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「こう言ってはなんだが、うちの親族はろくでなしや放蕩者が多い。だからお前たちだけは、立派に育てるつもりだよ」


 祖父は苦笑いしながらそう言い、慎もその気持ちをありがたく受け取った。


 だが、妹は、兄よりも幼かった分、まだ耐久力の育くまれていなかった心に、その数年で深い傷を負っていた。

 妹は小学生のうちに家に引きこもるようになり、両親に棄てられたと悲嘆に暮れて、一人部屋で泣き暮らしていた。

 妹にすれば、特に悪いこともしていないのに周囲から白い目で見られるようになり、守ってくれるはずの両親は子供を置いて消え、ただでさえもろい子供の精神が世界ごと切り裂かれたように感じていたのかもしれない。


 慎と祖父母は、根気よく妹のために心を砕いた。両親が、血族がどんな人間たちであろうと、この小さな女の子にはなんの関係もないことだ。

 だが恐怖と逃避を繰り返す中で、妹は精神に変調をきたした。

 祖父母の家に引っ越して一年ほど経った、妹が小学六年生のころ、兄と祖父母のことが分からなくなった。


 一種の記憶喪失と呼べるのだろうが、兄と祖父母を、見知らぬ赤の他人だと思うようになっていた。兄から声をかけられても、まるで初めて会った人間のように


「あなたたち、誰ですか?」


 と訊き、身構え、怯え、自室へと逃げて行ってしまう。


 芝居をしている様子ではなかった。祖父母は妹を医者や自治体の担当者に見せたが、改善の兆しはなかった。

 それは、もう近しい存在を作るまいとする、棄てられた子供の脳が編み出した自衛策だったのかもしれない。少なくとも、慎はそう思った。だから、無理に元に戻そうとはしなかった。

 ただ、心の奥底では、勝手な両親への怒りと、無力な自分の情けなさと、どうすれば妹は報われるのだろうと問う無言の叫びを抱き続けていた。


 物静かな目立たない少年は、その大人しそうな外見とは裏腹に、つつけば弾ける火薬袋のような精神的窮地の中で、毎日を過ごしていた。

 そうして高校生になって、本当に久し振りに、心を許せる相手に出会った。出会ってしまった。


 その相手の家庭を壊した不幸に、自分の両親の団体が関わっていると思うと、いつしか遠くなりかけていた罪悪感が、新鮮な傷口になって心臓を張り裂けさせた。

 座馬すばるに対して、慎の精神は、彼女に抱いた好感の分だけ、あまりにも無防備だった。


 だが、幸運があったとすれば。

 無力感に打ちひしがられるだけの幼く弱いだけの日々を、その数年間のうちに慎が終えて、十代半ばの少年は、彼なりにいくばくかの成長をしていたということである。



「こんなに自分の体を操りにくく感じるのは、初めてだな……」


 ここ数日ろくに眠れなかったせいでふらふらする重い体を引きずり、慎は、すばるの家へ向かっていた。

 手首を切ってから四日、すばるは学校をまだ休んでいる。

 IDを交換したメッセージアプリのアカウントに、会いに行ってもいいかと勇気を振り絞って慎が伝えると、あっさりと


「いいですとも。暇なので」


 と住所を添えて返事が返ってきた。


 すばるの家は、高校から、電車で四駅。慎が住む祖父母の家とは逆方向だった。

 それでも、さして特徴のない住宅地だからなのか、どこか懐かしい街並みをしている。


 ほどなく着いた二階建ての一軒家は、新しくもなく古びてもおらず、街並みに溶け込んだ落ち着きを湛えていた。

 南側には日当たりのよさそうな庭があり、小ぎれいに手入れされている。小振りなひまわりがけなげに背を伸ばしていた。その傍らに、庭の三分の一近くの面積を占めて、背の低い木組みが乱雑に置かれているのが少々風変りではあったが。


 慎が人の家のチャイムを鳴らすのは、久し振りだった。

 軽く呼吸を整えながら、背筋を伸ばして、慎はボタンに人差し指を伸ばす――どうも、勧誘をしていたころのことが思い出されて、あまり気分はよくない。


 確か、すばるの親は離婚していて、父親とは連絡を取っていないようなことを言っていたか。とすれば、この家のドアから出てくるのは母親である可能性が高い。「新興宗教のような思想団体」に巨額の献金をし、離婚のきっかけを作った母親……


