第8話:封じられた家族の記憶
風が一度、家の外をかすめた。
その瞬間だけ、影の叩く音が止む。
葵の家の中に、
張りつめた沈黙が広がった。
青年は深く息を吸い、
ゆっくりと葵の方へ向き直った。
「葵。
これから話すことは、
お前の世界を変えるかもしれない。
だが必要なことだ」
葵は喉を鳴らしながらうなずいた。
膝の上に置いた手が震えている。
颯と奏は葵の両側で座り、
不安を隠しきれない表情を浮かべていた。
──青年は、言った。
「お前には、
“二歳年下の弟”がいた。」
葵の心臓が大きく跳ねた。
息ができなくなる。
胸が急に圧迫されるように苦しくなる。
(弟……
私に……弟……?
そんなの……私……)
言葉がうまく浮かばない。
奏が葵の背中をさすりながら、
震える声で言う。
「葵……ごめん……
私たち……葵に言っちゃいけないって
ずっと止められてたの……」
葵の目が揺れた。
「止められてた……?
誰に……?」
颯が、悲しそうに目をそらした。
「……葵のお母さんだ」
空気が凍る。
あまりにも重すぎる沈黙。
青年が続ける。
「葵が“弟のことを忘れた”のは、
自然にではない。
“母親が葵から記憶を切り取った”んだ。」
葵は息を飲んだ。
「……お母さんが……?」
声が震えた。
信じたくない、けれど胸の奥で何かが反応する。
青年は淡々と告げる。
「お前が幼い頃──
家で起きた“ある出来事”のあと、
葵はその子の名前を呼ぶだけで
激しく取り乱すようになった」
葵の心がひりついた。
(取り乱した……?
私が……?
弟の名前で……?)
奏が涙をにじませながら言う。
「葵ね……
その時ほんとに苦しそうで……
毎晩泣き叫んで……
学校来ても震えてて……
名前聞くだけで倒れそうになって……」
颯も顔をゆがめた。
「……見てられなかったよ。
葵の母さんが“治療だ”って
記憶を封じたんだ」
葵は唇を噛んだ。
(私……そんなに……?
なんで……?
弟に……何が……)
胸の奥に、
白い光景が一瞬だけ浮かんだ。
──誰かの手を握っている。
──小さな、柔らかい手。
──笑っている。
──名前を呼んだ。
──呼び返された。
一瞬の記憶が、
あまりに優しくて、
あまりに痛かった。
額に汗がにじむ。
青年が静かに言った。
「葵。
“その名前”を思い出さないように、
お前は自分で記憶にフタをしたんだよ」
葵は頭を抱えた。
「でも……
どうして……
忘れたはずの声が……
こんなに私の心に……触ってくるの……?」
青年の表情が少しだけ影を落とす。
「それは──
“影の正体”が、
お前の“弟の声”だからだ。」
葵は息をのんだ。
(弟……?
影が……?
じゃあ扉の向こうで呼んでるのは……
本当に……?)
影が、
再び扉を強く叩いた。
ドンッ!!
『……かえせ……
おれの……なま……えェ……!!』
今は幼い少年の声。
怒りと悲しみが混ざって歪んでいる。
葵の胸が、
裂けるほど痛んだ。
「……私の……せい……なの……?」
目が揺れる。
涙がこぼれる。
颯がすぐに否定した。
「違う!!
葵のせいじゃない!!
“何があったのか”葵は知らないままなんだ!!
責めるな、自分を!!」
奏も葵の手を握った。
「葵……
弟くんは……
本当は優しい子だったよ……
ほんとは……
葵のこと大好きだったよ……」
青年だけが黙って扉を見据えている。
影の声が震えている。
『……おねえ……
どうして……
ぼくを……わすれたの……?』
葵は両手で顔を覆った。
(忘れたくなんて、なかった……
忘れたくなかった……
どうして私は……
あの子を……)
青年が静かに近づき、
葵の肩に手を置いた。
「葵。
まだある。
お前が思い出さなければならないことが。」
葵は涙で赤くなった目を上げる。
青年は告げた。
「弟が消えた“あの日”──
誰よりも葵のそばにいたのは、
颯だ。」
颯の肩が震えた。
葵はゆっくりと
颯へ目を向けた。
颯は……目をそらした。
その沈黙が何よりも雄弁だった。
影が再び叫ぶ。
『かえせぇぇ!!
