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味噌汁と弾道のあいだ

掲載日:2026/02/15

うちの父は、ショッピングモールの警備員だ。ヒーローじゃない。ラスボスでもない。クレーム処理係だ。


今日も誰かに「すみません」と頭を下げている。たぶん今も。


正直に言うと、私はあの制服がちょっと恥ずかしい。


でも――あの日までは、それで十分だと思っていた。


父は五十八歳。まだ若い、と本人は言う。エレベーターの鏡に映る姿は、どう見ても、ちょっと疲れた中年男性だ。


制服は支給品で、サイズが微妙に合っていない。肩は余り、ズボンは少し短い。夏でも長袖をまくって着ている。


あれを見るたび、私は思う。せめて、ぴったりのを選んでほしい。


私たちは郊外のボロアパートに住んでいる。築四十年。二階。外階段は、雨の日にスケートリンク化する。


隣の部屋のいびきが聞こえる。逆に言えば、こっちの笑い声も聞こえている。


母は、十五年前に病気で死んだと聞いている。詳しいことは、私はあまり知らない。父も語らない。優しい顔だった、という記憶だけが残っている。


私は、私立大学三年生。キラキラキャンパスライフ、とはいかない。奨学金まみれだから。卒業した瞬間、ローン地獄スタート確定。笑えない。


それでも友達とカフェに行くし、推しのライブにも行く。普通の大学生だ。たぶん。


ただ、父の職業はあまり言わない。


「お父さんって、何してるの?」


と聞かれたら、私はちょっとだけ間を置く。


「うーん、施設管理系?」


濁す。警備員、と言うと、なんとなく空気が変わる気がして。


父はモールで、主にクレーム処理をしている。


迷子の子どもを抱き上げて、館内放送をかける。万引きした高校生に「次はないよ」と穏やかに言う。駐車場で怒鳴る客に、ひたすら頭を下げる。


先週、私はそれを目撃した。酔っ払いのおじさんが、父の胸ぐらを掴んでいた。


「警備がなってねえんだよ!」


大声で、唾が飛んでいた。父は抵抗しないで、ただ、深く頭を下げる。


「申し訳ありません」


即答。迷いゼロ。男が手を離しても、父はすぐに顔を上げなかった。その背中が、なんだか小さく見えた。


私は、その時、物陰に隠れていた。だって、バレたくなかったから。あの人が私の父だって。


父は優しい人だ。でも、私はそれを、弱いと分類している。強い父がよかった、とは言わない。でも、せめて胸ぐらを掴まれたら振り払ってほしい。


以前に、私がふざけて背後から、「わっ!」と驚かしたとき。父は一瞬で、ぎゅっと、私の手首を掴んだことがあった。


痛くはなかった。でも、凄く速かった。すぐに離して、「ごめん」と言った。


あれは何だったんだろう? できるなら、やってよ、と思う。


父はモールを歩くとき、やけに周囲を見ている。人の歩き方。荷物の持ち方。立ち止まる位置。すれ違う瞬間の肩の動きまで、いちいち確認しているみたいだ。


「職業病だよ」


そう言って笑うけど、警備員ってそんなに観察力いる? って毎回思う。


エスカレーターに乗るときは、必ず端に立つ。しかも、私を自分より一段上に立たせて、背後に人が来ると、さりげなく位置をずらす。


「危ないから」


いや、何が? とツッコミたくなるけど、本人は真剣だ。過保護というより、なんか…訓練された犬みたいに無意識っぽいのが、余計に気持ち悪い。


非常口の位置を全部覚えているのも、ちょっと異常だ。フロアマップを見なくても、「南側に二つ、北に一つ、搬入口横にもある」と即答する。


「覚えておくと便利だぞ」


便利って何。避難訓練でも始める気?


