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 まさか、とすばるが合図すると、犬たちはいっせいに飼い主に駆け寄った。

 しゃがんだすばるが犬まみれになり、すばるも手を伸ばして犬たちをなでるのを見て、慎も温かい気持ちになる。

 慎だって、犬や猫をかわいいとは思う。けれど自分はこんなに、屈託なく別の生き物を慈しみ、かわいがることができるだろうか。


 自分以外の存在を当たり前のように愛おしむことができる。それは慎には、自分には決定的に欠けた、そしてすばるはとうに持ち合わせている、人間としての重大な価値のように思えた。

 慎にはそれがまぶしくもあり、いささかの敗北感を感じさせるものでもある。この世から消えたがり、自分以外の世界との隔絶ばかり考えてきた自分には、決して手に入らないものだろうから。


 それを悟ると同時に、この時にはもう、慎は自覚していた。

 動物と戯れるすばるの無邪気な笑顔から、いや笑顔ではなかったとしても、自分はもう目を離せなくなってしまっていることを。



 その日慎が自宅のドアを開け、ただいまと口にしても、応える者はいなかった。

 祖父母はまだ現役で働いているため、曜日によってはこういうこともある。


 夕飯の支度は、慎にもできる。だが、最近はたいてい祖母が調理を終えたものが冷蔵庫に入っているので、それを自分の分だけ温めて食べる。

 自分の分だけ。結果的にはそうなるのだが、慎としては無駄に終わるとしても欠かせない習慣があった。


 二階へ上がる。

 中学二年生の、妹の部屋をノックした。


明音(あかね)


 返事はない。

 呼び捨てというのがよくないのかと思いもするが、さんづけにはどうしても抵抗があった。なんなら、明音だって慎を呼び捨てにしてくれていいのだが。


「夕飯の支度をするけど。明音の分も温めていいか? イエスなら一度、ノーなら二度、音を立ててくれ」


 カンカン、と乾いた音がする。

 ベッドの木枠でも叩いたのだろう。

 明音に聞こえないように嘆息して、慎は台所へ戻った。


 両親に実質的に棄てられたと分かった時、そしてその両親が自分の友人関係も勧誘のための道具として食い荒らしていたと知った時、多感な妹は巨大なショックを受けた。

 ずっとふさぎ込み、まともに食事もせず、ようやく部屋から出てきた時は、別人のように痩せていて。

 そして、家族全員についての記憶を失っていた。両親はおろか、慎や祖父母のことも。


 幼児退行したわけではないので、年齢相応の意思の疎通は可能なのだが、無理に慎のことを思い出させようとすると、おびえて暴れ出してしまう。

 どうやら自分が家族の記憶を失っているということ、慎や祖父母がその家族であることは理解してるようなのだが。なにしろ本人の体感としては天涯孤独の身なので、慎は見知らぬ高校生だし、祖父母は親切だがこれも見知らぬ老人二人である。


 そのため明音の生活態度は委縮しており、学校は行ったり行かなかったり。外出を極端に怖がる。トイレや入浴は最小限――知らない家のそれらを使っているようで罪悪感があるらしい――、食事は一人で部屋でとる。

 医者にもどうにもできないので、明音の意向を尊重して生活させていると、ほとんど引きこもりのようになってしまった。


 慎が、すばるの能力を知ったころ。真っ先に頭をよぎったのは、すばるの力で明音の記憶を取り戻せないかということだった。これこそは天が与えた奇跡なのではないかと、胸中で色めき立った。


 だが、すばるのことを知るにつれて、冷静にもなっていく。

 すばるが封印を解けるのは、自分が封じた記憶だけなのか?

 症状としての記憶喪失と、すばるの記憶封印とは、まったく別のメカニズムなのか?

 それとも多少は関係があるのか?

 もしすばるが明音の記憶に干渉できた場合、それはノーリスクなのか? それとも、場合によっては明音の状態がさらに悪くなることもありえるのか?


 試してみたい、とは思う。

 だが、打算のためにすばると交流を持つことへの嫌悪感、明音の容体悪化のリスク、そしてその場合のすばるの傷心のことを考えると、どうしても踏み出せない。

 自分のせいで慎の妹が取り返しのつかないことになったとしたら、すばるはどれだけ傷つくだろう。

 単に能力を利用するためだけの相手と考えるには、慎にとって、すばるはすでに特別な存在になり過ぎていた。


 温めた豚汁と青椒肉絲の夕飯を済ませてから、慎はドリップバッグで、白いマグにコーヒーを入れた。

 ストレートで飲むのは味が分かるからなのかと言われればそこまで自信はないが、コーヒーの香りにはほかにない魅力が詰まっているし、この濃密な液体は生活の中の気つけのようなものでもある。


 それを飲んで、先ほどすばるがふるまってくれたアイスコーヒーを思い出す。おいしかったな。コーヒーを上手に入れられるって、結構立派な特技だよな。

 すばる。今までの慎の生活の中には、いなかったタイプの人間。能力のことを抜きにしたって、少し変わったところもあるし、なにより同級生の女子とこんなに話したことはない。おまけに三匹も犬を飼っているとは、意外だった。


