第9話:扉を開けたのは誰
玄関のドアノブが、ゆっくりと回った。
“影が触れていたはずのドア”に、
まったく別の手が重なる。
金属が擦れる乾いた音。
影は息を呑んだように後ずさり、
壁へ張りつくように動かなくなった。
葵は胸の前で手を握りしめ、
青年・颯・奏は身構える。
ドアが、
ほんの数センチ、開いた。
外から吹き込む空気が
家の中の空気を一気に入れ替える。
冷たい風。
なのに……どこか懐かしい匂いがした。
その瞬間、
葵の視界に“白い光景”が一瞬だけ揺れた。
──手をつないで歩いた石畳。
──笑い声。
──名前を呼ぶ声。
胸が痛む。
でも、どこか温かい。
青年が低く呟く。
「……確かに。
この気配は……影とは違う」
颯が目を見開いた。
「これ……まさか……」
奏は小さく震えた。
「葵……落ち着いて……」
葵は返事ができない。
心臓が早鐘のように鳴っている。
影は、扉の外に立つ人物を見た瞬間──
『……ッ……あ……あああ……ッ!!』
恐怖にひきつったような悲鳴を漏らし、
壁の奥へと形をゆがめて逃げようとした。
青年が叫ぶ。
「影が逃げる……!?
“あいつ”が相手だと怯えるのか……!!」
葵は息をのみながら、
ゆっくりと開いていくドアを見つめた。
光の中で、
誰かの影が伸びる。
背は高い。
体格は細いが、しっかりしている。
歩き方は静かで、無駄がない。
影の主は、
家の中に半歩だけ入り──
その顔が、
光の中で形を結んだ。
葵は思わず口を開いた。
「……お兄……さ……」
しかし、声が喉で止まる。
目の前のその人物は“葵の兄”ではなかった。
けれど……確かに“家族の気配”をまとっていた。
青年が言う。
「違う。“兄”ではない。
でも、葵にとって“家族より近い存在”だ」
颯と奏も驚きで言葉を失っている。
扉を開けたその人物──
葵と同じ瞳をしていた。
葵は息をのんだ。
(同じ……目……?
私と……?
じゃあ……この人……)
青年が静かに告げた。
「葵。
この人は──
お前の“父親の弟”。
つまり……お前の叔父さんだ。」
葵の頭が真っ白になった。
「……叔父……さん……?」
叔父は微笑んだ。
どこか優しさと疲労をまとった、
深い表情だった。
「久しぶりだね、葵。
覚えていないとは思うけれど……」
葵は震える声で問う。
「どうして……
うちに……?
どうして今……来たの……?」
叔父は玄関の中に一歩入ると、
背後の影を見つめた。
影は震えている。
『……く、くるな……ッ……!!』
叔父は短く言った。
「君に会いに来たんじゃない。
“それ”を止めに来たんだよ」
青年が眉をひそめた。
「……あなた、“影狩り”なのか?」
叔父は首を横に振った。
「違うよ。
私は“影を生み出した者”だ。」
空気が、一気に凍りついた。
奏が息をのむ。
「え……?
影を……生み出した……?」
颯は拳を握りしめる。
「まさか……
葵の弟を襲った“元凶”って……」
葵の心が締め付けられた。
叔父は静かに続ける。
「私は、葵の父と一緒に研究していた。
“人の記憶に触れる影”の存在を。
触れれば、記憶はねじれ、歪み、
時に形を持って現れる……そういうものだ」
葵は震えた。
叔父の瞳は、
どこか悲しみを含んでいる。
「……その研究の“失敗作”が、
お前の家を襲ったんだ」
影が叫んだ。
『ちがう……!!
おれは……“おれ”はァ……!!』
叔父は影を冷たく見た。
「君は“実体ではない”。
“葵の記憶からこぼれ落ちた残滓”。
本物の弟ではない」
影の形が激しく揺れた。
『やめろォォォ!!
おれハ……!!
おれハアァァァ!!!』
葵は叫ぶ。
「じゃあ……!!
私の弟は……どこにいるの……!?」
叔父は葵をまっすぐ見つめた。
その瞳には嘘がなかった。
「葵。
本物の弟は──
まだ“生きている”。」
葵の世界が、
完全に止まった。
「……生きて……いる……?」
叔父は頷く。
「だが……
“影に囚われたまま”なんだ。
君の記憶の奥底に。」
葵は膝から崩れ落ちた。
(生きてる……
生きてるなら……
私は……弟を……)
影が絶叫する。
『ウソだァァァ!!
