味噌汁と弾道のあいだ
うちの父は、ショッピングモールの警備員だ。ヒーローじゃない。ラスボスでもない。クレーム処理係だ。
今日も誰かに「すみません」と頭を下げている。たぶん今も。
正直に言うと、私はあの制服がちょっと恥ずかしい。
でも――あの日までは、それで十分だと思っていた。
父は五十八歳。まだ若い、と本人は言う。エレベーターの鏡に映る姿は、どう見ても、ちょっと疲れた中年男性だ。
制服は支給品で、サイズが微妙に合っていない。肩は余り、ズボンは少し短い。夏でも長袖をまくって着ている。
あれを見るたび、私は思う。せめて、ぴったりのを選んでほしい。
私たちは郊外のボロアパートに住んでいる。築四十年。二階。外階段は、雨の日にスケートリンク化する。
隣の部屋のいびきが聞こえる。逆に言えば、こっちの笑い声も聞こえている。
母は、十五年前に病気で死んだと聞いている。詳しいことは、私はあまり知らない。父も語らない。優しい顔だった、という記憶だけが残っている。
私は、私立大学三年生。キラキラキャンパスライフ、とはいかない。奨学金まみれだから。卒業した瞬間、ローン地獄スタート確定。笑えない。
それでも友達とカフェに行くし、推しのライブにも行く。普通の大学生だ。たぶん。
ただ、父の職業はあまり言わない。
「お父さんって、何してるの?」
と聞かれたら、私はちょっとだけ間を置く。
「うーん、施設管理系?」
濁す。警備員、と言うと、なんとなく空気が変わる気がして。
父はモールで、主にクレーム処理をしている。
迷子の子どもを抱き上げて、館内放送をかける。万引きした高校生に「次はないよ」と穏やかに言う。駐車場で怒鳴る客に、ひたすら頭を下げる。
先週、私はそれを目撃した。酔っ払いのおじさんが、父の胸ぐらを掴んでいた。
「警備がなってねえんだよ!」
大声で、唾が飛んでいた。父は抵抗しないで、ただ、深く頭を下げる。
「申し訳ありません」
即答。迷いゼロ。男が手を離しても、父はすぐに顔を上げなかった。その背中が、なんだか小さく見えた。
私は、その時、物陰に隠れていた。だって、バレたくなかったから。あの人が私の父だって。
父は優しい人だ。でも、私はそれを、弱いと分類している。強い父がよかった、とは言わない。でも、せめて胸ぐらを掴まれたら振り払ってほしい。
以前に、私がふざけて背後から、「わっ!」と驚かしたとき。父は一瞬で、ぎゅっと、私の手首を掴んだことがあった。
痛くはなかった。でも、凄く速かった。すぐに離して、「ごめん」と言った。
あれは何だったんだろう? できるなら、やってよ、と思う。
父はモールを歩くとき、やけに周囲を見ている。人の歩き方。荷物の持ち方。立ち止まる位置。すれ違う瞬間の肩の動きまで、いちいち確認しているみたいだ。
「職業病だよ」
そう言って笑うけど、警備員ってそんなに観察力いる? って毎回思う。
エスカレーターに乗るときは、必ず端に立つ。しかも、私を自分より一段上に立たせて、背後に人が来ると、さりげなく位置をずらす。
「危ないから」
いや、何が? とツッコミたくなるけど、本人は真剣だ。過保護というより、なんか…訓練された犬みたいに無意識っぽいのが、余計に気持ち悪い。
非常口の位置を全部覚えているのも、ちょっと異常だ。フロアマップを見なくても、「南側に二つ、北に一つ、搬入口横にもある」と即答する。
「覚えておくと便利だぞ」
便利って何。避難訓練でも始める気?
