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<第二章 消滅を願う脆さの中で>

 あの集団について、残っている限りの、明確な最初の記憶は、慎が十歳のころ。

車に乗って、少し離れた街へ行った時のものだった。

 両親に連れられて、見知らぬ人の家を訪ねていた。

 チャイムを押した父が、インターフォンに口を近づけて、告げる。


「こんにちは。私たち、光暦正会(こうれきせいかい)のものですが」


 その家の住人が、不信感を隠しもせずにドアから出てきた。

 慎は表札の名前はよく覚えていないが、その中年男性は、ハッタさんという(おん)で呼ばれていた気がする。


「別に呼んだわけじゃないんだけどねえ」


 うさんくさそうに、ハッタは慎の父親の足の先から頭のてっぺんまでをじろじろと見る。


「ハッタさん、そうおっしゃらずに。私どもは、あくまでまだ世に知られていない情報と知識をお伝えするだけです。それを知ってどうされるかは、ご本人次第なのですから」


「まあ、こちらも幼馴染の顔を潰すわけにいかんので、話だけは聞いておくよ。十五六分でいいんだろ?」


「もちろんです」


 嘘だった。

 少なくとも慎は、これまで一度も、両親による「世に知られていない情報と知識」の話が十五分で終わるところなど見たことがない。


 周りから見れば、どうしてあんなに怪しくも無根拠な話を、易々と信じてしまうのか、不思議で仕方がないだろう。


 だが、全ての手練手管はマニュアル化され、団体内で共有されている。

 相手の性別。年齢。居住地域。家族構成。学歴。仕事歴。会社での立場。転職回数。

 そうした情報を元にして、今回の獲物はどのように話を進めれば(もう)(ひら)くのか。パターンごとに、枝分かれするあみだくじのように、籠絡の仕方は決まっていた。


 騙されないはずの人間を、揺さぶり、驚かせ、不安にさせ、安心させ、脅し、信用させ、最終的に味方にして金を引き出す。

 人間は他人には容易に金を渡さない。その一方で身内には、一筆取ることもなくくれてやってしまう。いかにして獲物の身内になるか――ならせる(ならせる)か。その腕を磨いた者が、会の中でも上に行ける。


 そのための道具として、子供というのは実に有効だった。

 不思議なもので、独身男が単身乗り込んでいくよりも、既婚者であったり、妻子を同行させたほうが、獲物の緊張感は緩む。

 特に子供を連れていると、なぜか、いかがわしい勧誘者などではなく、社会性を身につけた良識ある人間としてみなされることが多い。

 構造的には、獲物を狩るための狩人が群れをなしてやってきた形になるので、本来はより警戒を強めるべきなのだが。


 慎は子供ながらに、最初はかたくなな表情を浮かべていたいかつい中年男が、自分と二言三言交わすうちに段々と肩の力を抜き、相好を崩して、好んで父と母の話を聞き入るようになっていくのを、誇らしい気持ちで見ていた。

 勧誘活動への同行は楽しかった。

 両親は、慎に細かい注意や説教をすることなく、自由にさせていたから、特に堅苦しい思いをしなかったことも大きかった。

 もちろんこれは、子供があまりに親から統制されている様子を見せると、獲物が用心してしまうので、あえて勝手気ままに放置されていたためではある。


 毎週、学校が休みの日は勧誘に駆り出された。

 うまく団体の会合へと獲物を誘い込めると、「お小遣いだぞ」と言って、父親が慎に小銭をくれた。「こんなに小さいうちからアルバイトをするなんて、慎は偉いな」と褒めながら――今の慎がアルバイトというものに生理的な嫌悪感を抱くのは、これのせいだった。


