第10話:二つの声、どちらが本物か
玄関越しに響いた「ノック」は、
影とはまったく違うリズムだった。
静かで、控えめで、どこか優しい。
そして──
その後に続いた声は、
葵の心の奥を直接揺らした。
「……葵おねえちゃん。
開けて……?」
葵の胸が大きく跳ねる。
(この声……
懐かしい……
あの子の声に……似てる……
でも……)
影は壁に張りついたまま、
怯えたように震えていた。
『……に、ニセモノ……
にせモノ……ッ……』
叔父が影へ言う。
「“本物”の足音に怯えるのは、
記憶から生まれた影の特徴だ」
青年が葵の肩に手を置く。
「落ち着け、葵。
今、軽率に動けば危険だ」
葵は震えながらも視線を玄関へ向ける。
外の声は、再び呼んだ。
「……おねえちゃん。
こわくないよ……
ぼくだよ……」
その声が胸を掴む。
痛いほど懐かしくて、
同時に理解できないほど遠い。
颯が狼狽したように、
葵の手首を掴んだ。
「葵!! だめだ、開けるな!!
いま開けたら……取り返しがつかない!!」
葵は颯を見る。
「颯……どうして……そんなに……?」
颯は言葉に詰まった。
胸の奥に、何かを隠している目だった。
奏は泣きながら首を振る。
「葵……わからない……
あの声が……“本物”かどうか……
怖いよ……」
叔父は静かに分析するように言った。
「影は“弟の記憶を模倣する”。
しかし、声や足音を
ここまで正確に再現するのは……難しいはずだ」
青年が続ける。
「つまり“可能性は二つ”」
一同に緊張が走る。
青年の声が低く響いた。
「①本物の弟が外にいる
②別の影が“本物級”に擬態している」
叔父が言い直す。
「そして……
どちらも容易に見分けられない」
葵の喉が鳴る。
(弟……?
本物……?
それとも……危険な影……?)
──そのとき。
玄関の外の声が、
少しだけ震えた。
「……おねえちゃん……
さむいよ……
ひとり……こわいよ……」
葵の胸が、
張り裂けそうになった。
(この言い方……
小さい頃と同じ……
これは……)
だが叔父が鋭く遮る。
「葵、惑わされるな。
“影は何万通りもの声を作れる”」
青年も冷静に言う。
「声の温度で判断するのは危険だ」
しかし──
颯だけが、
外の声を聞いた瞬間、
血の気が抜けるほど青ざめていた。
彼の唇が震える。
「……うそだろ……
なんで……今……
どうして……」
葵はその反応を見逃さなかった。
(颯……
あなた……
“この声の主”を知ってる……?)
颯は震える拳を握り、
外を見ようと一歩踏み出しかけ──
青年に肩を掴まれた。
「颯、行くな!
お前が動揺すると、
葵が判断を誤る」
颯は悔しそうに歯を食いしばる。
「……だって……
この声……
“あの日”の……!!」
叔父が表情を変えた。
「颯……お前、
“あの日の記憶”があるのか?」
颯は言葉を失った。
その様子に葵は目を見開く。
(颯……
何を知ってるの……?
ずっと……私に言えなかった……?)
玄関の外の声が、
震えた声で再び呼ぶ。
「おねえちゃん……
ぼくね……
ずっと言いたかったことが……あるんだ……」
葵の呼吸が止まる。
(それ……
私が思い出しかけている“弟の最後の言葉”……?)
叔父が緊張で声を潜める。
「まずい……
このままだと“影の側”も
言おうとしてくるぞ……!!」
確かに影も叫んだ。
『やめロォォ!!
おれガ……!!
おれが“ホンモノ”ダァァァ!!』
玄関前で、
“二つの声”が重なり始めた。
外の声。
影の声。
どちらも葵を呼ぶ。
青年が叫ぶ。
「葵!!
どちらかが“嘘”だ!
だがどちらかは……
お前の弟の“鍵”を握る本物だ!!」
奏が耳を塞ぐ。
「どっちも……そっくり……
わかんないよ……!!
こんなの……!」
葵は震える声で呟く。
「どうすれば……
本物がわかるの……?」
叔父は唇を噛みしめる。
そして──
極めて深刻な顔で言った。
「葵。
“影”は……
“本物の足音”だけは絶対に真似できない」
葵は息を呑む。
叔父が言葉を続けようとした瞬間──
外の声が、
ぽつりと呟いた。
「ねぇ、おねえちゃん。
ぼくの“名前”……
おぼえてる……?」
葵の背筋が凍る。
(名前……
名前……
弟の……名前……)
しかし葵は……
記憶が白く歪んでいて思い出せない。
青年も慌てる。
「まずい……!!
