第12話:選ばれなかった声
葵がその“名前”を口にした瞬間──
家の空気が、爆ぜた。
影は鋭い悲鳴を上げ、
全身を引きちぎられるように揺らしながら
床に崩れ落ちる。
『やめテ……ッ……!!
いやダ……ッ!!
よバなイで……!!
きえ、ちゃ……ッ……!!』
黒い滴が床に広がり、
影の手足がバラバラに震えながら
葵の方へ必死に伸びてくる。
対して、
外の少年は──
静かに微笑んだ。
痛みをこらえるように、
けれど優しく。
「……そっか。
その名前を呼んだんだね。
……うん。
やっぱり、おねえちゃんは……
“覚えてる”んだ」
葵の胸が痛んだ。
(違う……
覚えてるわけじゃない……
ただ……
あなたの顔を見て……
どうしても……呼べなかった……
影の名前を……
“間違えたくなかった”だけ……)
だが影は、
葵の言葉を待つ余裕すらなかった。
『おねぇちゃ……
おれ……
おれ……は……
いっしょ……いた……ッ……!!』
黒い指先が葵の足に触れようとした瞬間──
叔父の張った結界が光り、
影の手を弾き飛ばした。
バチィッ!!
『いだッ……!!
いや……だ……
ひどイ……
なんで……ッ……
なんでだよォ……』
影は床に倒れ、
苦しそうに身体を丸める。
奏が震えながら泣いた。
「やだ……こんなの……
こんなの……葵が悪いんじゃない……
影も……弟くんも……
どっちも……つらい……よ……」
颯は拳を握りしめた。
「……クソッ……
どうして……
葵の周りにいる奴らは……
こんな……歪んだ形にしか……
愛せねぇんだよ……」
青年は影を見つめながら呟く。
「これは……
“執着”が限界まで肥大した形だ。
影は、本来ならここまで“痛がらない”。
本物の感情は──影を壊す」
叔父も重い声で続ける。
「影は、捨てられることに耐えられない。
葵は“影の持ち主”だ。
呼ばれなかった瞬間、影は……
自分が“不要”と判断され、
魂ごと崩れ始めた」
葵は叫びそうになった。
(違う……!
そんなつもり……
ない……!!)
外の少年は、
静かに膝をついて影を見下ろす。
涙を流しながら、
それでも言葉に優しさがあった。
「ごめんね。
ぼくのせい、だよね。
ぼくが来たから……
君は、苦しいんだよね……」
影は少年を睨んだ。
苦痛の中で顔を歪めながら。
『おまエ……ッ……
おれノ……
ばけ……モ、ノ……
おまエ……シ……ッ……』
だが少年は微笑んだ。
その笑顔は、
影の憎しみや呪いをまっすぐ受け止めるように
あまりに純粋で、強く、切なかった。
「ぼくはね……
本当は、君のこと……
嫌いじゃないんだよ」
影が震えた。
『……は……?』
少年は続けた。
「だって──
君は“葵を守ろうとした”んだろ?
ぼくがいなくなっても、
葵が一人で泣かないように……
君が代わりになってくれたんでしょ?」
影の叫びが止まった。
葵も息を呑んだ。
(……守ろうとした……?
影が……私を……?)
影の全身が震え、
黒い雫を落とす。
『ちが……ッ……
おれは……おれは……
ただ……
おねぇ……ちゃを……
ひとりに……したくなくて……』
少年は優しく頷く。
「そうだよ。
ぼくも……おねえちゃんを
一人にしたくなかった」
影の震えが強くなる。
『……っ……
おまエ……
おれヲ……
また……けしに……くるの……?』
少年は、静かに首を横に振った。
「違うよ。
葵を守ってくれて……
本当にありがとう」
影の目から、
黒い涙がぼたぼたと落ちた。
『おれハ……
おねぇちゃンの……
かわり……
だったのか……?』
少年はゆっくりと微笑んだ。
「ううん。
“代わりじゃない”。
君は君で……
ちゃんと、葵に必要だったんだよ」
──その瞬間。
影は、
声を失った。
泣き声も、叫びも、消えた。
ただ震え、
まるで“生まれて初めて愛された子のように”
息を飲んで泣いていた。
葵の胸に、
熱い何かが流れた。
(影……
私……
あなたのこと……
ずっと怖いと思ってた……
だけど……
本当は……
私を守ろうとしてたんだね……?)
影がぼそりと呟く。
『おれ……
どうすれば……
よかった?』
葵は一歩踏み出した。
涙を流しながら、
震える声で。
「影……
あなたは──
“私を一人にしなかった”」
影の身体が震えた。
しかし次の瞬間──
外の少年の身体が、
限界まできしむ音を立て始めた。
ギリ……ギリ……ギリッ……
奏が悲鳴を上げる。
「やだ!!
痛がってる!!
この家の空気に、耐えられない……!!」
叔父が叫んだ。
「本物だ!!
外の少年が──“本物の魂”だ!!
この家に長くいられない!!」
影が叫んだ。
『いやだ!!
くるナ!!
かえれ!!
おれノ……おねぇちゃン……
とらナイで……!!』
少年の身体が崩れ始める。
黒ではなく、光の粒となって。
葵は叫んだ。
「だめ!!
行かないで!!
お願い……!!
まだ……
まだ言えてないことが──!!」
少年は涙を浮かべて微笑んだ。
「大丈夫。
ぼくは……
“まだ消えない”。
だって──」
その先を言う前に、
影が少年に飛びかかった。
『おまえ……!!
おねぇちゃんヲ……
うばウナァァァァ!!!』
空気が裂ける。
葵が叫ぶ。
颯が走る。
奏が泣き叫ぶ。
少年が手を広げる。
影が叫ぶ。
──そして、
二つの存在が激突した瞬間。
葵の“封じられた第三の記憶”が、
強制的に開かれた。
視界が真白に染まり──
葵は意識を失った。