おれを……
おれの“なまえ”を……!!』
扉が大きく凹む。
葵は息を呑む。
(颯は……
“あの日”を知ってる……?
私が忘れた、あの子の……
最後を……?)
青年は最後に言った。
「――葵。
扉の向こうにいる影は、
本当に“弟”かどうかは、
まだ分からない。」
葵の心臓が止まりそうになった。
(……え……?)
奏が震えた声を上げる。
「ちょっと待って……
本物じゃない可能性……あるの……?」
青年は静かに頷く。
「影は“本物の記憶”にも寄り添うが、
嘘も混ぜる。
本物と嘘を混ぜ、葵を揺さぶり、
名前を言わせようとしている。」
葵の胸の奥に
冷たい恐怖が流れ込んだ。
(私が思い出そうとしている名前……
それが……本当に“弟の名”なのか……?
影が作った偽りなのか……?
分からない……)
青年の声が低く沈む。
「葵。
本物を見極める方法は
たった一つだけ」
葵は息を詰めた。
「……一つ……?」
青年は玄関の方を指す。
「“影が決して言えない言葉”を
投げかけることだ。」
颯と奏が息をのむ。
葵は青ざめた。
青年は言った。
「影は“嘘の名前”は言えるが、
本物の弟の“最後の言葉”は言えない。」
家中の空気が
底冷えするように冷たくなった。
(弟の……
最後の言葉……?
私……聞いてるの……?
その記憶……どこに……)
扉の向こうの影が
急に静かになった。
葵の呼吸が浅くなる。
青年は告げた。
「葵。
思い出す覚悟はあるか?」
葵は手を握りしめ──
震える声で言った。
「……ある。
私……
嘘の声に……騙されない……
“本物”を……取り戻す」
影が再び動き出す。
『……あけて……
あおい……』
葵は涙を拭い、
ゆっくりと立ち上がった。
「私が……
私の記憶を取り戻す……」
そして玄関の前に立つ。
一歩。
一歩。
影の声が、低く震えた。
『……おねえ……ちゃん……』
葵は扉に触れず、
静かに目を閉じた。
「──“あの日”のあなたが
最後に言った言葉を教えて」
沈黙。
影が動揺した。
『…………ぁ……?』
青年の声が鋭く響く。
「さぁ、影。
言えるなら言ってみろ──
“あの日、弟が最後に言った本物の言葉”を。」
影は沈黙した。
息もできないほどの沈黙。
そして──
扉の向こうで
人ではない呻き声が漏れた。
『……う、ウ……ァ……ァァァア……!!』
葵の背筋に、
氷の刃が走った。
(これ……違う……
弟の声……じゃない……!!)
影が怒号をあげた。
『なまえをよこせぇェ!!
おれの名前をォ!!』
扉が強く歪む。
青年の叫びが重なる。
「葵!! 下がれ!!
“そいつは弟じゃない”!!」
葵は動けないまま、
涙を浮かべて呟いた。
「……弟……
本当に……どこにいるの……?」
影が咆哮する。
『あけろォォォ!!!
おれは──“おねえちゃんの……”』
バンッッ!!
扉に深い亀裂が走った。
葵は震えながら叫んだ。
「あなたは……弟じゃない!!
弟はそんな声じゃない!!」
影が吠えた。
『よくも……よくもォォォ──!!』
玄関のドアノブが
激しく捻られた。
家が鳴動する。
そして──
扉の向こうから、
新しい“足音”が近づいてくる。
影とは全く違う、
落ち着いた、一定のリズム。
颯が顔色を変えた。
「だれか……来てる……!?
この状況で……!?」
奏が震える。
「味方……?
それとも……影の仲間……?」
青年の表情が変わった。
「……いや。
この足音は……」
影が突然、完全に静止した。
ドアの前に到着した足音の主。
影は怯えたように後ずさる。
青年が低く呟いた。
「この足音……
“葵の本物の記憶”を持つ者だ。」
葵の心臓が止まりそうになった。
その人物は──
ゆっくりと、
玄関のノブに手をかけた。