この前なんて、テレビで海外のテロニュースが流れたとき、父が急にリモコンを置いて、画面に向かって解説を始めた。


「爆発の後に中央へ集まるのが一番危ない。柱の陰を取れ。出口は人が殺到する」


誰も聞いてないのに、やけに具体的だ。


私は味噌汁を飲みながら、「はいはい、安全講習」と流した。でも、映像の中で爆発音が鳴った瞬間、父の箸が止まった。


ほんの一瞬だけ、音に合わせて呼吸が止まったみたいに見えた。


「……物騒だな」


次の瞬間には、何事もなかった顔で味噌汁をすする。だから余計に変。神経質というか、音フェチというか、どこでスイッチ入ってるのか分からない。


夜、父が古い金属ケースを拭いているのを見たことがある。銀色で、傷だらけ。やたら丁寧に、布を変えながら磨いていた。


「お父さん、なにそれ?」


と聞いたら、私が触ろうとした瞬間だけ、反射的に手を止められた。一瞬だけ、強い力だった。


でもすぐに離して、「昔の書類だよ」と言う。それ以上は、何も言わない。


なんというか、過去にしがみついてる感じがして、ちょっとダサい。武勇伝でもあるのかと聞きたくなるけど、聞いたら面倒くさそうでやめた。


正直、私は父を情けない人だと思っている。


感謝はしている。お弁当も作ってくれるし、洗濯もしてくれる。卵焼きはちょっと甘いけど。


でも、尊敬はしていない。


就職したら家を出るつもりだ。縁を切るわけじゃない。ただ、距離を置く。だって、このままじゃ、私が沈むから。


父は今日も、「すみません」と言っている。世界に頭を下げながら。そして私は、その背中を見ないふりをしていた。


あの日が来るまでは。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


転んだのは、父じゃない。クレーマーのほうだった。


雨の日の午後、モールの一階エントランス。床は確かに少し滑りやすかったらしい。


中年の女性が派手に尻もちをついて、周囲がどよめいた。そこまでは、よくある光景だ。問題は、そのあとだった。


父が駆け寄り、「大丈夫ですか」と手を差し出した瞬間、女性は突然声を張り上げた。


「押された!この人」


いやいやいや、押してないでしょ、と私は心の中で総ツッコミを入れた。ちょうど買い物帰りに居合わせていた私は、柱の陰から一部始終を見ていたのだ。


父は触れてもいない。距離もあった。けれど、スマホのカメラは都合よく切り取る。


動画は十秒。女性が倒れている場面から始まり、父が近づくところで終わっていた。


翌日には、「暴力警備員」「弱者に手を出す最低男」という見出しがSNSに並んでいた。再生回数は、笑えるくらい伸びた。


大学の講義中、友達がスマホを見せてきた。


「これヤバくない?」


私は画面を見た瞬間、喉がひゅっと鳴った。制服の肩の余り具合まで、見覚えがある。


「うわ、最悪だね」


私はそう言って、笑った。うまく笑えたと思う。


家に帰ると、父はいつも通り味噌汁をよそっていた。


「ちょっと騒ぎになってな」


それだけ言って、テレビの音量を下げた。ニュースではすでに、問題警備員として取り上げられている。


「お父さん、押してないよね?」


私が聞くと、父は頷いた。


「ああ、触れてもいない」


じゃあなんで、と言いかけて、言葉が詰まる。


本社の対応は早かった。事実確認よりも、沈静化が優先された。父は減給。持ち場はバックヤードの見回りへ配置転換。


しばらく目立つ行動は控えろと、釘を刺されたらしい。つまり、半分、切られたようなものだ。


奨学金の更新時期が迫っていた。家計状況の再審査がある。父の収入が下がれば、条件が変わる可能性がある。


私は電卓を叩きながら、頭がくらくらした。


だから警備員なんて。心の中で、何度も同じ言葉が回る。


一生、底辺なんだ。


そう言ってしまえば、少しは楽だったかもしれない。けれど、私は言わなかった。ただ、態度に出た。


「悔しくないの?」


夕食後、私はそう聞いた。


父は少し考えてから、曖昧に笑った。


「あれは仕方ない」


仕方ない、って何。だって押してないんでしょ?