「慎くん」


 慎は、ぎょっとして上のほうを見た。

 二階のベランダに、スウェット姿のすばるが顔を出して、小さく手を振っている。


「今開けます。待っていてください」


 すばるが顔を引っ込めると、ぱたぱたという音がして、すぐにドアが開いた。


「今日はありがとうございます。お構いもできませんが、どうぞ上がってください」


「……どうも、お邪魔します」


 慎は三和土で靴を脱ぎ、慎重に揃えて置いた。

 自分が礼儀知らずな振る舞いをして、それをすばるの家人に見られれば、すばるの尊厳を傷つけることになるような気がした。


「二階へお上がりください。今、私しかいませんから遠慮せずに」


「え、誰もいないの。お母さんとか」


「いません。なのでご遠慮無用ですよ」


 ほっとしたような、気が咎めるような、複雑な思いで、慎はすばるにいざなわれて二階へ上がる。

 二階には三部屋ほどあるようで、母娘二人暮らしにしては、ずいぶん広いように思えた。


「二人暮らしのくせに大きい家に住んでるな、と思っているでしょう」


「……まあ、少しだけ。くせにってことはないけど」


「父が、この家を維持できるようにはしてくれているんです。そのくらいには私のことを気にかけてくれているようで。贅沢しなければ生活は問題ないんです。それでも、母は働いていますけども。私もいくつか短期のアルバイトを探していますが、なかなか体がついていかなさそうで、お恥ずかしい限りです」


「なにも恥ずかしくないよ、それは」


 すばるの部屋は南側にあった。

 薄手のカーテンを閉めてあるおかげでエアコンがほどよく効き、慎がうっすらかいていた汗が消えていく。


 慎は同い年の女子の部屋に入ったのは初めてだったが、ベッド、勉強机、本棚、チェストといった家具が簡素に置かれ、部屋の中を飾るインテリアの類がないため、ホテルの部屋のように思えた。

 ただ、ベッドには一抱えほどもあるうさぎのぬいぐるみがでんと置かれており、全体的に直線的な光景の中で異彩を放っている。


「来客を想定した部屋作りをしていないので、お粗末ですが。そこに座ってください」


 床には淡いグレーのクッションが二つ置かれていた。

 促された慎が腰を下ろすと、すばるも向かい合わせになって座る。

 この時、本棚に並んだ背表紙が慎の目に入り、「不死者の伝言」「死ななかった人間の記録」といったオカルトめいたタイトルが気になったが、とりあえず触れずにおく。


「人を迎えるという経験がないものですから、こんな風でいいのかは分かりませんが、慎くんの居心地はどうでしょう」


「僕も、人を部屋に入れたり訪ねたりっていうことがないから、正解は分からないけど、いいんじゃないかな」


 よかったです、とすばるがうなずく。


「今日は、ありがとうございます。心配して来てくれたんですよね。母に強いて休むよう言われて、何日かゆっくりしてしまいました。明日からは学校に行けますので。もう週末ですけど」


「そうか。それはよかった。それで、その……」


「手首を切った理由ですか?」


 すばるが微笑んでいる。

 慎の喉が、無意識に鳴った。


「……そうだね。教えてもらえるなら。例の、昔のいじめとは別なんだよね?」


「はい。……やはり特に、リストカットと明確な因果関係のある出来事が、起きたわけでは、ないんですが……」


 そこまで言って、すばるがなにかを言い淀んだ。


「すばる。思い当たる節があったの?」


「思い当たる、……そうですね、そのくらいにしか表現できないような、頼りないものなんですけど……」


「うん」


「私がよく手首を切っていたのは、小学生の終わりから中学に上がったころなんです。この時から、確たる理由は思い当たらないままで。今残っている古傷はほとんどその時のものです。それでも、二年生の半ばくらいには落ち着いてきました」


「それが……」


「再発した形です。高校に入った辺りから、なんとなく気配はあったんですが。過ぎ去ったはずの衝動が、また襲ってきて」


「高校で、生活の変化のなにかしらが原因なんだろうか」


「いえ、高校入学というよりは……」


 すばるは、ちらりと慎を見た。


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