 女子。犬。

 あ。思わず声を出して、慎はマグをテーブルに置く。

 そうだ、すばるの特性は、能力だけじゃないじゃないか。あの人柄も、穏やかな立ち居振る舞いも、すばるの長所に他ならない。

 切り出し方を急いで考えながら、階段を上がった。妹の部屋のドアをノックする。


「明音、いい?」


 ドアの向こう、おそらくはベッドの上で、身じろぎする気配がした。


「明音、僕は年上の男で、体格も明音より大きいし、正直、ちょっとおっかないところがあるだろう? なかなかあけっぴろげに話したい気持ちには、なりにくいよな」


 遠慮がちに、かん、と音がした。


「じゃあさ、僕の女友達に会ってもらえないかな。いい人なんだ、きっと気に入ると思う」


 今度は小声で、「……女の人?」と聞こえた。


「そう。明音、いずれ高校には行きたいだろ? 女子高生の先輩、おしゃべりしてみたくないか? お茶やお菓子を用意するよ、もちろん僕は交えなくていい。それに彼女、犬を飼ってるんだ。写真や動画を見せてくれるかもしれない」


 先ほどよりもわずかに大きな声で、「犬」と聞こえた。


 しばらくの無音。

 それから、かん、と音がした。


 慎は、叫びたい気持ちを抑えて、「じゃあ日時を調整するね」と言って、階下へ戻った。

 残っていたコーヒーをあおりながら文面を考え、洗い物をするのももどかしく、自室へ入るなり、すばるにメッセージを送る。

 快諾された。

 家に招くことで、またすばるにリストカットの衝動を生じさせてしまうかもしれないことは気になる。だがすばるからは、先述の通り対策しているから毎度毎度気にしないように、と念を押された。


 週が明けて月曜日、授業が終わると慎は急いで帰宅し、すばるを迎える準備をした。先週とは逆だな、と思いながら。

 すばるには、簡単に明音の状況を説明してある。やはり、自分の能力でどうにかできないかと考えてくれたようだが、ひとまずは話し相手を務めてくれるよう慎から頼んだ。

 行動に移す前に様子を見ても、遅いということはないだろう。いや、この際すばるの能力のことは度外視しておいたほうがいい。


 すばるから連絡が入り、慎は駅まで迎えに出た。

 改札を出てすぐ横の壁際にいたすばるが、こちらを見つけて会釈する。

 慎は二人分の日傘を取り出して開くと、一方をすばるに渡した。すばるだけに日傘を差させても遠慮させそうだし、かといってさすがに相合傘をする度胸はない。


「あの、……すばる、この前の夜どうだった? やっぱり……」


 慎はすばるの、さすがにアームカバーはもう暑いのか、幅広の黒いリストバンドに目をやった。


「手首ですか? 切りたくはなりましたよ。でも、腕をタオルで縛りつけて我慢しました。慣れてきましたしね、全然平気です、私だって慎くんにお会いしたいので、今日もお気遣い無用ですよ」


 申し訳ないと慎が言うのもおかしいのだが、やはりいたたまれないものはある。


「それはそうと私手ぶらですけど、いいんでしょうか」


「同級生の家に行くのに、手土産持っていくことのほうが珍しいんじゃないの。友達いないから分からないけど」


「奇遇ですね。私もです」


「それに今日祖父母はいなくて子供だけだから、気にしないでいいよ」


「私部活とかもほぼやってきていないので、年下の女の子とお話しするのなんて久々ですよ。なにを話そうか、昨日からずっと考えてたんですけど」


「そんなに構えないで」


「今、私のスマホの検索欄、『年下 女子 話題』みたいなので埋め尽くされてます」


「そんな、舞い上がった男子みたいな」


「舞い上がった男の子って、そうなんですか?」


 分からないなあ、友達がいないから。そんな話をしていたら、家に着いてしまった。


「お邪魔します」


 すばるがそう言って、ドアが閉まると、明音の部屋から不可視の緊張感が走ったように思えた。


「二階が僕と明音の部屋。どうぞ。後でお茶持っていくよ」


「……明音さんの部屋の前に、慎くんの部屋って、見てみてもいいですか?」


 階段を先に上がりかけた慎が振り返ると、すばるがちらりと上目遣いで見上げていた。


「いいけど。なにも面白いものとかないよ」


「私の部屋も見たじゃないですか。お互いに、ということで」


 そういうものか。こうした心理に自分は実に疎いのだと、慎は時折思い知る。自分なら、明音と話す必要があってきたのなら、明音の部屋にだけ入ればいいとしか思わないだろう。

 どのみち慎としては、これ以上片づけようがないという程度には普段から自室を片づけているので、中を見られるくらいは特に問題ない。


 一度明音の部屋を通り過ぎ――肩透かしさせているだろうなとは思いつつ――、慎はすばるを自分の部屋に通した。


「わあ」


「わあって言うほどのもの、ないでしょ」


「物が少ない。私の部屋みたいです。いえ、さらに少ないですね。部屋の中に直線しかない……」


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