが、それは単に正体が知れているというだけの意味でしかない。

 この手合いに、この状況で対抗するのに最も有効な手段は、接触を断つことだ。会話を一度かわすごとに、こちらがなにかしらの損をしていく。


 慎はドアを閉めようとした。

 そこに、男の革靴の先がねじ込まれる。


「おじさん、それ、昔はともかく、今はもうやるなって上から言われませんでした?」


「よく知ってるねえ、慎くん。さすがは相馬さんの息子さんだ」


 慎くん、とすばるに呼ばれると、あの両親につけられた名前が思っていたよりも悪くないと思えた。

 不思議なもので、この男に呼ばれると真逆の印象になる。


「僕たちはもう両親とは関係ありませんよ。お引き取りください」


「関係は、ありますよ。どうやら慎くんはご機嫌斜めのようだ、要件を先に言いましょう。慎くんと妹さん、我々の団体にご入会ください」


 そう来るのだろうな、とは慎も思っていた。

 光暦正会という思想団体は、少しでも引き込める当てを見つけたら、そう簡単には相手を逃がさない。

 あきらめたふりをして、物分かりのいいポーズをとりながら、少しでも状況に変化があれば再び食らいついてくる。


 入るわけがない。だが入らないというと、それはそれで勧誘の糸口にされる。どうしてですか。誤解があるようです。もう少し説明させてください。結論を出すのは、いつでもできることですから……


「お引き取りください」


 だから、会話をしない。それが唯一の有効な抵抗だと、慎は分かっていた。

 ドアを閉めようとする。

 まだ革靴の先はそこにあった。


「警察を呼びますよ」


 すると、今度は女性のほうが言ってきた。


「相馬さんご夫婦が来ると、むしろこじれそうだとは聞いてたよ。なるほどねえ、これは意固地そうだ。反抗期かなあ、遅めだね」


 わざと煽るのも常套手段だ。慎もそれを分かってはいるので、感情が逆なでされるのを耐える。

 女が続けた。


「あのさあ、警察を呼んだって、この子らの親に言われたんだって言えばすぐ帰っちゃうんだよ」


 こちらが頼るものを無力だと言い放つのも、お決まりの手段。


「おじいさんとおばあさんがお帰りになるには、まだ少しあるよね?」


 自分たちはお前が思っている以上の情報を持っているんだ、と言下に威圧してくるのもそう。


「その間だけでも話を聞くくらいの礼儀や常識はあるでしょう、君くらいの年齢の男の子ならね」


 年齢や性別を盾にプライドをくすぐってくるのも、昔からなにも変わらない。

 それが分かったおかげで、慎はむしろ冷静になれた。


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