“名前”を言わせようとしている!!!
名前を言ったら、影が……!!」
叔父が叫ぶ。
「葵!!“絶対に名前を言うな!!”
言った瞬間、影が優位に立つ!!」
だが外の声は、
玄関越しに優しく問いかける。
「おねえちゃん。
ぼくの……なまえ……」
影も叫ぶ。
『いエよォォ!!
おれノ……ナマエ……!!』
二つの声が重なり、
家中が揺れる。
葵は涙をこぼしながら叫ぶ。
「どっちが……
弟なの……!?
私……どうすればいいの……!!?」
叔父は苦悩の中で言う。
「……葵。
選ぶしかない。
どちらが“本物”か」
青年も叫ぶ。
「だが“勘”では危険だ!!
必ず“根拠”で選べ!!」
颯が震えながらも葵の肩を掴む。
「葵……
俺は……
ひとつだけ、言えることがある……」
葵は縋るように颯を見る。
颯は涙をこぼしながら言った。
「“あの日、最後に弟が言った言葉”。
葵……
お前はそれを聞いて──
“笑った”んだよ」
葵の心臓が止まった。
(私……笑った……?
最後に……弟に向かって……?)
颯は震える声で続ける。
「弟の最後の言葉は……
お前を悲しませるような言葉じゃない。
“笑わせるための言葉”だったんだよ」
その瞬間──
葵の胸が熱く震えた。
(そうだ……
私……
笑った……?
最後の言葉で……?)
叔父も頷く。
「そうだ、葵。
“弟の最後の言葉”は……
“優しい言葉”だったんだ」
影は咆哮する。
『ウソダァァァ!!
そんなわけナイ!!
おれは……ッ!!』
外の声は、
静かに言った。
「……おねえちゃん。
ぼくね……」
葵の記憶の奥が光り出す。
白い世界。
泣きじゃくる自分。
その手を握る、小さな手。
──おねえちゃん、
なかないで。
ぼく、ね……
影が絶叫する。
『やめロォォォォ!!!
思い出すなァァァァ!!!』
叔父が吠える。
「葵!!
そのまま行け!!
本物を思い出せ!!」
青年が叫ぶ。
「影が崩れる!!
今がチャンスだ!!」
玄関の外の声が
優しく続ける。
「──“ぼくは、ずっと”──」
葵の瞳が開く。
その瞬間、
葵の記憶が鮮明に灯り出す。
弟の最後の言葉が
とうとう……形になり始めた。
(そう……だ……
弟は……
最後に……)
葵は震える声で、
その続きを──
言おうとした。
だがその瞬間──
玄関の鍵が外から勝手に回った。
ガチャリ。
影が悲鳴を上げる。
『やめロッ!!
そいつを入れるなアァァァ!!』
叔父が叫ぶ。
「葵!! 後ろへ!!」
青年が武器を構える。
奏が葵を抱きしめる。
颯の顔は絶望で青ざめている。
そして──
ドアが、開いた。
冷たい外気が流れ込む。
そこに立っていた人物を見て、
全員の呼吸が止まった。
葵の喉から、
小さな声が漏れた。
「……え……?」
そこにいたのは──
涙を流しながら微笑む、
幼い少年。
影ではない。
ゆらぎもない。
確かな存在感。
その少年は、
まっすぐに葵を見て言った。
「──こんにちは。
おねえちゃん。」
葵の世界が揺れた。
(これ……
本当に……
弟……?)
少年は続ける。
「ぼくのこと……
やっと、思い出してくれた?」
その瞬間──
影が発狂した。
『やめろォォォォ!!!!!』
影の叫びとともに
家が大きく揺れた。
しかし少年は
笑顔のまま、涙を拭い──
そっと手を伸ばした。
「おねえちゃん。
迎えに来たよ」
葵の胸が、
破裂しそうになった。
(この子が……
本物……?
それとも……)
影が崩れ始める。
叔父が絶叫する。
「葵!!
“触れるな!!”
それが本物かどうかは、まだ──!!」
葵の手は震えていた。
外から来た少年。
扉の奥で崩れゆく影。
叔父の警告。
颯の涙。
奏の震え。
青年の叫び。
そして──
弟の笑顔。
葵は息を吸い込み、
一歩、前に進んだ。