この前なんて、テレビで海外のテロニュースが流れたとき、父が急にリモコンを置いて、画面に向かって解説を始めた。
「爆発の後に中央へ集まるのが一番危ない。柱の陰を取れ。出口は人が殺到する」
誰も聞いてないのに、やけに具体的だ。
私は味噌汁を飲みながら、「はいはい、安全講習」と流した。でも、映像の中で爆発音が鳴った瞬間、父の箸が止まった。
ほんの一瞬だけ、音に合わせて呼吸が止まったみたいに見えた。
「……物騒だな」
次の瞬間には、何事もなかった顔で味噌汁をすする。だから余計に変。神経質というか、音フェチというか、どこでスイッチ入ってるのか分からない。
夜、父が古い金属ケースを拭いているのを見たことがある。銀色で、傷だらけ。やたら丁寧に、布を変えながら磨いていた。
「お父さん、なにそれ?」
と聞いたら、私が触ろうとした瞬間だけ、反射的に手を止められた。一瞬だけ、強い力だった。
でもすぐに離して、「昔の書類だよ」と言う。それ以上は、何も言わない。
なんというか、過去にしがみついてる感じがして、ちょっとダサい。武勇伝でもあるのかと聞きたくなるけど、聞いたら面倒くさそうでやめた。
正直、私は父を情けない人だと思っている。
感謝はしている。お弁当も作ってくれるし、洗濯もしてくれる。卵焼きはちょっと甘いけど。
でも、尊敬はしていない。
就職したら家を出るつもりだ。縁を切るわけじゃない。ただ、距離を置く。だって、このままじゃ、私が沈むから。
父は今日も、「すみません」と言っている。世界に頭を下げながら。そして私は、その背中を見ないふりをしていた。
あの日が来るまでは。
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転んだのは、父じゃない。クレーマーのほうだった。
雨の日の午後、モールの一階エントランス。床は確かに少し滑りやすかったらしい。
中年の女性が派手に尻もちをついて、周囲がどよめいた。そこまでは、よくある光景だ。問題は、そのあとだった。
父が駆け寄り、「大丈夫ですか」と手を差し出した瞬間、女性は突然声を張り上げた。
「押された!この人」
いやいやいや、押してないでしょ、と私は心の中で総ツッコミを入れた。ちょうど買い物帰りに居合わせていた私は、柱の陰から一部始終を見ていたのだ。
父は触れてもいない。距離もあった。けれど、スマホのカメラは都合よく切り取る。
動画は十秒。女性が倒れている場面から始まり、父が近づくところで終わっていた。
翌日には、「暴力警備員」「弱者に手を出す最低男」という見出しがSNSに並んでいた。再生回数は、笑えるくらい伸びた。
大学の講義中、友達がスマホを見せてきた。
「これヤバくない?」
私は画面を見た瞬間、喉がひゅっと鳴った。制服の肩の余り具合まで、見覚えがある。
「うわ、最悪だね」
私はそう言って、笑った。うまく笑えたと思う。
家に帰ると、父はいつも通り味噌汁をよそっていた。
「ちょっと騒ぎになってな」
それだけ言って、テレビの音量を下げた。ニュースではすでに、問題警備員として取り上げられている。
「お父さん、押してないよね?」
私が聞くと、父は頷いた。
「ああ、触れてもいない」
じゃあなんで、と言いかけて、言葉が詰まる。
本社の対応は早かった。事実確認よりも、沈静化が優先された。父は減給。持ち場はバックヤードの見回りへ配置転換。
しばらく目立つ行動は控えろと、釘を刺されたらしい。つまり、半分、切られたようなものだ。
奨学金の更新時期が迫っていた。家計状況の再審査がある。父の収入が下がれば、条件が変わる可能性がある。
私は電卓を叩きながら、頭がくらくらした。
だから警備員なんて。心の中で、何度も同じ言葉が回る。
一生、底辺なんだ。
そう言ってしまえば、少しは楽だったかもしれない。けれど、私は言わなかった。ただ、態度に出た。
「悔しくないの?」
夕食後、私はそう聞いた。
父は少し考えてから、曖昧に笑った。
「あれは仕方ない」
仕方ない、って何。だって押してないんでしょ?
