第11話:差し伸べられた手は本物か
葵は、震える指先を見つめていた。
一歩前に出たその足は、
まるで見えない何かに引き寄せられるように
勝手に動いたものだった。
目の前には、
涙を浮かべながら微笑む“弟”。
小さな手が、
「おいで」と言わんばかりに差し出されている。
しかし──
影の絶叫が、家中を割った。
『触れるナァ!!
触れたラァ!!
おまえは……!!
おまえはもうッ……戻れナイ!!』
影は黒い煙のように崩れ、
床を爪で削りながら這い寄ってくる。
奏が葵の腕をつかんだ。
「葵!!
だめ!! まだ……!!
本物かどうか、わかんない!!」
青年は影と少年を交互に見つめ、
ありえないものを見るような目で言った。
「……これは……
理論上、起こるはずのない現象だ……
“影”と“本物”が同時に現れるなんて……」
叔父はさらに重い声で続ける。
「いや──
もっと最悪の可能性がある」
葵の背筋を冷たいものが走る。
叔父が言った。
「“影が本物を連れてくる”ことはない。
だが……“本物の弟が影を連れてくる”ことは──
あり得る」
全員の呼吸が止まった。
颯が蒼白になり、震えながら呟く。
「そんな……
そんなこと……
ありえるのかよ……」
叔父は頷く。
「葵の弟が……
『葵に会いたい』という強すぎる未練を抱えていたなら、
普通の生き物が辿れない道さえ越えて、
この家に来ることは……理屈の上では可能だ」
葵の心臓が跳ねる。
(本物……
本当に……?
弟が……?)
だが青年は、冷徹な目で葵を見た。
「だとしても──
“今ここにいる少年”が本物だとは限らない」
影は涙のような黒い雫をこぼしながら悲鳴を上げ続ける。
『ちがウ……
ちがウんだ……
ぼクだ……
おねぇちゃ……
ぼクが……!!』
その“声の震え”が、
葵の胸に痛いほど刺さった。
(影……
この子も……
私を呼んでる……
苦しんでる……?)
だが外に立つ少年は、
静かに一歩近づいてきた。
葵の足元まで来る距離。
その目に宿る涙は、
あまりに澄んでいて──
影のような濁りはどこにもなかった。
少年は葵の顔を見上げ、
そっと言う。
「おねえちゃん。
思い出して。
ぼくはね──
“ずっと、ここに来たかった”んだよ」
その言葉に、
葵の胸に温かい何かが流れ込んだ。
(この言い方……
この“息のくせ”……
覚えてる……
覚えてる気がする……)
葵は無意識に手を伸ばしていた。
その手は、
確かに“本物”を求めて震えていた。
しかし──
叔父の低い声が鋭く飛んだ。
「葵。
“本物の弟”なら、
お前の手が触れられる前に──
必ず“ある反応”を見せる」
葵は振り返る。
「……反応……?」
叔父は続ける。
「本物なら……
“この家の空気に耐えられない”。
影の巣に長くいると、魂が痛むんだ」
青年も頷く。
「影の領域に生身の魂が立てば、
必ず“身体がきしむ音”がする。
影はその反応を再現できない」
葵は少年を見た。
「じゃあ……
今この子が“平気”で立ってるのは……?」
颯が声を震わせる。
「……影……
なのか……?」
奏は涙を流しながら首を振る。
「ちがう……
この子……
“痛そう”……
してる……
笑ってるけど……
苦しそう……」
葵は少年の表情をじっと見つめた。
確かに、小さく震えている。
笑顔の奥に、うっすらと苦痛の色がある。
(痛いのを……
隠してる……?
弟は……
昔から……こうだった……)
叔父が言う。
「確かめる方法が一つだけある」
葵は息を呑む。
叔父は静かに続けた。
「“影の名”を呼べ。
それで決まる」
葵の顔色が変わる。
「名……
名前……?
弟の……?」
青年が補足する。
「違う。
“影につけた仮名”だ。
お前がこの影を呼んだ名前を
外の少年が聞いた瞬間──
どちらが本物か、明確に分かれる」
叔父が言う。
「影は、自分の名前を呼ばれると反応する。
だが“弟”なら──
反応しない。
影の名前なんて知らないからな」
しかし奏が怯えた声で言った。
「でも……
もし外の子が“影がつけた偽名”にも反応したら……?」
青年は表情を固くして言う。
「その場合──
“外の少年は影”だ」
葵の喉が鳴る。
(両方を壊すかもしれない……
どちらかを……
本物でない方を……
私が、見切ることになる……)
弟だと思った存在に。
影として寄り添ってきた存在に。
葵は、
どちらか一方を“否定”しなければならない。
その事実が胸を締めつけた。
外の少年は、
涙の跡を光らせ、
優しく言った。
「ねぇ、おねえちゃん。
ぼくはどっちでもいいよ。
“影でもいい”。
“本物でもいい”。
おねえちゃんが……
ぼくを見てくれるなら……
それだけでいい」
影は絶叫しながら崩れ落ちる。
『いわナイデ……
なまえ……
いわないで……
きえたく……ない……』
葵の胸が締めつけられた。
(この声……
どちらも……
苦しんでる……
どちらも……
私を呼んでる……)
叔父が静かに言った。
「葵。
もう“時間切れ”だ。
言え。
影の名前を──
呼べ。」
葵は震える唇で、
名を紡ごうとした。
(この名前を呼べば……
どちらかが……
消える……)
家全体が揺れ、
影が悲鳴を上げ、
外の少年が涙の中で微笑む。
颯が叫ぶ。
「葵ッ!!
言うなら──
“覚悟して言え!!”」
奏が泣きながら抱きしめる。
「葵……
どっちも……
葵のこと……
好きだよ……」
葵は──
影の名を呼んだ。
その瞬間──
空気が裂けた。