「弁解しないの?」


「まあ、言ってもな」


それだけ。怒りも、弁明もない。ただ、静かに受け入れている。


私は、その姿に苛立った。


戦ってよ。否定してよ。せめて、悔しがってよ。


でも父は、いつもの調子で翌日も出勤した。


夜、ふと目が覚めたとき、居間の明かりがついていた。父が古い金属ケースを机の上に置いているのが見えた。蓋は閉じたまま。指でゆっくり表面をなぞっている。


私は、何となく近づいた。


「お父さん、まだ起きてたの?」


父は少しだけ肩を揺らし、すぐにケースを閉じた。


「昔の書類だ」


前と同じ答え。


「ねえ、見てもいい?」


冗談半分で手を伸ばすと、父の手が私の手首を軽く止めた。強くはない。でも、迷いがない。


「いや、あぶないから」


何が、と聞く前に、父は手を離した。


その夜、風呂上がりに父の背中を見た。シャツ越しでもわかる、いびつな傷跡。肩甲骨の下に、丸い痕のようなものがある。


「それ、何の傷?」


「ああ、昔、ちょっとな」


それ以上は、何も言わない。


私はその時、格闘技番組を流していた。父はリモコンを取って、黙ってチャンネルを変える。


「興味ない」


何それ。あの反射神経で?


