第10話:影界・恐怖の具現
──目を開けると、世界は“静寂”だった。
音がない。
風もない。
温度すら存在を主張しない。
ただ、濃い闇があるだけ。
葵は一歩踏み出そうとしたが、足音すら響かない。
(ここが……影界……)
弟影は葵の横にふわりと漂い、
小さな手で彼女の服を掴んだ。
『おねえちゃん……ここ、へんな感じ……』
「……うん。
でも大丈夫。行こう」
葵は歩き出した。
歩くたびに、周囲の闇が波紋のように揺れる。
その波紋は色を変えながら広がり──
やがて“形”を作り始めた。
弟影が小さく叫ぶ。
『……くる……!!』
次の瞬間、
闇の奥で何かがゆっくりと立ち上がった。
最初は小さかった。
しかし、立ち上がるほど、伸びるほど、歪むほどに、
その影は巨大化していく。
葵の心臓が“ドクン”と鳴る。
(これ……見覚えがある……?)
影の姿が完全に輪郭を結んだ。
──それは、葵自身だった。
ただし、
顔は黒く塗りつぶされ、
目は空洞のように深く暗い。
胸元には、
小さな少年の影が“穴”のような形で貼り付いている。
“失った弟の喪失そのもの”が、
肉体の一部となっていた。
弟影は震えた。
『おねえちゃん……これ……こわい……』
葵も足がすくむ。
(これ……私……?
私が……こんなものを抱えて……?
ずっと……?)
影の葵が、ぎこちない動きで首を傾ける。
そして口を開いた。
『どうして……ぼくを置いていったの?』
葵の胸が刺されたように痛む。
「やめて……それ以上言わないで……!」
『どうして……謝らないの?』
「私は……私は……!」
『ぼくはね、苦しかったよ。
なのに、おねえちゃんは──
ぼくの苦しみを知らないまま“守れる”なんて言うの?』
葵は崩れ落ちた。
(そんなこと……
言われなくても分かってる……!
分かってるよ……!!)
影の葵が足を踏み出すたびに、
床が波紋のように歪む。
『葵。
きみのいちばんの恐怖は……
“弟に憎まれること”。
“許されないこと”。
“愛したのに届いてなかったかもしれないこと”。
そうだろう?』
それは影の主の声ではない。
葵自身の内側から響く声。
弟影が慌てて葵の前に出る。
『ちがう!
おねえちゃんは……悪くない!!
ぼくを大切にしてくれた!!
ずっと……ずっと……!!』
だが影の葵は冷酷だった。
『嘘。
こうやって“ぼく”は穴のまま。
埋まってないまま。
だからおねえちゃんは、影になったぼくに頼って……
それで安心したふりしてるだけ』
葵は顔を上げられなかった。
図星だった。
弟の影を“救い”として依存していた自分。
本当は向き合うのが怖かった。
失った現実が、痛すぎて。
影の葵は、さらに近づく。
『こんな自分を……
受け入れられる……?
許せる……?
愛せる……?』
弟影が葵の前に立ちふさがる。
『おねえちゃんを……いじめないで!!
ぼくが守る!!』
その瞬間──
影の葵の腕が、異様に伸びて襲いかかってきた。
ズバァッ!!
弟影が弾き飛ばされ、
闇の床に叩きつけられる。
『っ……!』
「弟!!」
影の葵が冷たく言う。
『守られてばかりの存在じゃ……
おねえちゃんの恐怖は消えない』
弟影が震える声で叫んだ。
『……葵……
こわがって……いい……
むしろ、こわがってよ……
ぼく、ぜんぶ受け止めるから……!!』
葵は震える手で、弟影に触れた。
温かかった。
確かに“いる”と思えた。
葵はゆっくり起き上がる。
涙で視界が滲む。
でも、前は見える。
「……逃げるの、やめる」
影の葵がぴたりと動きを止める。
葵は、自分の恐怖を正面から見据えた。
「そうだよ。
私は……弟に謝れなかった。
守れなかった。
大切にしきれなかったかもしれない」
影の葵の胸の“穴”がわずかに揺れる。
葵は続けた。
「でも……
弟は、そんな私でも“お姉ちゃん”って呼んでくれた。
影になっても……ずっと」
『……おねえちゃん……』
弟影が涙をこぼしながら呼ぶ。
葵は影の葵に歩み寄る。
「憎まれてるかもしれない。
許されてないかもしれない。
でも……それでも私は……
弟を愛していた自分を否定したくない」
影の葵が揺れた。
葵はそっと影の胸の“穴”に手を伸ばした。
「だから……その穴ごと。
あなたごと。
恐怖ごと。
全部……“私”として受け入れる」
影の葵が震える。
世界が震える。
闇が波打つ。
弟影が祈るように呟く。
『……お願い……届いて……』
葵は言った。
「私は──私を許す」
その瞬間。
影の葵の胸の穴に、
葵の手がすっと吸い込まれた。
光が溢れた。
闇が破れ、
影界が一気に白く染まっていく。
影の葵は震える声で言った。
『……うら……やましかった……
弟ばかり……愛されて……
でも本当は……
私も……愛されたかった……』
葵は優しく抱きとめた。
「知ってたよ……
ごめんね……
ずっと気づけなくて……」
影の葵は、涙のように闇を零しながら消えていく。
『ありがとう……
これで……やっと……
君は……“完成”に近づける……』
葵の胸に、あたたかな黒い光が吸い込まれた。
弟影が駆け寄る。
『おねえちゃん……すごい……
こわかったのに……
ちゃんと向き合った……!!』
葵は弟影を抱きしめる。
「あなたがいてくれたから……
私はここまで来れたよ」
影界の白が強く光り、
景色が歪む。
弟影が言う。
『第一段階……成功だよ』
葵は微笑む。
「……次へ進もう」
光が弾け、
影界が第二段階への道を開いた。