「弁解しないの?」
「まあ、言ってもな」
それだけ。怒りも、弁明もない。ただ、静かに受け入れている。
私は、その姿に苛立った。
戦ってよ。否定してよ。せめて、悔しがってよ。
でも父は、いつもの調子で翌日も出勤した。
夜、ふと目が覚めたとき、居間の明かりがついていた。父が古い金属ケースを机の上に置いているのが見えた。蓋は閉じたまま。指でゆっくり表面をなぞっている。
私は、何となく近づいた。
「お父さん、まだ起きてたの?」
父は少しだけ肩を揺らし、すぐにケースを閉じた。
「昔の書類だ」
前と同じ答え。
「ねえ、見てもいい?」
冗談半分で手を伸ばすと、父の手が私の手首を軽く止めた。強くはない。でも、迷いがない。
「いや、あぶないから」
何が、と聞く前に、父は手を離した。
その夜、風呂上がりに父の背中を見た。シャツ越しでもわかる、いびつな傷跡。肩甲骨の下に、丸い痕のようなものがある。
「それ、何の傷?」
「ああ、昔、ちょっとな」
それ以上は、何も言わない。
私はその時、格闘技番組を流していた。父はリモコンを取って、黙ってチャンネルを変える。
「興味ない」
何それ。あの反射神経で?
私はふざけて、父の背後からいきなり抱きついてみた。
次の瞬間、視界がくるりと回る。気づけば、私は軽く手首を極められていた。痛い、というより、速い。前と同じ。
父は、すぐに離して、また「ごめん」と笑った。
モールの平面図を、父は完璧に暗記しているらしい。テーブルの上に広げたそれを、毎晩同じ角度で見つめている。
「ここから非常口まで、最短何秒?」
半分あきれて聞いた。どうせまた、無駄に真面目な答えが返ってくる。
「三十七秒」
間髪入れずに言う。しかも、少し誇らしげ。
私は、ゆっくり息を吐いた。そこ、ドヤるところじゃない。普通の父親は、娘との会話でタイムアタックしない。
父は、何にでも備える。起きてもいないことに、先回りして、勝手に疲れている。
混雑。転倒。将棋倒し。まだ起きてもいない最悪を、いつも頭の中で再生しているみたいだ。
たぶん、心配性。
たぶん、過剰。
たぶん、面倒くさい。
一緒に歩いていても、私は景色を見ているのに、父は出口を見ている。方向が、最初から違う。
私は思った。就職したら、この家を出よう。普通の速度で、普通の世界を歩きたい。非常口の位置なんて、考えなくていい生活がいい。
保証人欄に父の名前を書く未来を、なんとなく想像できなかった。
父は、もちろん私の決意なんか知らない。その後も、ニュースを静かに見ていた。
炎上は、三日で落ち着いた。
でも、私の中では、何かが確実に冷えていった。
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炎上騒ぎが落ち着いたあと、父は、ますます目立たない場所に回された。
バックヤード担当。お客様の目に触れない、裏の通路と倉庫の巡回。
楽になった、と父は言う。でも給料は減ったままだ。
私はアルバイトを増やした。コンビニと塾講師の掛け持ち。正直きつい。でも、家にお金がないよりはマシだ。
ある夜、ゼミのレポートを書きながら、ふと居間を見ると、また父がフロアマップを広げていた。
今日は、いつもの紙じゃない。頭の中の地図みたいに、空中に指で線をなぞっている。
「お父さん、何してるの?」
「確認だよ」
何の、と聞く前に、父は指を止めた。
「倉庫から非常階段まで、何通りあるか数えてた」
そんなの覚えなくてもよくない? と思う。
「覚えておかないと、落ち着かないんだよ」
落ち着かない、って。
父はそのまま、私の背後に視線を流した。反射的に、私は振り向くが、誰もいない。
「……何もないよ?」
「うん」
その「うん」が、妙に乾いていた気がした。
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あの金属ケースは、相変わらず押し入れの奥にある。ある日、父が風呂に入っている隙に、私はそっと引き出してみた。