私はふざけて、父の背後からいきなり抱きついてみた。


次の瞬間、視界がくるりと回る。気づけば、私は軽く手首を極められていた。痛い、というより、速い。前と同じ。


父は、すぐに離して、また「ごめん」と笑った。


モールの平面図を、父は完璧に暗記しているらしい。テーブルの上に広げたそれを、毎晩同じ角度で見つめている。


「ここから非常口まで、最短何秒?」


半分あきれて聞いた。どうせまた、無駄に真面目な答えが返ってくる。


「三十七秒」


間髪入れずに言う。しかも、少し誇らしげ。


私は、ゆっくり息を吐いた。そこ、ドヤるところじゃない。普通の父親は、娘との会話でタイムアタックしない。


父は、何にでも備える。起きてもいないことに、先回りして、勝手に疲れている。


混雑。転倒。将棋倒し。まだ起きてもいない最悪を、いつも頭の中で再生しているみたいだ。


たぶん、心配性。

たぶん、過剰。

たぶん、面倒くさい。


一緒に歩いていても、私は景色を見ているのに、父は出口を見ている。方向が、最初から違う。


私は思った。就職したら、この家を出よう。普通の速度で、普通の世界を歩きたい。非常口の位置なんて、考えなくていい生活がいい。


保証人欄に父の名前を書く未来を、なんとなく想像できなかった。


父は、もちろん私の決意なんか知らない。その後も、ニュースを静かに見ていた。


炎上は、三日で落ち着いた。


でも、私の中では、何かが確実に冷えていった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


炎上騒ぎが落ち着いたあと、父は、ますます目立たない場所に回された。


バックヤード担当。お客様の目に触れない、裏の通路と倉庫の巡回。


楽になった、と父は言う。でも給料は減ったままだ。


私はアルバイトを増やした。コンビニと塾講師の掛け持ち。正直きつい。でも、家にお金がないよりはマシだ。


ある夜、ゼミのレポートを書きながら、ふと居間を見ると、また父がフロアマップを広げていた。


今日は、いつもの紙じゃない。頭の中の地図みたいに、空中に指で線をなぞっている。


「お父さん、何してるの?」


「確認だよ」


何の、と聞く前に、父は指を止めた。


「倉庫から非常階段まで、何通りあるか数えてた」


そんなの覚えなくてもよくない? と思う。


「覚えておかないと、落ち着かないんだよ」


落ち着かない、って。


父はそのまま、私の背後に視線を流した。反射的に、私は振り向くが、誰もいない。


「……何もないよ?」


「うん」


その「うん」が、妙に乾いていた気がした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


あの金属ケースは、相変わらず押し入れの奥にある。ある日、父が風呂に入っている隙に、私はそっと引き出してみた。


ちょっと何これ。重すぎる。


鍵はかかっていない。けれど、開けようとした瞬間、後ろから声がした。


「おい、それはやめとけ」


びっくりして振り返ると、父が立っていた。足音、しなかったけど。


「なに? 別に爆弾でも入ってるわけじゃないでしょ」


冗談で言ったのに、父は笑わなかった。


「昔のものだ」


静かにケースを受け取り、元の場所に戻す。その動作が、必要以上に丁寧すぎる。


裸の父の体には、よく見ると、ところどころ古い傷があった。肩甲骨以外にも、肩、肋骨のあたり、太もも。切り傷とも火傷ともつかない痕。


「若いころ、無茶したからな」


そう言うけれど、どんな無茶だ。


私は一度、軽いノリで聞いたことがある。


「若いころって何してたの?」