 両親から特に何も言われなくとも、慎は、自分もいずれ大きくなったら、両親のいる思想団体の一員として活躍することを夢見るようになった。


 その生活に変化のきざしが訪れたのは、子供たちが自我を明確に持ち始め、脳も目に見えて発達する、小学校高学年のころだった。


「おい、宗教野郎」


 小学五年生の昼休み、そんな声が教室の中で響いた。

 最初、慎は自分のことを言われているとは思わなかった。

 だから返事もしなかった。


「おい、無視してんじゃねえよ」


 すぐ傍まで近づいてきた声に、慎が顔を上げると、クラスで最も体格のいい橋本(はしもと)という少年が真横に立っていた。


「お前んち、宗教だよな」


 そうすごまれて、慎は、親から受けていた注意を思い出して、教わった通りに答えた。


「僕の両親が入っているのは、思想団体であって、宗教じゃないよ」


「うるせえ」


 ばちん、と頭をはたかれた。

 なにが起きているのか分からなかった。


「一体、なにを……」


「お前んちの親、宗教の勧誘でこの辺回ってるだろ。迷惑してんだよ。どの家も大体は追い返すけど、中には子供がお前と同じ学校とかクラスだからって、油断して家に上げちゃう人もいるんだよ。二組の相田(あいだ)、おれの友達なんだよ。それが騙されて親が宗教に連れてかれたんだってよ」


 慎には、相田という家には心当たりがなかった。ということは、慎の同行なしで両親が勧誘に成功したということだ。

 さすがお父さんたちだと思いつつ、そこ自分が参加していないことが悔しくも思えた。もっと、両親にとって有用な子供でありたいのに。


 慎は、両親のことも勧誘活動が善行だということも信じているので、勧誘されて団体に入団することのなにが問題なのかが分からない。

 大人同士が話し合って、同意の上で団体の支部に詳しい話を聞きに行った。なにがいけない?


「ふざけやがって。そのうち金取るつもりなんだろ? 優しいおじさんやおばさんにつけ込みやがって、クソが。お前、親止めねえとほんとにただじゃ済まさねえからな」


 そう言って、橋本は肩を怒らせて席に戻っていった。

 橋本だけならばそこまで気にしなかったのかもしれないが、慎が周囲を見回すと、普段はさほど慎と密接な関係を築いていないクラスメイトたち――今思えば、気味悪がられていたのだろう――が、はっきりと悪意を込めた視線を慎に送っていた。


 自分がこれまでに気づいていなかった、なにかただならぬことが起きていることを、ようやく慎は悟った。


 慎は、放課後になると学校のパソコン室へ向かい、インターネットで、自分の両親が所属している思想団体の名前を検索した。

 そこで初めて、慎は、その団体が世間からどう見られているのか、これまでにどんな問題を起こしてきたのか、自分がなにを手伝わされてきたのか、その一端を知った。

 時折問題を起こしてニュースになる、悪質な新興宗教団体と、なにも変わらなかった。


 しつこく勧誘をしかけ、強引に団体の建物へ連れ込み、大人数で囲んでこんこんと話し続け、少しでも根負けした相手には即座につけ込んで金品を供出させる。

 時には、なんの役にも立たない団体のシンボルをかたどった像や、特に内容のない啓蒙書などを高額で売りつける。


 宗教団体と違うのは、活動の根本にあるのが信仰や神ではなく、世界をより良い方向へ導くにはどうしたらいいかという「思想」だという点だったが、実質的にはほとんど信仰と変わらない。


 インターネット上の情報が、どこまで正しいのかは分かりようがない。

 しかし、小学生の慎をして、説得力は充分にあった。これまでに、それらの情報を裏づける言動が、両親の口からこぼれたことが何度かある。


 慎の中で、それまでの誇らしさが、罪悪感とみじめさに変わった。

 もう両親の勧誘には同行しなかった。

 すると、それまで朗らかに接してくれていた父も母も、目に見えて慎の扱いが冷淡になった。

 慎の服をなかなか洗濯してくれない。食器を洗ってくれない。食事の量がひどく少ない。

 それらを自分でどうにかしようとすると長時間こんこんと説教され、へとへとになって解放され、ようやく冷たいシャワーを浴び、まだ洗ってもらっていない下着をやむなく身に着けて、夜明けまでの短い時間で少しだけ眠る。


