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「なに。言って、すばる」
「悪気があって言うわけでは、ないんですが。……私なりに、確証に近いものを得たことなので、慎くんにも伝えなくてはいけないと、思って」
「……うん」
「……最初は、しかとは気づきませんでした。回数を重ねても、偶然ではないかと思いました。でも……」
「でも?」
慎が、再び生唾を飲み下す。
すばるが思い切ったように慎を見つめた。
「……慎くんを間近で見たり、話したりして、その後一人になると、手首を切りたい衝動に駆られるんです。慎くんを見ていてつらいとか、嫌な気持になるわけじゃありません。でも、どうしてか」
慎の腰が浮いた。
「僕……? 待って。それじゃ、今回リストカットしたのは」
すばるが、小さくうなずいた。
「……慎くんと、二人で、長く話したのがきっかけだと思います。あの後、家に帰ってから……慎くんのことを思い出していたら、どうしても……切りたくなって……入学してから今までは我慢できました、でもあの日はどうしても、だめで」
慎は愕然とした。
なんとか力になりたいと思った相手を、慎が追い詰めているというのは、浅からぬ衝撃があった。
なぜ。どうして。心当たりなどまるでない。しかし、加害者――という響きにはぞっとしたが――というのは、そういうものかもしれないとも思う。
だが、自分で話しながら困惑している様子のすばるを見ると、慎のほうが取り乱してはならないと、努めて頭を落ち着かせる。
入学式からこっち、簡単な挨拶くらいは、慎はすばるとかわしていた。
そのころからすでに芽生えていた兆候――手首を切りたいという希求に耐えながら、すばるは、不死身になる方法などというものを男たちに訊いていたのか。目の前の少女の頭の中で、一体なにが起きているのか。
それを考えると、いくら冷静であろうとしても慎の動悸が静まってくれない。
「すばる、今は? 今は平気?」
「はい。……でも、切りたくなるのはいつも、慎くんと別れた後なので。すみません。今日は腕を縛りつけてでも、耐えてみせます。慎くんといるのは、不快でもなく、恐怖心も発生しません。だから私、自分でもどうしてなのか……すみません」
「そんな、君が気に病むことじゃ。僕が原因なんだから」
「慎くんのせいではありません!」
すばるが強い語調でそう言った時、はたはたと、なにか軽いものが落ちた音がした。
すばるの目から、光るものが流れて滑る。その雫がスウェットの腿を弱弱しく叩いていた。
「すばる」
「どうしてなんでしょう。私は、慎くんと仲良くなれるって、力になり合える人ができたって、凄く嬉しかったのに。こんなはずありません。……悔しい。でも、本当のことだから、言わなきゃって……だって、隠しておいて、本当に私が死んだら、死にたくないんですけど、もしそうなったら」
その時は、事情も分からないまま慎が一人取り残されることになる。
すばるは、膝に置いた手を握りしめていた。その手の甲にも雫が落ちる。
「分かるよ、すばるの気持ちは分かる。ありがとう。君が、僕のために打ち明けてくれたって、分かってるからね。でも……」
語尾の逆説に、すばるが伺うように顔を上げた。
「すばる。僕には、心当たりがあるんだ。すばるが僕を見ると、つらくなる理由に」
「心当たり、ですか? 慎くんに?」
慎は意を決した。もとより、この話をせずに、すばると共にあることはできない。
「僕の両親は、ある思想団体の構成員なんだ」
すばるが目を見開いた。
「僕も、両親に連れられて――いや、両親と一緒に、団体の啓蒙活動に参加していた。小学生のころだけど。両親は今は家を出て、僕は妹と一緒に祖父母の家に住まわせてもらってる。僕たちはあの両親とは実質絶縁しているんだ。でも当時、僕と両親は関東一円をぐるぐると回っていた。だから、僕は覚えていないけど、この辺りにも来ている可能性はある。……そうしたら、僕とすばるは、」
会っているかもしれない。
本人たちが覚えていなくても。
そして、すばるが無意識のうちに、家庭を破壊しにやって来た三人の悪魔のうちの一人の顔を、脳裏に記憶していたとしたら。
「なんて……」
「え?」
「なんていう名前なんですか、その、団体は」
すばるの涙は止まっていた。代わりに、声が震えている。
それでも必要なことからは逃げない。この少女はそういうたちなのだと、慎ももう分かっている。