「うん、いろいろ」


便利な言葉だ、いろいろ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


その日は、ただの休日だった。


私は、レポート地獄から逃げるためだけに、モールへ来ていた。三階の雑貨店で、意味もなく高級そうなマグカップを眺める。


「これ買ったら、普通の生活できるかな」


なんて呟いていた。できるわけないのに。


父は、同じ建物のどこか、別フロアで勤務中。朝、北側担当だと言っていたけれど、正直この巨大モールに、北も南もあるのかと毎回思う。


爆発音がしたのは、その直後だった。


衝撃が先に来た。お腹の奥を、内側から殴られたみたいな鈍い振動だった。鼓動がひとつ打ったあとで、乾いた破裂音が重なる。


耳鳴りが広がり、周囲のざわめきが、水の中みたいに歪む。誰かの悲鳴が、少し遅れて届いた。


そのとき、私はようやく理解した。これは、訓練でも映画でもない。巻き戻しもできない現実だった。


通路の中央に、三人の男たちがいる。黒いマスク。銃。一人は拡声器を持ち、政治犯の釈放を要求している。


男の声は落ち着いていた。無差別に撃つつもりはない、と言いながら、見せしめは必要だと続ける。


言葉だけ聞けば、理屈が通っているみたいで、だから余計に怖い。


逃げなきゃ、と体が命じている。でも、足が動かない。人波がぶつかり、押し返され、方向感覚が消える。


肩を押されて、大きく視界が揺れた直後。誰かに、腕を強くつかまれた。


振り向く間もなく、頬に強烈な衝撃が走る。床に膝を打ちつけ、肺の空気が抜けた。音が遠くなる。


それでも、私は何とか立ち上がろうとした、その瞬間――


お腹のあたりに、硬いものが押し当てられる感触があった。何かを考えるより先に、体の中心が、ぐしゃっと潰れる感覚。


遅れて、鼓膜を打つ、短い衝撃音。重みというより、内臓のどこかが、正しい位置から外れた気がした。


一瞬、誰かに押さえつけられたのかと思った。でも、違う。状況が理解できない。


気づくと、私の内側から、熱がじわっと広がっている。服の中が、ゆっくり濡れていく。ようやく、それが血だとわかる。


そこで初めて、何が起きたのかが繋がった。


私は、冷静だった。まだ意識はあるし、呼吸もできる。でも、血は止まらない。床の冷たさが背中に移り、天井の照明が白く滲む。


怖い、より先に、別の感覚が込み上げた。


こんなふうに、あっけなく倒れるんだ、という事実。逃げることもできず、誰かの腕に振り回されて、私はただ床にいる。


情けなさが、静かに喉の奥まで上がってきた。


こんなところで、こんな形で終わるの? 私、まだ単位も足りてないのに。


視界の向こうで、制服姿が駆けてくるのが見えた。見慣れた背中。少しだけ猫背で、それでも真っ直ぐに走る姿。


父だと理解した瞬間、全身から力が抜けていった。


助かる、と思った。でも、その腕は途中で止められてしまう。


上司らしき男が、父の肩を強くつかむ。


「待機しろ。お前は動くな!」


そう命じる。父は、歯を食いしばるでもなく、怒鳴るでもなく、ただ静かに足を止めた。


そして、命令に従った。


私は、床に伏せたままだったが、父の動きだけは、くっきりと見えた。銃口の先を確認し、視線を上げ、ほんのわずかにこちらを見たあと、視線を外す。


助けに来てくれた――わけではない。来られない、という躊躇でもない。


来ない。


その判断の速さが、私を冷たく打ちのめした。胸の奥が、ゆっくり温度を失う。痛みとは別の場所が、静かに凍る。


私は、父のことを、少しだけ恥ずかしいと思っていた。過剰で、空気を読まなくて、いつもどこかずれている人。