 家にいると、実の親がすぐ傍にいるというのに、いや、傍にいるのに冷たい心の壁を築かれていることがはっきり感じられるために余計に、慎は悲しい孤独に包まれた。


 かといって学校に行けば、針のむしろに座っているようだった。

 このころから、慎は毎日のように、「消えたい」と願うようになった。

 ここからいなくなりたい。誰も自分を見つけない世界に行きたい。

 死にたいわけではない。だから自殺をするのは踏ん切りがつかない。


 どうやら、二歳年下の妹も、学校で似たような目に遭っているらしい。

 妹は、勧誘への同行さえしたことがない。物心ついたころから本能的に嫌悪感を抱いているのか、かたくなに勧誘に加わるのを嫌がっていた。


 せめて妹だけは守ってやりたい。

 しかし、学校でも家でも疎まれる存在となった兄が、なにをしてやれるのか。

 慎は自分の無力さに深く落ち込んだ。


 そしてとうとう、近隣のいくつかの街で、複数の世帯が、かの思想団体への高額な金品供出のために生活を破綻させたという報せが現れ始めた。

 慎の胃は、固形物を受けつけなくなった。


 小学校に登校する。


「おはよう」


 慎がそう言っても、答える者はいない。


 教室では、誰も慎に声をかけない。目もくれない。

 慎が虚空化を能力として身に着けたのはこのころだと思われるが、確かな時期は慎にも不明だった。能力で存在感を消したのか、ただ周り中から疎まれていないものとして扱われていたのかは、慎にこそ区別がつかないからだ。


 そんな生活が三年ほど続いた後。

 慎は、中学校に進学しても状況は変わらなかったが、家では大きな変化が起きた。二年生のある日、両親が家から出て行った。


「お母さん、お父さん、どこ?」


 慎と妹が家中を探しても、どこにもいない。


 共働きだった夫婦はそれまで勤めていた仕事をやめ、思想団体の幹部として、人生を組織に捧げる道を選んで、家を棄てた。

 それは、今まではあくまで巻き上げた金品の供出をする立場だったのが、完全に搾取する側に回ったことを意味していた。


 慎は、本格的に自分の家族が壊れたことを悟った。

 もう、なにをしたところで、かつての団欒は戻っては来ないのだろう。


 慎は、以前からなにくれと面倒を見てくれていた、母方の祖父母に連絡を取った。自分一人ならともかく、妹を守って生活を保つには、ほかに頼れる相手がいなかった。

 祖父母は、自分たちも娘夫婦から思想団体への恭順を何度も迫られており、それを嘆きながら、温かく慎と妹を受け入れてくれた。

 慎が本格的な人間不信に陥らなかったのは、祖父母のおかげと言っていい。


「慎、ここを自分の家だと思って過ごしなさい。万事気楽に、なんでも遠慮なくな」


「うん。本当にありがとう、おじいちゃん。おばあちゃんも」


 祖父母の家には黒い仏壇があった。あまりきれいに整頓はされていなかったが。

 光暦正会からの勧誘を受けて話だけ聞きに行った後、しつこい誘いに嫌気がさして行方をくらましたという祖父の従弟。

 彼とは逆に、慎の両親とともに光暦正会に入会したが、自己破産して行方知れずになった祖母の兄。

 思想団体とは関係なく、理由不明のまま蒸発したのが慎の伯父。

 飲酒して酩酊したせいで、車道で車に轢かれて死んだのがもう一人の伯父。

 あとはギャンブルに没頭して行方不明になった後、これも交通事故で遺体になって帰ってきた叔母が一人。


 非常に雑多でとりとめのない、あまり悲壮感を感じさせない彼らの位牌の置き場所は、すべてまとめて仏壇一つで済まされている。仏壇には小さな引き出しがいくつかついていたが、めったに開ける者もいなかった。


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