ちょっと何これ。重すぎる。
鍵はかかっていない。けれど、開けようとした瞬間、後ろから声がした。
「おい、それはやめとけ」
びっくりして振り返ると、父が立っていた。足音、しなかったけど。
「なに? 別に爆弾でも入ってるわけじゃないでしょ」
冗談で言ったのに、父は笑わなかった。
「昔のものだ」
静かにケースを受け取り、元の場所に戻す。その動作が、必要以上に丁寧すぎる。
裸の父の体には、よく見ると、ところどころ古い傷があった。肩甲骨以外にも、肩、肋骨のあたり、太もも。切り傷とも火傷ともつかない痕。
「若いころ、無茶したからな」
そう言うけれど、どんな無茶だ。
私は一度、軽いノリで聞いたことがある。
「若いころって何してたの?」
「うん、いろいろ」
便利な言葉だ、いろいろ。
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その日は、ただの休日だった。
私は、レポート地獄から逃げるためだけに、モールへ来ていた。三階の雑貨店で、意味もなく高級そうなマグカップを眺める。
「これ買ったら、普通の生活できるかな」
なんて呟いていた。できるわけないのに。
父は、同じ建物のどこか、別フロアで勤務中。朝、北側担当だと言っていたけれど、正直この巨大モールに、北も南もあるのかと毎回思う。
爆発音がしたのは、その直後だった。
衝撃が先に来た。お腹の奥を、内側から殴られたみたいな鈍い振動だった。鼓動がひとつ打ったあとで、乾いた破裂音が重なる。
耳鳴りが広がり、周囲のざわめきが、水の中みたいに歪む。誰かの悲鳴が、少し遅れて届いた。
そのとき、私はようやく理解した。これは、訓練でも映画でもない。巻き戻しもできない現実だった。
通路の中央に、三人の男たちがいる。黒いマスク。銃。一人は拡声器を持ち、政治犯の釈放を要求している。
男の声は落ち着いていた。無差別に撃つつもりはない、と言いながら、見せしめは必要だと続ける。
言葉だけ聞けば、理屈が通っているみたいで、だから余計に怖い。
逃げなきゃ、と体が命じている。でも、足が動かない。人波がぶつかり、押し返され、方向感覚が消える。
肩を押されて、大きく視界が揺れた直後。誰かに、腕を強くつかまれた。
振り向く間もなく、頬に強烈な衝撃が走る。床に膝を打ちつけ、肺の空気が抜けた。音が遠くなる。
それでも、私は何とか立ち上がろうとした、その瞬間――
お腹のあたりに、硬いものが押し当てられる感触があった。何かを考えるより先に、体の中心が、ぐしゃっと潰れる感覚。
遅れて、鼓膜を打つ、短い衝撃音。重みというより、内臓のどこかが、正しい位置から外れた気がした。
一瞬、誰かに押さえつけられたのかと思った。でも、違う。状況が理解できない。
気づくと、私の内側から、熱がじわっと広がっている。服の中が、ゆっくり濡れていく。ようやく、それが血だとわかる。
そこで初めて、何が起きたのかが繋がった。
私は、冷静だった。まだ意識はあるし、呼吸もできる。でも、血は止まらない。床の冷たさが背中に移り、天井の照明が白く滲む。
怖い、より先に、別の感覚が込み上げた。
こんなふうに、あっけなく倒れるんだ、という事実。逃げることもできず、誰かの腕に振り回されて、私はただ床にいる。
情けなさが、静かに喉の奥まで上がってきた。
こんなところで、こんな形で終わるの? 私、まだ単位も足りてないのに。
視界の向こうで、制服姿が駆けてくるのが見えた。見慣れた背中。少しだけ猫背で、それでも真っ直ぐに走る姿。
父だと理解した瞬間、全身から力が抜けていった。
助かる、と思った。でも、その腕は途中で止められてしまう。
上司らしき男が、父の肩を強くつかむ。
「待機しろ。お前は動くな!」
そう命じる。父は、歯を食いしばるでもなく、怒鳴るでもなく、ただ静かに足を止めた。
そして、命令に従った。
私は、床に伏せたままだったが、父の動きだけは、くっきりと見えた。銃口の先を確認し、視線を上げ、ほんのわずかにこちらを見たあと、視線を外す。
