第十一話 最初の依頼人:迷い込んだノイズ
事務所、解析屋『黒猫』。
煤けた看板を掲げた二人の前に現れたのは、一人の少年と、一つの「呪い」でした
【第一章:切り捨てし飢餓、その果てに秩序は成る】
開幕。
九条解析事務所、改め、解析屋『黒猫』。
入り口に烈が勝手に打ち付けた、端材に黒ペンキで書かれた粗末な看板は、早くも潮風に晒されて煤けていた。
「……だから、その看板は外せと言っている。僕の仕事は、隠密性が命なんだ」
「固いこと言うなよ漣。記念すべき第一歩だろ? ほら、看板猫の『クロ』も気に入ってるぜ」
烈が指差した先では、あの日以来居着いた黒猫が精密機器の排熱で温まったサーバーの上で不遜に欠伸をしていた。
漣がこめかみを押さえて溜息をついた、その時だった。
――コン、コン。
震えるような、遠慮がちなノックの音。
烈と漣の視線が交差する。数秒の沈黙の後、表の扉がギィと音を立てて開いた。
「……あの、ここ……助けてくれるって、聞いたんだけど……」
立っていたのは、一人の少年だった。
煤けた顔に、ぶかぶかのコート。その手には、まるで生き物のように不気味な「赤いノイズ」を放つ、歪んだ記憶チップが握られていた。
「これ……治してほしいんだ。僕の……たった一人の、『家族』なんだ」
少年が語るには、中央区の端にある『廃棄場』で、空から降ってきたのを拾ったのだという。
漣は無言でチップを受け取ると、作業デスクに置いた。少年の指がチップを離す瞬間に、指先が凍りついたように白く震えたのを、漣は見逃さなかった。
「……烈、基板の固定を。エイジャス、展開」
漣がデバイスを接続し、思考をダイブさせた直後...!
網膜に投影されたのは、これまでのどんなバグとも違う「地獄」だった。
「……っ!? なんだ、これは……」
通常、壊れたデータは無機質な文字列の羅列だ。
しかし、このチップの内部は、まるで剥き出しの血管がのたうち回っているかのような、有機的なコードに侵食されていた。
漣の指先がキーボードの上で凍りつく。
赤い奔流がモニターを塗り潰し、一つの単語を刻印した。
【 飢 餓 】
「……飢餓? 冗談じゃない」
漣の背筋に、氷柱が差し込まれたような悪寒が走る。
それはシステム用語でも暗号でもない。
ただの、剥き出しの「本能」がそこに鎮座していた。
「漣、どうした? 顔色が悪いぜ」
「烈……下がってろ。これは故障じゃない。データ自体が、外部の情報を拒絶して『捕食』しようとしている……。エイジャスが、こいつを認識するのを拒否しているんだ。まるで、見つめたら最後、こちら側が喰われるとでも言いたげに」
その直後、デスクの上のチップが「ドクン」と脈打った。
赤いノイズが実体化し、細い触手のように少年の腕に絡みつく。
「あ、あぁ……! いたい、いたいよ……っ!」
「!? 理屈は知らねぇが、こいつが『悪者』だってのは分かったぜ!」
烈がパイル・バーストを起動し、最小限の衝撃波でチップを弾き飛ばす。
少年の腕を救い出したものの、床に転がったチップは死んでいない。むしろ事務所の電力を吸い上げ、闇の中でより深く、赤く、脈動を続けている。
「少年。……悪いがこいつは預かる。今の俺では、こいつの『腹の中』を暴くには時間が足りない」
怯える少年を帰した後、静まり返った事務所で漣は隔離ケースの中の「赤」を凝視していた。
「なあ漣。こいつ、誰かが『捨てた』んじゃなくて……わざと『解き放たれた』んじゃないか?」
烈の呟きに、漣は答えなかった。
ただ一つ確かなのは、このチップの暗号化の癖に自分の知るどの組織とも違う、ぞっとするほど冷徹な「秩序」の残滓を感じたことだ。
それは、特定の誰かを呼び寄せるための「餌」のようでもあった。
事務所の隅で、黒猫が一つ、低く唸り声を上げた。
開けてはならない深淵を自分たちは開けてしまったのではないか。
その予感だけが、重苦しい夜の闇に溶けていった。
最後までお読みいただきありがとうございます!
持ち込まれたのは、あまりに禍々しい「赤」。
合理の化身である漣のエイジャスですら、その深淵を覗くことを拒絶しました。
画面に刻まれた【 飢 餓 】という不気味な二文字。
「誰かが解き放った」という烈の直感は、この先に待ち受ける巨大な嵐の予兆なのか。
孤独な解析屋と不敵な鉄杭、二人の絆が試される「開かずの箱」の物語が、ここから動き始めます。
【次回の更新告知】
本日、夜19:00頃に
第十二話「赤に奪われし「狗」の急襲」
を更新します。
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