独りじゃない
ヤバい、書きながら泣いちゃった...
元より感情移入しやすいけどさぁ ここまで!?
視界に映るのは 徹底的に破壊され 無残な骸を晒した事務所の残骸だけだった
なぎ倒された机
四散した書類
ひっくり返った椅子
床で粉々に砕け散ったコーヒーメーカーが そこにあったはずの安穏とした時間を無慈悲に否定している
――烈は いない
その事実が 鋭利な刃となって漣の胸を深く 深く貫いた
酷使した源生の副作用で感覚の麻痺した指先が 今度は別の理由で激しく震え始める
目の前に広がる絶望は どこまでも冷たく 容赦なく 彼の心臓を執拗に叩き続けていた
「...あ 解析しなきゃ いけないんだ。烈が連れ去られた方向...路面のタイヤ痕 残留している源生の...周波数...。まだ ルートは...」
震える声で 必死に無機質な数字を並べる
そうしていなければ 今にも胸の奥にある巨大な「穴」に吸い込まれてしまいそうだった
視界が急激に歪む
解析しようと焦れば焦るほど 網膜に浮かぶはずの数式が 滲んだ涙に溶けて消えていく
「おかしいな...数式が 見えない...。烈を見つけないといけないのに....」
その痛みの澱から 不意に遠い記憶の断片がせり上がってくる
五歳の あの焼け付くような夏
セミの声がうるさいほどに響く中 父は荷物も持たず ただ一つだけを携えて玄関に立っていた
「パパ? どこいくの?」
幼い漣がその裾を掴もうとしたとき 父はゆっくりと膝をついた
その瞳には 慈しみよりも深い 逃れようのない「絶望」の色が混じっていた
「すまない...漣。もう 引き返せないんだ」
父は 無機質に光る銀色の端末――エイジャスを漣の小さな掌に握らせた
無理やり握りしめさせられたその冷たい感触が 漣の記憶に刻まれた「父の体温」の最後だった
「漣 生きろ。...お前の『眼』で この世界の嘘を暴け」
それが最後の言葉だった
父は一度も振り返ることなく 陽炎が揺れる外の世界へと消えていった
遠ざかる大きな背中
それが漣にとっての 父の「最期」の姿だった
九条漣という「人間」の心は あの日 あの瞬間に死んだのだ
感情などという不確かなものに縋れば 心は容易く壊れてしまう
だから彼は 自分の心に分厚い蓋をした
悲しみを「欠落」と定義し 孤独を「効率化」という言葉で塗り潰した
烈に出会うまで 彼の心は絶対零度の静寂に包まれていた
だが 烈と共に過ごす日常の中で 漣の心は気づかないうちに熱を帯び始めていたのだ
冷徹でありたい自分
誰かを信じたい自分
その熱を持たない心
熱を帯びる心
この矛盾を抱えたまま 彼は「解析屋」という仮面を被り続けてきた
だが 今。その限界が訪れた。
「...俺...慢心してたんだ...」
絞り出すような声が 静まり返った廃墟に落ちる
解析 知略 源生――それらに頼り 万能になれたと錯覚していた
守るべき一人すらその腕から零れ落ちるのを止められなかった自分
自ら作った仮面が剥がれ落ち そこには十二年前から一歩も動けていない 震える子供が残されていた
その時だった
冷え切った漣の肩に 凛の手がそっと触れた
その温もりに 漣の肩がびくりと跳ねた
「...漣くん。もういいよ。もう 独りで計算なんてしなくていい」
凛の声は 凪いだ海のように静かだった
彼女の指先が漣の肌に触れた瞬間 漣を包んでいた薄氷のような源生が その本質を露呈させる
凛は気づいていた
漣が纏う源生――その強固な防壁の正体は 誰かを拒絶するための壁ではなく 二度と誰も失わずに済むようにと必死に編み上げた 臆病なまでの優しさの結晶なのだと
「私を救ってくれた時の漣くんは 今のあなたみたいに震えていた私を 何も言わずに隣で支えてくれた。...あの時 私は思ったの。この人は 一人で全部の重荷を背負って それでも誰かの手を引こうとしてるんだって」
凛の指先に 力がこもる
「でもね 漣くん。それは優しさだけど...少しだけ 悲しい傲慢だよ。あなたは一人で最強になろうとして 一人で全部を終わらせようとしてた。...烈くんも 私も そんなこと望んでない」
「凛...俺 は...守らなきゃ...守らなきゃいけな いのに...」
「怖いのは 当たり前だよ。大切な人を失って 自分の無力さを知って...。でも 戻ることはできないの。だから...」
凛は漣の目を真っ直ぐに見つめ 微笑んだ。
それは かつて漣が彼女に与えた「救い」と同じ色をしていた
「今度は 私が半分持つよ。その震えも 怖さも 烈さんを取り戻すための覚悟も。全部 私に半分預けて。もう...独りで戦わなくていいんだよ」
その瞬間 漣の中で張り詰めていた最後の糸が ぷつりと切れた
「...あ ...ぁあ...ッ!!」
声にならない嗚咽が 喉の奥から溢れ出す
凛がその小さな体で漣を包み込むように抱きしめると 彼は堰を切ったように 嗚咽を漏らし始めた
十二年間 知性と理論という名の檻に閉じ込めてきた 五歳の自分。
父の背中を見送り ただ独りで端末を握りしめていたあの日の少年が 今 時を超えて悲鳴を上げた
「...やだ ...いかないで 父さん...ッ 烈...っ! おいていかないでくれ もう...独りは...いやなんだ...っ!!」
漣は 凛の肩に額を預けたまま 子供のように声を上げて泣きじゃくった
解析屋としての矜持も 冷徹な仮面も そこには微塵もなかった
ぐしゃぐしゃに顔を歪め 凛の服を掴んで離さないその姿は あまりにも無防備で あまりにも人間だった
自らの限界
抱え続けた矛盾
それは「独りで背負う」という傲慢な理性が崩れ去り 仲間に縋ることの大切さを 心が 魂が 初めて理解した瞬間だった
凛は何も言わず ただ 漣の背中に腕を回して抱きしめた
彼の流す涙も これまで独りで背負ってきた凍えるような孤独も そのすべてを自分の温もりで溶かしていくように
事務所の惨状の中で 二人の時間だけが静かに流れていった
ひとしきり泣き続けた後 漣はゆっくりと顔を上げた
腫れた瞼を拭い 凛の手を 今度は自分の意思で 力強く握り返す
「...ごめん 凛。.......ありがとう」
その声には もう震えはなかった。
涙を拭った後の漣の瞳には かつての冷たい計算式ではなく 仲間と共に燃える「熱」が宿っていた
「俺は 慢心していた。独りで勝つことが 最善の最適解だと信じていた。...でも それは間違いだ」
漣は立ち上がり 壊された事務所を見渡す
そこにはもう絶望はない
あるのは 取り戻すべき日常への 剥き出しの執念だけだ
「俺たちが 取り戻すんだ。...烈を。二人で」
独りで完結していた男は 死んだ。
今ここにいるのは 仲間の温もりを知り その熱を力に変えて戦う「人間」だ
大人になるということは 独りで立つことではない
守りたいもののために 誰かの手を握る強さを知ることなのだと 漣は今 理解した
「行こう 凛。...最適解は 俺たちが描き直す」
源生の痛みを抱えながらも 漣は力強く一歩を踏み出した
闇に包まれた事務所の跡地に 重なり合う二人の足音が かつてないほど誇らしく 響き渡っていた。