助けに来てくれた――わけではない。来られない、という躊躇でもない。
来ない。
その判断の速さが、私を冷たく打ちのめした。胸の奥が、ゆっくり温度を失う。痛みとは別の場所が、静かに凍る。
私は、父のことを、少しだけ恥ずかしいと思っていた。過剰で、空気を読まなくて、いつもどこかずれている人。
それでも、ここぞの瞬間には動く人だと、どこかで思い込んでいた。根拠はない。ただの思い込み。
でも今、父は別のものを選んだ。私ではなく、状況を。感情ではなく、職務を。
それが正しいのかどうかは、わからない。ただ、選ばれなかった事実だけは、はっきりとしている。
血の匂いが濃くなり、鉄の味が喉に上がる。私の視界が揺れ、天井の光が遠ざかる。周囲の怒号も、足音も、水の底みたいにぼやけていく。
これは現実で、誰も物語の役を演じていない。都合よく駆け寄る人も、劇的な救出もない。
父は、動かない。
その静止が、銃声より重く、私の上に落ちてきた。
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腕をつかんだまま、犯人の一人が、私の体を引きずっていく。
お腹の傷と床が、じかに擦れる。狂ったような痛みが、波のように押し寄せ、そのたびに視界の端が暗くなった。
私は、意識が遠のきかける。でも、ここで目を閉じたら、何かが決定的に終わる気がした。理由はない。ただ、本能みたいなもの。
私は、血みどろになりながら、瞬きを減らすことだけに集中した。
人質は中央に集められ、床に座らされている。泣き声と、押し殺したすすり泣き。空気が、ヘドロみたいに重い。
リーダーの男が私の肩をつかみ、無理やり上半身を起こした。お腹の奥で、何かが激しく軋む。
男は、拡声器越しに、警察へ条件を繰り返す。声は落ち着いている。交渉の場に立っている人間の声だ。
見せしめ、という言葉は使わない。でも、その計算は透けて見える。若い女から、血が流れている。絵としてわかりやすい。
私は、物として選ばれている。
呼吸が浅くなり、空気がうまく入らない。それでも歯を食いしばり、目だけを動かし続けた。
すると、少しだけ離れた位置に、制服姿の父が立っているのに気づいた。さっきまで上司に止められていたのに、いきなり距離が縮まっている。
いつのまにか、人質の輪の近く。いや、誰よりも近い。
命令を破ったのか。それとも、命令の範囲内で、ぎりぎりまで寄っているのか。
何も分からない。ただ、さっきより、ずっと、ずっと近い。その事実だけが、揺れる私の視界の中で、唯一鮮明だった。
父は、最初は警備員だった。
背筋を伸ばし、両手をゆっくり挙げて、見える位置に出す。銃口を刺激しない角度。教科書どおりの動きだ。
「落ち着いてください」
父の声は、いつも通り穏やかだった。迷子の子どもをあやすときと、同じ調子。場違いなくらい、日常の延長。
それなのに、周りの空気の密度が、一瞬で変わった。
私は、父の顔を知っている。テレビの前で居眠りをする顔も、味噌汁が薄いと首をひねる顔も。
だからわかる。
瞬きが減った。いや、ほぼない。視線が一点に固定されて、微動だにしない。そして呼吸が、胸ではなく腹で刻まれ始めた。
外から見れば、ほとんど違いはない。けれど、私には、別のスイッチが入った合図に見える。
声も、わずかに低くなった。怒鳴らない。威圧もしない。ただ、言葉の重さが、決定的に変わる。
「要求は理解しました。ただ、あなたの話には、矛盾がある」
静かな一文だ。でも、それだけで、犯人たちの視線が、一斉に父へと向いた。
リーダーが、苛立ちを隠さず銃口を揺らす。それでも父は、視線を外さない。
「あなたは、左利きではない。先ほど爆発物を操作した時の手の使い方と、銃の持ち方が一致していません」
淡々とした指摘。周囲の空気が、わずかにざわつき始める。
私は一瞬、腹の痛みを忘れた。
何それ。意味わかんない。何で、そんなとこ見てるの? 何かの冗談?
