7 やさしい記憶
次の日。
ステラとゼフは、森の中を歩いていた。
木々のあいだからのぞく日の光だけが、細い糸のように地面を照らしている。
ステラは足音をできるだけ小さくして、ゼフと並んで進んだ。
「……この先、何かいる。気をつけて」
ゼフの声は、いつもより低い。
風がざわりと動いた。
次の瞬間、急に視界が開ける。
大樹の前にぽつん、と古い祠が立っていた。
苔がびっしりついて、ほとんど崩れかけているのに、そこだけ空気がきゅっと張りつめている。
そして——
祠の前に、黒い影。
曇り空から差し込む太陽の光に照らされて、少しずつ輪郭が浮かび上がる。
黒い狼。
瞳だけが、静かに光っていた。
ゼフがステラの腕をつかんだ。
「ステラ、下がって。あいつ……普通の獣じゃない」
でも、ステラは首を横に振る。
(怖いはずなのに……)
胸の奥は、不思議と静かだった。
一歩。
もう一歩。
狼の金色がかった瞳が、じっとステラを見つめる。
——その瞬間。
『止まれ』
声じゃない。
頭の奥に、冷たい水が流れ込むみたいに響いた。
ステラは思わず息をのむ。
「……あなた、話せるの?」
ゼフがぎょっとした顔をする。
「ステラ、この狼の声が聞こえるのか?」
こくん、とステラは小さく頷いた。
狼はゆっくりと祠のほうへ顔を向ける。
『ここは、誰にも渡さない』
低く、低く。
だけど、悲しさの混じった響き。
次の瞬間——
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
森が若返る。
木々は明るい緑で、人の笑い声が聞こえた。
子どもたちが祠のまわりで遊び、狼は少し離れた場所で座って見守っている。
(……優しい顔、してる)
ステラはそう思った。
—視界が、またゆっくり動き出す。
祠の前。
昼下がり。
村の人たちが森へ入ってきていた。
誰かが祠に花を置き、
子どもが小さく頭を下げる。
狼は少し離れた場所で、静かに伏せている。
『今日も、来てくれた』
胸の奥で、小さく灯りがともるような感覚。
誰も狼には近づかない。
でも、見つけた人は、そっと会釈をしていく。
それだけでよかった。
それだけで——
風が通り抜ける。
森は生きている。
人も森と、ちゃんとつながっていた。
——場面が変わる。
同じ祠。
同じ森。
でも、人の気配がもう、ほとんどない。
祠の花は枯れて、
供え物の皿は割れたまま。
季節がいくつも流れていく映像。
誰も来ない日が、ずっと続く。
狼は毎日、祠の前に立つ。
雨の日も、雪の日も。
けれど、時間が経つほど、胸の奥がからっぽになっていく。
『今日も……来ない』
声に出すこともできない。
呼びとめることもできない。
ただ、見守ることしかできない。
やがて——
夜の森を、フードの男たちが歩く。
彼らは祠に近づき、
地面を掘り、何かを調べている。畑も、荒らしている。
森がざわめき、狼は立ち上がる。
『ここは、人間との大切な場所。渡さない』
牙を見せ、追い払う。
——でも。
次の日、村から聞こえてきたのは、
「森の狼は危ない」
「祠を壊したのも、畑を荒らしたのも、あれだ」
「森に近づくのはやめよう」
そんな声だった。
『違う』
否定は、風に溶けて消えた。
狼はただ、祠の前に戻る。
戻って、また静かに座る。
誰も来ない祠を守り続けながら。
『それでも——待つ。待ち続ける』
どこかで、まだ信じていた。
誰かがまた森に来て、
昔みたいに静かに頭を下げてくれる日を。
あの暖かな日々が戻ってくることを。
映像がふっと消える。
ステラは、息をついた。
手が少し震えている。
(ずっと、一人で待ってたの……?)
狼は静かに言う。
『私は、森を守っていただけだ』
しばらく、誰も何も言えなかった。
ゼフが、ゆっくりとステラを見た。
「……今の、ステラも見たか?」
ステラは小さくうなずく。
そして、祠を見つめた。
「あの村、ちゃんと知らなきゃだめだね。
狼さんのことも、森のことも」
(たぶん、フードを被ってた人たちのせいで、この狼さんが悪者になっちゃったんだ)
「本当のことを村の人に伝えないと。早く村に戻ろう、ゼフ」
「そうだな」
このやさしい狼がもう『さびしい』と思わないように。