「……光暦正会」
すばるが息を呑んだ。
上半身が後ろへ揺らぎ、床に手をつく。
その様子で、慎にも知れた。
当たってしまった。
今度は、慎の目から、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ出した。
「ごめん。本当に後悔してる。許されないことをしたと思ってる」
ようやく巡り合えた、同じ気持ちを分け合える仲間と、過去において、最悪の出会いをしていた。
だが、このことで慎が悲しむわけにはいかなかった。
もっと早く、おかしいと思っていれば。子供心に、妙なことをしていると感づいていれば。今までに何度そう思ったか知れない。自分には被害者のために悲しむ資格などない。だが、この時ほど感情が激しく爆ぜたことはなかった。
「ごめん。ごめん」
胸の奥から込み上げた熱が涙に代わって、どうしようもなく慎の目から落ちていく。
すばるは、なぜリストカットをしているのか自分でも分からないと言った。ならば母親の入会が直接の原因ではないのかもしれない。だが、幼いすばるの家族を襲った不幸が、彼女の精神状態に影響していないはずはない。
どうして、すばるが、手首を切らなくてはならないのか。そうすべきなのは自分だ。それに両親だ。
すばるも、あるいは慎の妹だって、なにも悪くないのに、人生の形を理不尽に変えられてしまった。
慎ばかりが、のうのうと、五体満足で元気に中学にも高校にも通っている。
どうして。
今すぐ消えてしまいたかった。この世からいなくなりたかった。久し振りに、心の底からそう思った。
しかし。
「待ってください、慎くん」
「……え?」
いつの間にか突っ伏していた慎が、そう言われて、涙で濡れた顔を上げた。
「確認したいことがあります。慎くんは、ご両親と一緒に、布教――ずっとこう呼んできたので、そうさせてもらいますけど――をしていたんですよね」
「……そう。さすがに、僕一人じゃ無理だったから」
今では、幼い慎が体のいい道具だったことも理解しているが。
「だとすると、違うと思います」
「違う?」
「私の家にきたのは、多分当時七十歳近いくらいのおじいさんと、中年の女性でしたから。その二人は親子のように私には見えました、とても慎くんのご両親とは思えません。それに、何度かあの人たちはうちに上がりましたけど、私と同じ年ごろの男子なんて一度も見たことがありません」
「……それじゃ」
すばるが、慎の両肩をつかんだ。
さっき泣いたせいでうるんでいる大きな目が、慎の真正面から双眸を覗き込んでくる。
「私の家にきたのは、慎くんやご両親じゃありません。別の人です」
「……でも」
だからといって、自分がまったくの無関係だとは、慎には思えるはずもない。
「確かに、あの人たちと慎くんは、所属している団体は同じだったでしょう。仮に当時、慎くんたちがうちに来ていたとしても、母は入信して、父は出ていったと思います。でも、現実には、|そうではなかったんです《・・・・・・・・・・・》。たらればはありません。慎くんのせいで、うちがおかしくなったのではありません」
冷たかった涙が、熱く熱を帯びていく。
だめだ。
救われてはいけない。自分がしたことの、なに一つ、取り返しがついたわけではない。
そう言い聞かせても、慎は、巨大な胸のつかえが一つとれるのを、感じないわけにはいかなかった。
僕ではなかった。すばるの家庭を壊したのは、僕と、僕の両親ではなかった。
それだけで、気の持ちようがまるで変わる。呼吸が、すうっと肺から喉を通った。
「母の入信は、私たちにとって一大事でした。もし時が戻るなら、なんとしてもやめさせると思います。それでも今は、……お金と父は戻って来ないとしても、暮らしていける家が残って、なにより、あの団体を退会してからの母は、それまでとは比べ物にならないくらい私と向き合って、大事にしてくれるようになりました。だからよかったとは思いませんが、慎くんが思いつめるような状況ではないんです」
「それでも……」
「はい」
「それでも、なにごともなかったようには、いられない……」
「……ええ。確かに、私も、なんとも思わないわけではありません。うちよりもずっとひどい目に遭って、なにもかも失ってしまった人もいるでしょう」
「うん。そう。そうだ」
それを忘れるわけにはいかない。なかったことになることなど、この世にはない。




