第9話:虚影の殺意・心臓が砕ける音
黒翼の爪が振り下ろされた瞬間、
葵は横へ跳び、床に転がった。
ザァァァンッ!!
さっきまで葵の首があった空間が、
深々と抉れる。
弟影が叫ぶ。
『おねえちゃん!!
もう避けるだけで精一杯だよ!!
こんなの……どうしようもないよ!!』
影は低く言った。
──違う。
今は“避けられている”。
それが重要だ。
葵、恐怖を抱えたまま走れ。
恐怖は“視界を広げる力”にもなる。
葵は必死に息を切らしながら走る。
だが黒翼の声が追ってくる。
『無駄なことを。
お前の恐怖……
あれは深淵のように深い。
掘れば掘るほど……
私にとっては肥料になるだけだ。』
黒翼の姿は見えない。
しかし次の瞬間──
ス……ッ
葵の背後に“何か”が立った感覚がする。
「っっ!? 来る──!!」
葵が振り返るより早く、
ザクッ!!!!
鋭い痛みが腹部に走る。
葵の身体が宙を舞い、
床に転がった。
「ぁ……が……っ……!!」
腹から血が滲む。
弟影が悲鳴。
『おねえちゃああああん!!!』
黒翼の影が葵の背後にゆっくりと立つ。
その姿は、
まだ完全には認識できない。
だが、声だけは異様に近い。
『葵。
“間に合わなくて泣いた”あの夜を思い出せ。
お前の一番深い恐怖……
今こそ掘り起こす時だ。』
葵は震えながら、
血のついた手で床を押し、なんとか起き上がる。
「やめて……
もう言わないで……ッ……!!」
黒翼は葵の耳元で囁くように言う。
『やめない。
お前は“間に合わなかった”。
大切なものを守れなかった。
助けたかったのに間に合わなかった。
間に合わなかった。
間に合わなかった。
──間に合わなかった。』
その言葉が、
まるで心臓を直接握られるように響く。
──ドクン。
影が叫ぶ。
──葵!!
耳を塞げ!!
聴くな!!
だが葵の身体は動かない。
金縛りのような恐怖で、動けない。
黒翼の声は続く。
『あのとき、お前は走った。
走って……走って……
でも届かなかった。
助けたかった“誰か”に……
手が触れる前に……
影が全部、奪っていった。』
葵の瞳が大きく揺れる。
「……やめて……
言わないで……」
弟影も必死に叫ぶ。
『おねえちゃん!!
だめだよ!!
黒翼はおねえちゃんの“いちばん奥の記憶”に……!!』
黒翼は一歩近づき、
指先を葵の胸元へ向ける。
『葵。
お前の心臓には“ひび割れ”がある。
昔ついて、まだ残っている傷だ。
その傷を……
今から、壊す。』
ギ……ッ!!
葵の心臓が痛み、
身体が折れかける。
影が必死に抑えようとする。
──やめろ黒翼!!!
これ以上やれば……
葵は“心が死ぬ”!!
黒翼は嘲るように笑う。
『だからいいのだ。
心が死ねば、葵は私のものになる。
心なき影人形として──
永遠に私の影界で生きてもらう。』
葵の胸が締め付けられ、
呼吸ができない。
「……あ……が……っ……!!」
影が叫ぶ。
──葵!!
抗え!!
お前はここで折れるような子じゃない!!
黒翼が囁く。
『折れるよ。
この子はもう限界だ。
本当はずっと限界だった。
守れなかった“あの人”の記憶が……
今も心臓を締め付けている。
それがこの子の弱点だ。』
──ドクン。
ドクン。
心臓の痛みが強くなる。
葵の視界が揺れ──
“あの日”の走る音が蘇る。
──もっと早く……
──もっと早く気付いていたら……
──もっと早く手を伸ばしていたら……
黒翼が言う。
『葵。
本当は分かっているだろう?
“助けたかった人”を助けられなかったのは……
お前が弱かったからだ。』
その瞬間。
パリン……
葵の胸の奥で、
“何かがひび割れた音”がした。
弟影が泣き叫ぶ。
『だめぇぇぇ!!
おねえちゃん!!
戻ってきて!!
行かないで!!
そんな顔、しないでぇ!!』
影が震えている。
──マズい……!!
葵の心が……
本当に折れかけている……!!
これ以上は……耐えられない……!!
黒翼は満足げに微笑む。
『さあ、葵。
お前の心臓を……壊してやろう。』
黒翼の指先が
葵の胸に触れようとした、その瞬間──
カラン……ッ
床に“何か”が落ちる音がした。
それは──
葵のポケットから落ちた、
小さな破れた“紙片”。
弟影がそれを見て息を呑む。
『……それ……
おねえちゃんがずっと大事に持ってた……
“あの人”の……メモ……!!』
影も驚愕する。
──葵……
まだ持っていたのか……
あの日の……
黒翼が一瞬、動きを止める。
葵は震える手で、その紙片に触れた。
それは──
「待ってる。必ず迎えにいく。」
と書かれた、あの日の文字。
破れて、にじんで、
今にも消えそうな文字。
だが──
葵の目に光が戻る。
「……違う……
私は……
“弱かったから”間に合わなかったんじゃない……」
葵は立ち上がる。
「違う……!!
間に合わなかったのは……
“あの人が私を守ろうとしたから”!!
弱さじゃない!!」
黒翼の表情が初めて歪む。
『……なに?』
影が叫ぶ。
──その通りだ、葵!!
その記憶は“弱さ”じゃない!!
“あなたが大切にしてきた強さの証だ”!!
弟影も涙を拭いながら叫ぶ。
『そうだよ!!
おねえちゃんは弱くない!!
あのときのことを……
ずっと抱えて生きてきたんだよ!!
その気持ちが……
影を呼んだんだよ!!』
葵の胸が強く脈打つ。
──ドクンッ!
黒翼が後ずさる。
『……心臓のひびが……
修復している……だと……!?』
葵は紙片を握りしめ、
まっすぐ黒翼を見据えた。
「私はもう折れない。
だって……
守りたいものがあるから……!!」
影が静かに呟く。
──葵……
本当のあなたが、やっと目を覚ました。
黒翼の影が揺れる。
『……面白い。
ならば──
その覚悟、へし折ってやる。
お前を絶望の底で塗りつぶしてやる!!』
葵は構える。
「上等だよ!!
黒翼!!」
黒翼が虚影の姿で襲いかかり──
次の瞬間、
葵の瞳が“あるもの”を捉えた。
黒翼の影の“歪み”。
影が驚く。
──見えたのか……!?
虚影形態の“唯一の弱点”……!!
黒翼が狼狽したように叫ぶ。
『なぜだ……!?
なぜ見える……!?
虚影は恐怖で曖昧になるはず……!!』
葵は息を吐く。
「恐怖なんかじゃない……
“覚悟”だよ。」
黒翼の殺意が暴走する。
『葵ィィィィッ!!!!』
ドォォォォンッ!!
二人の衝突が影界に響いた。