それでも、ここぞの瞬間には動く人だと、どこかで思い込んでいた。根拠はない。ただの思い込み。


でも今、父は別のものを選んだ。私ではなく、状況を。感情ではなく、職務を。


それが正しいのかどうかは、わからない。ただ、選ばれなかった事実だけは、はっきりとしている。


血の匂いが濃くなり、鉄の味が喉に上がる。私の視界が揺れ、天井の光が遠ざかる。周囲の怒号も、足音も、水の底みたいにぼやけていく。


これは現実で、誰も物語の役を演じていない。都合よく駆け寄る人も、劇的な救出もない。


父は、動かない。


その静止が、銃声より重く、私の上に落ちてきた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


腕をつかんだまま、犯人の一人が、私の体を引きずっていく。


お腹の傷と床が、じかに擦れる。狂ったような痛みが、波のように押し寄せ、そのたびに視界の端が暗くなった。


私は、意識が遠のきかける。でも、ここで目を閉じたら、何かが決定的に終わる気がした。理由はない。ただ、本能みたいなもの。


私は、血みどろになりながら、瞬きを減らすことだけに集中した。


人質は中央に集められ、床に座らされている。泣き声と、押し殺したすすり泣き。空気が、ヘドロみたいに重い。


リーダーの男が私の肩をつかみ、無理やり上半身を起こした。お腹の奥で、何かが激しく軋む。


男は、拡声器越しに、警察へ条件を繰り返す。声は落ち着いている。交渉の場に立っている人間の声だ。


見せしめ、という言葉は使わない。でも、その計算は透けて見える。若い女から、血が流れている。絵としてわかりやすい。


私は、物として選ばれている。


呼吸が浅くなり、空気がうまく入らない。それでも歯を食いしばり、目だけを動かし続けた。


すると、少しだけ離れた位置に、制服姿の父が立っているのに気づいた。さっきまで上司に止められていたのに、いきなり距離が縮まっている。


いつのまにか、人質の輪の近く。いや、誰よりも近い。


命令を破ったのか。それとも、命令の範囲内で、ぎりぎりまで寄っているのか。


何も分からない。ただ、さっきより、ずっと、ずっと近い。その事実だけが、揺れる私の視界の中で、唯一鮮明だった。


父は、最初は警備員だった。


背筋を伸ばし、両手をゆっくり挙げて、見える位置に出す。銃口を刺激しない角度。教科書どおりの動きだ。


「落ち着いてください」


父の声は、いつも通り穏やかだった。迷子の子どもをあやすときと、同じ調子。場違いなくらい、日常の延長。


それなのに、周りの空気の密度が、一瞬で変わった。


私は、父の顔を知っている。テレビの前で居眠りをする顔も、味噌汁が薄いと首をひねる顔も。


だからわかる。


瞬きが減った。いや、ほぼない。視線が一点に固定されて、微動だにしない。そして呼吸が、胸ではなく腹で刻まれ始めた。


外から見れば、ほとんど違いはない。けれど、私には、別のスイッチが入った合図に見える。


声も、わずかに低くなった。怒鳴らない。威圧もしない。ただ、言葉の重さが、決定的に変わる。


「要求は理解しました。ただ、あなたの話には、矛盾がある」


静かな一文だ。でも、それだけで、犯人たちの視線が、一斉に父へと向いた。


リーダーが、苛立ちを隠さず銃口を揺らす。それでも父は、視線を外さない。


「あなたは、左利きではない。先ほど爆発物を操作した時の手の使い方と、銃の持ち方が一致していません」


淡々とした指摘。周囲の空気が、わずかにざわつき始める。


私は一瞬、腹の痛みを忘れた。


何それ。意味わかんない。何で、そんなとこ見てるの? 何かの冗談?