でも、父の目は、冗談じゃすまない殺気を放っている。
「爆発物は市販品の改造だ。専門家の仕事ではない。あなたの背後に、別の指示者がいる。違いますか?」
言葉は推測の形をしているのに、響きは断定に近い。
リーダーの目が泳ぐ。隣の男が、ほんの一瞬だけ視線を逸らす。三人のあいだに、小さな沈黙が落ちた。目に見えない亀裂。
父は、それを待っていたみたいに続けた。
「本当のリーダーは、あなたではない」
断定だった。
言い切られた瞬間、男の顔が歪んだ。怒りというより、焦り。図星を突かれた人の顔。
隣の男が、反射的に何か言いかけて止まる。もう一人は、ほんのわずかに後ずさる。三人のあいだに、はっきりと線が引かれていく。
ああ、と私は思った。
これは、説得じゃない。
分断だ。
仲間のはずの三人の間に、疑いを置く。そして、ほつれた糸を、静かに引く。
親子の会話は噛み合わないのに。なんで今だけ、そんなに的確? 何なの、これ。
場の空気が、裏返った。犯人同士の視線が、ぶつかりはじめる。
一瞬だけ、リーダーの意識が、私へ向いた。値踏みする目で、人質としての私を見る。
次の瞬間――父の姿が消えた。
音がない。床を蹴る音も、服が擦れる音も、何も耳に届かない。
私の視界の端で、制服が揺れたと思ったときには、すでに銃が男の手から離れていた。
同時に、人間の関節が逆に折れる、鈍い音がした。男が、うめきながら膝をつく。
父は、そのまま体勢を崩さず、流れるように重心を移し、急所へ一撃を喰らわす。
無駄がない動き。というか、無駄しかない人だと思ってたのに。
そして、他の二人が反応する間もなく距離を詰め、一人の腕を捻り上げ、その顔面を床に叩きつけた。
もう一人が引き金に触れるより早く、その足元が払われ、男の体が浮き、銃が手を離れて床を滑った。
派手じゃない。ヒーロー映画みたいな演出もない。ただ、圧倒的に結果だけが残った。
もしかしたら、数秒の出来事だったのかもしれない。でも私には、やけに長く感じられた。
痛みと安堵が、一緒に、一気に押し寄せてきた。意識が波を打って、視界がゆらゆらする。
取り押さえられた犯人たちの向こうで、父が、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。
その制服は、血で汚れている。私の血か、犯人のものかはわからない。でも、顔は静かだった。息も、まったく乱れていない。
私の隣に膝をついて、そっと肩に手を置く。
「もう大丈夫だ」
その声は、いつもの父だった。
父は、肩が余った制服を脱ぎ捨てた。血で重くなった布を、私のお腹に重ねる。自分の体温ごと、押し当てるみたいに。
「動くな」
低い声。でも、震えていない。
次の瞬間、私は包まれていた。
父の腕は、壁だった。
風も、弾も、世界も、ここには届かない。
私は急に、軽くなる。守られるって、こんなにあっけないものだったのか。
味噌の匂いがした。きっと、朝に作ったまま来たんだ。私のために。
喉が詰まる。
言葉は出ない。
でも、わかる。
この人は、私を選んだ。
何よりも先に。
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救急車の中で、私はずっと天井を見ていた。白いパネルの継ぎ目が、妙にくっきりしていて、そこをなぞるみたいに視線を動かす。
「ああ、私、ちゃんと生きてるな」
ぼんやりと思った。
