5
頭の中に、白い砂で覆われた夜の砂漠をイメージする。
下半分の白。上半分の黒。白の中に自分を溶け込ませる。
いなくなれ。誰からも見つけられず、意味を生じず、ただ始めからなかったもののように。
真正面、二メートルほどの位置に座って慎を見つめているすばるの目の焦点が、ふっとぶれた。
そのことに自分で驚いて、すばるは軽くかぶりを振る。
目の前にいる少年が、うっすらとした輪郭を残して、どこかへ遠ざかるように思えた。
すばるはぐっと目元に力を入れて瞬きし、意識して慎を注視する。しかしそれでも、部屋の中が、まるでいつも通り自分一人でいるのと変わらないような寂寥感に満ちていく。
目の前にあるのは、クラスメイトの男子ではなく、限りなく透明に近い人の形の水、いや、霧のよう。やがて大気に溶けて消えてなくなりそうなほどに儚い。
すばるの、半袖の制服から出た腕に、アームカバーの下で鳥肌が立った。
慎が存在感をなくすというよりも、すばるのほうがただ一人でこの世に取り残されるような不安が込み上げ、思わず慎のほうへ手を伸ばす。
このままでは、本当に彼は消えてしまいそうだった。いや、もうほとんど目には見えない。
「慎くん!」
ぱしん、とすばるの右手が、慎の左腕を叩く。
すると。
「ぐあっ!?」
「えっ!?」
虚空化が解け、慎がその場に現れた。
だが、腕を抑えて倒れこみ、歯を食いしばって苦悶の声を上げている。
「し、慎くん! すみません、強かったですか?」
そうは言ったが、すばるの手に残る感覚は、服についた埃を軽くはたいた時のそれと大差ない。
いくらなんでも大げさでは、と思ったが、慎は脂汗まで浮かべて、まだ起き上がれずにいる。
「う……あ……」
「慎くん、慎くん。どうしましょう、私」
救急車を呼んだほうがいいのだろうか、とスマートフォンに目をやったところで、ようやく慎が上半身を起こして、それを制した。
だが、まだ左腕は上手く上げられないでいる。
「いや……大丈夫。少し休めば」
「そんなに……痛かったんですね?」
「どうやら、程度を超えて虚空化を強めると、僕の体そのものがひどく弱体化するらしい。すばるが軽く触れただけだっていうのは分かってるよ」
「どのくらいの痛さだったんですか?」
慎はううん、と首をひねってから、
「金属バットで殴られたくらいかなあ。されたことないけど」
すばるが絶句してから、
「すみません……」
と頭を下げた。
「いや、すばるは全然悪くないよ。というより、すばるがいてくれてよかった。途中から、頭がぼうっとして、虚空化を強めることだけに意識が集中していたんだ。底なし沼に入っていくみたいに。体だけじゃなく思考力も希薄になるのか……これは、一人でやると本当に危ないな」
「今くらいの接触でそんなに衝撃があるなら、屋外で風の強い日などでも危ないかもしれませんね……」
「まったくだ。ただの風でも、全身を叩かれまくるような衝撃を受けてしまうかもしれない。今まで、力を使っている状態で人にぶつかったりしたことはなかったけど、運がよかったんだな。満員電車の中でやったら圧死しかねないし。ここがすばるの部屋で、本当によかった」
二人はそれぞれにグラスを傾け、一息つく。
「……あれ?」
「なに、すばる?」
「慎くん、なにか、やってます? 虚空化とは別に、なにか?」
「なにかって?」
慎は自分の体を見下ろした。
制服のブレザー。グレーのクッション。取り立てて変わったものは見当たらない。
「慎くんが、……なんと言うんでしょう。なんと言ったらいいんでしょう、これは」
「すばる?」
「変な言い方なんですけど、……慎くんがひどく目立って見えます。存在感が際立っているというか。目が離せません。芸能人かなにかを見ているような」
確かに、そう言うすばるの目は、慎に釘づけになっていた。
慎はきまり悪くもう一度体を見直すが、やはり特段変化はない。
「もしかして、これは慎くんの虚空化の副作用なんじゃないでしょうか。反動というほうが正しいのかもしれませんが」
「反動? つまり、僕が虚空化で存在感を薄くしていた分、能力を解くと反動で存在感が増す……ということ?」
「ほかに思いつきません。今の慎くん、ちょっと凄いですよ。私小さいころ、女の子が変身して悪と戦うアニメが好きで夢中だったんですけど、その主人公を見ているような気分です。神々しいというか」
「こうごうしい……初めて言われたなあ」
「心当たり、ありません? 急にヒーローを見るような目で見られる体験とか」