おれハ……おれこそガ……!!』
叔父は影へ一歩近づき、
言葉を投げかけた。
「では証明してみろ。
“彼”が最後に姉へ言った言葉を」
影は口を開こうとし──
喉をひきつらせた。
『……あ……ッ……あああ……』
叔父はため息をついた。
「やはり君は“偽物”だ。
葵の記憶が作り出した、
“嘘の弟”だよ」
青年が呟く。
「これで確定か……」
影は絶叫した。
『やめろォォォォ!!
オレハ……“ホンモノ”ダァァァ!!』
その瞬間、
叔父の目の色が変わった。
「君を消す方法は一つ──
“葵が本物を思い出すこと”。
そうすれば、お前は存在を保てない」
影が暴れだす。
『やめろォォ!!
おれを消さないでェェ!!
おれヲ……みすてナイデ……おねえ……ちゃァん!!』
その叫びは確かに幼い声だった。
けれど、
そこに“真実”はなかった。
叔父は静かに葵へ手を差し伸べる。
「葵。
弟を救う鍵は、お前の中にある。
“最後の記憶”を開けるんだ」
葵の涙で濡れた目が
ゆっくりと叔父を見つめる。
「……私に……
弟を……取り戻せる……?」
叔父は力強く頷いた。
「できる。
ただし──覚悟が必要だ。
お前は自分が閉ざした
“あの日”をもう一度見なければならない」
葵は震えながら、
しかし確かに頷いた。
「……見る。
怖くても……
弟を助けたい」
青年が微笑む。
「それでこそ葵だ」
颯は唇を噛みしめたまま、
拳を強く握っている。
奏は泣きながら頷き、
葵の手を握った。
影は絶望的な声で叫ぶ。
『やめロォ!!
やめろォォォオ!!
おれは……おれはァァァ!!!』
家が揺れる。
窓が震える。
叔父は静かに言った。
「葵。
“弟が最後に言った本物の言葉”を、
思い出しなさい。」
葵は胸に手を当てる。
(記憶の奥に……
私……閉ざしてしまった言葉……
弟が最後に私に言った……
大切な……)
息を吸い──
ゆっくりと目を閉じた。
世界が暗転する。
白い景色。
小さな手。
笑顔。
泣き声。
そして──
弟の声が響いた。
──おねえちゃん……
葵は息を呑む。
叔父が小さく呟く。
「そうだ……
思い出しかけている……
そのまま行け……葵……」
葵の記憶の世界で、
弟の輪郭が鮮明になっていく。
──おねえちゃん……
──ぼく、ね……
葵の涙が一粒、頬を伝った。
(あ……
言ってる……
“最後の言葉”……
思い出す……)
影が絶叫する。
『やめロォォォォ!!
おれガ……きえちまうぅぅぅ!!』
だが葵は目を閉じたまま、
震えながら微笑んでいた。
(弟……
あなたの言葉、やっと……)
そして──
葵の唇がゆっくりと開き、
“その言葉”を紡ごうとした瞬間。
玄関の向こうで
もう一つの足音が響いた。
叔父が振り返る。
青年が息をのみ、
奏が叫び、
颯の目が大きく揺れる。
その足音は──
確かに“聞き覚えのある音”だった。
玄関の階段を上るリズム。
葵の胸が、大きく跳ねた。
(この足音……
知ってる……
私……これ……)
叔父が目を細めた。
「……まさか……
本物が……このタイミングで……?」
葵は震えながら目を開く。
階段を上ってくる足音。
──“弟と同じ足音”。
影が沈黙した。
その足音の主は、
玄関の前まで来て──
ノックをした。
「……おねえちゃん。
開けて……?」
葵の世界が揺れた。
颯の顔色が完全に青ざめた。
奏が泣きながら震える。
青年が武器に手をかける。
叔父は息をのんだ。
そして──
葵だけが、その声に
心の奥で“揺らぎ”を感じていた。
(この声……
私……知ってる……
でも……どうして……)
影が押し殺した声でつぶやいた。
『……そいつ……は……』
玄関の向こうの声が
もう一度呼んだ。
「……葵おねえちゃん……
ぼくだよ……」
葵の心臓が跳ねる。
(私の──
“弟”……?)