腹部の処置は迅速で、医師からは命に別状はないと言われた。でも、体よりも先に、何か別のものが壊れている感覚がある。
その日、病室のテレビで流れたニュースは、あまりにも簡潔だった。
ショッピングモールでの立てこもり事件。警備員の勇敢な対応により、犯人は制圧。多数の人質が無事救出――
画面に映った父は、遠目に撮られた制服姿の背中だけ。名前も経歴も語られない。ただの警備員。それが、世間にとっての真実だった。
でも、私は知っている。
あれは偶然じゃない。咄嗟の勇気でもない。
あの動きは、積み重ねられた高度な訓練の結果。言葉の選び方も、身体の使い方も、日常の延長ではありえない。
退院して数日後、物置を片付けているときに、私は金属製のケースを見つけた。鍵はかかってない。
何これ。わざとらしくない? たぶん、偶然を装った告白。
蓋を開けた瞬間、古い革の匂いがした。
中には、擦り切れた公安手帳と、海外任務の記録が収められているファイルがあった。
いくつかのページは黒塗りで消され、名前の欄には削られた痕跡だけが残っている。
任務の種類の中に、「内部崩壊誘導」と記された文字を見つけたときは、私の背筋が凍った。
組織を内側から壊す専門、ってこと? ヤバい、何なの、それ。
さらに奥の封筒には、母の名前があった。
詳細は書かれていない。ただ、海外任務の時期と、母が亡くなったと聞いた時期が、重なっている。
偶然かもしれない。けれど、偶然ではない可能性を、私はもう否定できなかった。
お父さんは、何を守って、何を失ったの?
夜、玄関のドアが開く音がした。いつも通りの足音。スーパーの袋が擦れる音。
私はリビングで、あのケースを閉じ、テーブルの上に置いたまま待った。
「おかえり」
声が少し震えたのは、たぶん傷のせいだ。
「ただいま。まだ無理するなよ」
父は、いつもの調子で靴を脱ぎ、台所に向かう。エプロンをつけて、味噌汁の鍋を火にかける姿は、事件前と何も変わらない。
その背中を見ながら、私は聞いた。
「お父さん……何者なの?」
静かな問い。だって、聞かないとか無理。
怒りも責めもない。ただ、知りたいという気持ちだけ。
父は一瞬だけ手を止め、それから振り向いた。その目は、あの日、私が見た目とは違う。柔らかくて、少し困ったように笑っている。
「警備員だよ」
それだけ言って、味噌を溶かす手を動かした。
説明はない。否定も肯定もない。ただ、その背中が、かつてないほど大きく見える。
私は、初めて泣いた。
事件のときは、銃で撃たれても出なかったのに、今になって止まらない。
自分が父を、恥ずかしいと思っていたこと。将来は早く家を出たいと、本気で考えていたことも、全部が胸の奥で突き刺さる。
母の死が、もし任務と無関係じゃなかったのだとしたら――父は一度、家族を守りきれなかった過去を、今も背負っていることになる。
全部、戦場だったんだ。
私は、その戦場を知らずに、ダサいと笑っていた。
でも、父は、ずっと私を守る位置に立っていた。
エスカレーターの角度も、人を観察する癖も、地図を覚える理由も、全てが愛だったのだと、今ならわかる。
明日もきっと、斜め後ろに立つのだろう。
私はもう、笑わない。
そこが、私の居場所だから。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語が、あなたの「斜め前」を思い出すきっかけになれば嬉しいです。