でも、父の目は、冗談じゃすまない殺気を放っている。


「爆発物は市販品の改造だ。専門家の仕事ではない。あなたの背後に、別の指示者がいる。違いますか?」


言葉は推測の形をしているのに、響きは断定に近い。


リーダーの目が泳ぐ。隣の男が、ほんの一瞬だけ視線を逸らす。三人のあいだに、小さな沈黙が落ちた。目に見えない亀裂。


父は、それを待っていたみたいに続けた。


「本当のリーダーは、あなたではない」


断定だった。


言い切られた瞬間、男の顔が歪んだ。怒りというより、焦り。図星を突かれた人の顔。


隣の男が、反射的に何か言いかけて止まる。もう一人は、ほんのわずかに後ずさる。三人のあいだに、はっきりと線が引かれていく。


ああ、と私は思った。


これは、説得じゃない。


分断だ。


仲間のはずの三人の間に、疑いを置く。そして、ほつれた糸を、静かに引く。


親子の会話は噛み合わないのに。なんで今だけ、そんなに的確? 何なの、これ。


場の空気が、裏返った。犯人同士の視線が、ぶつかりはじめる。


一瞬だけ、リーダーの意識が、私へ向いた。値踏みする目で、人質としての私を見る。


次の瞬間――父の姿が消えた。


音がない。床を蹴る音も、服が擦れる音も、何も耳に届かない。


私の視界の端で、制服が揺れたと思ったときには、すでに銃が男の手から離れていた。


同時に、人間の関節が逆に折れる、鈍い音がした。男が、うめきながら膝をつく。


父は、そのまま体勢を崩さず、流れるように重心を移し、急所へ一撃を喰らわす。


無駄がない動き。というか、無駄しかない人だと思ってたのに。


そして、他の二人が反応する間もなく距離を詰め、一人の腕を捻り上げ、その顔面を床に叩きつけた。


もう一人が引き金に触れるより早く、その足元が払われ、男の体が浮き、銃が手を離れて床を滑った。


派手じゃない。ヒーロー映画みたいな演出もない。ただ、圧倒的に結果だけが残った。


もしかしたら、数秒の出来事だったのかもしれない。でも私には、やけに長く感じられた。


痛みと安堵が、一緒に、一気に押し寄せてきた。意識が波を打って、視界がゆらゆらする。


取り押さえられた犯人たちの向こうで、父が、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。


その制服は、血で汚れている。私の血か、犯人のものかはわからない。でも、顔は静かだった。息も、まったく乱れていない。


私の隣に膝をついて、そっと肩に手を置く。


「もう大丈夫だ」


その声は、いつもの父だった。


父は、肩が余った制服を脱ぎ捨てた。血で重くなった布を、私のお腹に重ねる。自分の体温ごと、押し当てるみたいに。


「動くな」


低い声。でも、震えていない。


次の瞬間、私は包まれていた。


父の腕は、壁だった。


風も、弾も、世界も、ここには届かない。


私は急に、軽くなる。守られるって、こんなにあっけないものだったのか。


味噌の匂いがした。きっと、朝に作ったまま来たんだ。私のために。


喉が詰まる。


言葉は出ない。


でも、わかる。


この人は、私を選んだ。


何よりも先に。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


救急車の中で、私はずっと天井を見ていた。白いパネルの継ぎ目が、妙にくっきりしていて、そこをなぞるみたいに視線を動かす。


「ああ、私、ちゃんと生きてるな」


ぼんやりと思った。


腹部の処置は迅速で、医師からは命に別状はないと言われた。でも、体よりも先に、何か別のものが壊れている感覚がある。


その日、病室のテレビで流れたニュースは、あまりにも簡潔だった。


ショッピングモールでの立てこもり事件。警備員の勇敢な対応により、犯人は制圧。多数の人質が無事救出――


画面に映った父は、遠目に撮られた制服姿の背中だけ。名前も経歴も語られない。ただの警備員。それが、世間にとっての真実だった。


でも、私は知っている。


あれは偶然じゃない。咄嗟の勇気でもない。


あの動きは、積み重ねられた高度な訓練の結果。言葉の選び方も、身体の使い方も、日常の延長ではありえない。


退院して数日後、物置を片付けているときに、私は金属製のケースを見つけた。鍵はかかってない。


何これ。わざとらしくない? たぶん、偶然を装った告白。


蓋を開けた瞬間、古い革の匂いがした。


中には、擦り切れた公安手帳と、海外任務の記録が収められているファイルがあった。


いくつかのページは黒塗りで消され、名前の欄には削られた痕跡だけが残っている。


任務の種類の中に、「内部崩壊誘導」と記された文字を見つけたときは、私の背筋が凍った。


組織を内側から壊す専門、ってこと? ヤバい、何なの、それ。


さらに奥の封筒には、母の名前があった。


詳細は書かれていない。ただ、海外任務の時期と、母が亡くなったと聞いた時期が、重なっている。


偶然かもしれない。けれど、偶然ではない可能性を、私はもう否定できなかった。


お父さんは、何を守って、何を失ったの?



夜、玄関のドアが開く音がした。いつも通りの足音。スーパーの袋が擦れる音。


私はリビングで、あのケースを閉じ、テーブルの上に置いたまま待った。


「おかえり」


声が少し震えたのは、たぶん傷のせいだ。


「ただいま。まだ無理するなよ」


父は、いつもの調子で靴を脱ぎ、台所に向かう。エプロンをつけて、味噌汁の鍋を火にかける姿は、事件前と何も変わらない。


その背中を見ながら、私は聞いた。


「お父さん……何者なの?」


静かな問い。だって、聞かないとか無理。


怒りも責めもない。ただ、知りたいという気持ちだけ。


父は一瞬だけ手を止め、それから振り向いた。その目は、あの日、私が見た目とは違う。柔らかくて、少し困ったように笑っている。


「警備員だよ」


それだけ言って、味噌を溶かす手を動かした。


説明はない。否定も肯定もない。ただ、その背中が、かつてないほど大きく見える。


私は、初めて泣いた。


事件のときは、銃で撃たれても出なかったのに、今になって止まらない。


自分が父を、恥ずかしいと思っていたこと。将来は早く家を出たいと、本気で考えていたことも、全部が胸の奥で突き刺さる。


母の死が、もし任務と無関係じゃなかったのだとしたら――父は一度、家族を守りきれなかった過去を、今も背負っていることになる。


全部、戦場だったんだ。


私は、その戦場を知らずに、ダサいと笑っていた。


でも、父は、ずっと私を守る位置に立っていた。


エスカレーターの角度も、人を観察する癖も、地図を覚える理由も、全てが愛だったのだと、今ならわかる。


明日もきっと、斜め後ろに立つのだろう。


私はもう、笑わない。


そこが、私の居場所だから。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


この物語が、あなたの「斜め前」を思い出すきっかけになれば嬉しいです。

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