「ないなあ」と慎は思い切り正直に答えたが、「……あ、でも僕が虚空化を使うのは、家に帰る時が多いから、能力を解くのは部屋に入ってからなんだ。虚空化の解除直後に人と会うことがあまりないから、気づかなかったのかも。……いや、待てよ」
最近、なにかあった気がする。途中で虚空化を解き、人前に出たことが。
「上手く思い出せないんだけど……下校中に、通学路で、虚空化の練習をして、不本意ながら中途で解除したような……で、その時に、でかい顔するなとか、調子にのるなみたいなことを、言われたような……気が……。いや、気のせいかな」
すばるがひょいと右手を挙げた。
「あ。それ、多分私と会った時だと思います。ちんぴらさん二人に絡まれた時の。私が慎くんの記憶を封印しているから、思い出せないんです」
「ああ、そうなんだ。じゃあ、その封印、今解くことってできる?」
「え?」
「そうすれば確認が取れるよ。そうだ、一緒に、すばるの記憶封印にも、反動があるのかどうか分かるかもしれない。記憶を封じる反動ってどんなものか、予想つかないけど」
前にすばるが言っていた芋づる式の連想で自力でも思い出せるのかもしれないが、記憶を隠した本人がそれを解除してくれたほうが確実で早いだろう。慎がそう言うと、すばるは挙げた右手を下ろして顎に当て、少し思案したが。
「そうですね。やってみましょう。私、結構久し振りです、封印した記憶の解除は」
慎が軽く頭を下げて、すばるに寄せた。
その額にすばるの青白く薄い手のひらが伸びる。
「いきますよ」
「うん」
そして、額と手が触れた数秒後。
慎の頭蓋骨の裏側から粘ついた液体状のなにかが引きずり出されるような感覚と共に、強烈なフラッシュバックが起きた。
そうだ。帰り道。僕から声をかけた。
――お前関係ねえだろ。なんだ、でかい顔しやがって
――なあ、なんでお前そんな調子に乗ってんの? すげえズカズカしてやがって、イラッとするわあ
そう、確かそんなセリフだった。まるで耳元でたった今告げられたように、声音まで明確に再現された。
そして、与えられたあの痛み。
腰を蹴られた重さ。
殴られた右頬。
実際にはどちらも、深刻な激痛というわけではなかったはずだった。
しかし、その時に実際に味わった痛みとは比べ物にならないほどの強く鋭い衝撃が、慎を襲った。
「ぐああッ!?」
「慎くん!?」
腰と右頬を押さえて、慎がうずくまる。しかし。
「あ……あれ? なんともない……そうか、ただ痛みの記憶も思い出しただけだから……でも、本物より強烈だったな……?」
「慎くんの虚空化もそうですけど、能力を解いた時の反動が、その能力を使った時よりも強まって帰ってくるということでしょうか……すみません、慎くん……」
すばるは肩をしょげさせる。
「いや、すばるが謝ることじゃ……でもそうか、なら、不用意に虚空化を解くと、知らない人からじろじろ見られたりするんだな……気をつけよう」
「インフルエンサーが街中に降臨、みたいになるわけですね。とりあえず私はもう、慎くんに記憶封印は使いません」
「え? どうして?」
怖いですよ、とすばるがつぶやく。
「ただ記憶が戻るだけならいいですけど、反動がそんなに大きいようでは。昔友人と実験した時は気づかなかったですけど、お互い子供だからよく分からなかったんですね、きっと」
「今みたいに痛みを伴うような記憶でなければ、そう危険ではないと思うけど。たとえば、楽しい思い出とかならより楽しくなるんだろうし」
「そんな記憶、そもそも封印しません」
それはそうだ、と慎も納得する。
「ともあれ、安易に慎くんの記憶を隠してすみませんでした」
「いや、実践されなければ僕がすばるの能力のことを信じることはなかっただろうし、……というか、すばるって謝りすぎじゃない?」
慎としてはどうも、ことあるごとに頭を下げられているような気がする。あまり愉快なことではない。
「……友達の慎くんには正直に打ち明けますが、実は私、謝っていると気持ちが落ち着くんです。そのせいで、つい」
「……そういうの、たまに聞くけど」
すばるは自分の右頬に右手のひらを添えて、うつむいて言った。
「どちらかというと、あまり大切にされないほうが安心するんです。優しくされると、怖くなります。なにかの間違いや誤解でそうなったのか、そうでないならなにかしら理由――それも悪意的なもの――があるんじゃないかって。なので、褒められることがあっても、もったいないというか申し訳ないというかで、いたたまれなくて」




