第7話:器、覚醒
影の主が一歩踏み出した瞬間、
部屋の温度が一気に数度下がった。
黒い霧が床を這い、
重力を拒むように宙へ浮き上がり、
すべてが“葵”へ収束しようとしている。
颯は本能的に叫んだ。
「こっち来るなぁぁッ!!」
身体が勝手に動いた。
葵の前へ、腕を広げるようにして飛び出す。
しかし──
ズッ……!
影の主が放つ“圧”だけで、
颯の膝が崩れた。
「ぐっ……!
な、なんだよ……これ……ッ!」
魂そのものを掴まれるような痛み。
肉体ではなく“存在”を圧し潰される感覚。
奏が悲鳴を上げる。
「颯くん触れないで!!
影の主に触れたら──」
言葉の続きは震えに飲まれた。
“即死”じゃない。
“即消滅”。
青年が強く叫ぶ。
「颯、離れろ!!
君じゃ耐えられない!!」
颯は歯を食いしばり、
その場に踏みとどまる。
「離れねぇよ……!
葵を一人にできるかよ!!」
青年が絶望したように吐き捨てた。
「君が死ぬ!!
葵を守るつもりが、逆に……!!」
すると──
葵が颯の腕をそっと掴んだ。
その手は震えているのに、
なぜか温かかった。
「颯くん……ありがとう。
でも……もう大丈夫。
“私、一人じゃないから”。」
葵の胸の奥で
かすかな声が響いた。
『おねえちゃん。
いっしょに行こ?』
弟の声。
影の主の黒が
一歩、また一歩と葵に近づいてくるたび、
弟の声は強くなる。
『まもるよ。
こんどは……ぼくが』
葵は小さく息を吸い込む。
恐怖はある。
それでも──逃げなかった。
「……そうだね。
今度は……二人で。」
青年が息を呑む。
(……始まる)
影の主が
“声にならない声”で響いた。
『……けがれた器。
かえせ。
本来の姿を。
きずなも、
あいも、
にんげんも……いらぬ。』
葵は首を振った。
睫毛が震え、
けれど瞳は真っ直ぐだった。
「いらないのは……あなたのほう。」
『……ナラバ。
ムリヤリ……トリモドス。』
影の主が手を伸ばした──
その瞬間、
ドクン。
空気が震えた。
葵の胸から、
深い蒼黒の光が立ち昇った。
ドクン。
足元に黒い紋様が広がる。
まるで地面そのものが
“心音に反応している”ように。
ドクン──!
影が葵の周囲を渦のように巻き、
その中心に葵がただ一人立っている。
青年が青ざめた顔で呟く。
「これは……
完全な《器の覚醒》……?
いや……違う……
もっと深い……」
叔父の声が震える。
「こんなの……人間じゃ……」
奏が涙を目の端にためて呟いた。
「……でも葵ちゃんだよ……
葵ちゃんの匂いがする……
優しくて……泣き虫で……
弟想いの……葵ちゃんだよ……」
颯は拳を握る。
「そうだ……
これが葵だ……
怪物じゃない……
誰よりも優しい、
俺が……大好きな葵だ……!」
黒い影が強く脈打つ。
葵の髪がわずかに宙に揺れ、
その瞳は完全な蒼黒──
しかし涙が一粒だけ頬を伝った。
「私は……器でも怪異でもない。」
影の主が静止する。
『──?』
葵は胸に手を当てた。
「私は、
弟を守りたくて……
家族を守りたくて……
みんなと、生きたくて……
それでも……影を呼んじゃう“器”だった。」
影の主の影が揺れる。
葵は続けた。
「でもね……
本当はもっと前から知ってた。
私の影の中心には……
弟がずっといてくれた。」
胸の奥で影が光る。
『……うん』
「私は弟の“器”になりたかった。
怪物の器じゃない。
弟が生きられる場所になりたかった。」
影の主が低くうねるように響いた。
『……ユガンダ器……
アイトキズナデ……
本能ヲ……ネジ曲ゲタ……
許サレザル……存在……』
葵は一歩前へ。
「許されなくていい。」
『……?』
葵は微笑んだ。
泣きそうなのに、誰よりも強い笑みで。
「だって──
“弟を守りたい”って気持ちは、
誰にも止められないから。」
影の主が手を振り上げた。
部屋が悲鳴を上げるように軋む。
青年が叫ぶ。
「来るぞ!!
影の主の本撃だ!!」
颯が葵に向かって叫ぶ。
「葵ぇぇぇぇッ!!」
奏が祈るように叫ぶ。
「葵ちゃん──!!」
叔父が目を閉じる。
「どうか……生きてくれ……!」
影の主の黒が跳ね上がる。
渦が、
爪が、
闇が、
丸ごと葵を呑み込もうとした瞬間──
葵の影が動いた。
黒が反転し、
蒼黒の光が爆ぜる。
“何か”が葵の後ろに立つ。
背丈は幼く、
影のように揺れる。
小さな少年の輪郭。
弟──。
『──おねえちゃん。
ぼく、まもる。』
影の主と、器の影が激突した。




