第7話:名前を呼べない理由
玄関の向こう側で、
影のノックは途切れず続いていた。
コン……コン……。
小さくて、
弱々しくて、
泣き出しそうなほど細い音。
奏の震える声がリビングに落ちる。
「……まるで……
本当に小さい子みたい……」
颯は歯を噛みしめたまま、
葵の腕を強く抱きとめている。
「葵、絶対に答えるな。
たとえ本物の声に聞こえても……だ」
青年も冷静な目で玄関を見つめた。
「影が“子どもの声”を選ぶ理由は一つ。
葵の中で、子どもの声だけは──
抵抗なく“心の奥”に届くからだ」
葵は震えた。
(……どうして……
どうしてこんなに胸が痛いの……)
扉の向こうから、
まだ呼んでいる。
『……あけて……
おねえちゃん……』
(やめて……
そんな声で呼ばないで……)
葵は息を詰まらせ、
目をぎゅっと閉じた。
「私……
思い出せそうなのに……
どうして……だめなの……?」
颯が答える。
悔しさが滲んだ声で。
「葵……お前は──
“思い出したら壊れる”記憶を持ってるんだよ」
胸を刺すような言葉だった。
葵は振り返る。
「壊れる……って……?」
颯の喉が震える。
言いたくない、けれど言わなきゃいけない──
そんな葛藤が浮かんでいた。
だが、言葉を挟んだのは青年だった。
「“名前”を思い出すと同時に、
葵の中の“本当の最初の記憶”が開く」
葵は息を呑む。
(本当の……最初の記憶……)
青年は続けた。
「人は本来、
“自分が覚えている一番古い記憶”に
その人の根がある。
そこが揺らぐと──
人格ごと崩れる恐れがあるんだ」
奏が青ざめた。
「じゃあ……葵があの子の名前を思い出したら、
葵の“根っこ”が……?」
青年は黙ってうなずく。
葵の心臓が、
ゆっくりと重く沈んだ。
(私の根っこ……
私の“最初”って……何?)
影が再び呼ぶ。
『……おねえちゃん……
こわいよ……
ひとりは……やだよ……』
葵は涙がこぼれるのを止められなかった。
(そんな声……
放っておけない……
私を呼んでる“大切な子”なのに……
どうして私は……
忘れたの……?)
青年の目が鋭く揺れる。
「葵。
よく聞け。
“お前がその子を忘れた”んじゃない。
“誰かが葵からその子の記憶を奪った”。
それだけだ」
空気が凍りついた。
奏も颯も息を呑む。
葵は震えながら、
喉から絞り出す。
「……誰……?
誰が……そんなこと……」
玄関の影が、
その瞬間──
“コンコン”と優しく二度叩いた。
それはまるで、
――“答えはここだよ”
と言わんばかりに。
青年が小さく呟く。
「……影は、怒っているようだな。
“奪われた記憶”を返せと」
葵の視界が揺らぎ、
胸が締め付けられる。
(返せって……
私は……返して欲しいのに……
どうして……こんなに怖いの……?)
颯が葵の肩を掴む。
「葵……まだ言うな。
その“名前”を出すのは……
もっと後だ」
葵は泣いた。
「思い出したい……
なのに……
全然届かない……
あの子の顔も……声も……
名前も……」
青年は優しく首を振った。
「届かないんじゃない。
“届かないようにされた”んだ。」
葵の胸がきしむ。
そして青年は、
ついにその存在を言った。
「──葵の記憶を奪ったのは、
葵の“家族”だ。」
空気が止まった。
葵の心臓が一度跳ね、
次の瞬間──
扉の向こうの影が、
ドンッッ!!
と大きく叩いた。
その声はもはや子どもではなかった。
『……かえして……
“おれ”を……
かえせよ……!!』
葵の全身が凍りついた。
(……“おれ”?)
影の声が変わった。
子どもの声から、
“幼い少年の声”へ。
青年が小さく呟く。
「……本性が出たな」
颯は葵を抱き寄せ、
耳元で絞り出すように言った。
「葵……
“あいつ”の名前は……
絶対に思い出すな。
今じゃない。
思い出したら……戻れなくなる」
葵は震える声で尋ねた。
「颯……知ってるの……?
私が……忘れた名前を……」
颯は答えない。
しかし、その沈黙は
“知っている”と叫んでいるようだった。
奏も泣きながら呟いた。
「葵……ごめん……
ごめんね……
わたしたち、みんな知ってた……
でも……言えなかったの……」
葵の心が、
大きく揺れた。
(私以外の全員が……
“あの子”のこと……
覚えてる……?)
影が扉を叩き続ける。
『……あおい……
かえせ……
おれの……“なまえ”……』
葵は震えながら、
胸に手を当てた。
そこには確かに、
言葉になる寸前の“名前”がある。
でも──
言ってはいけない気がする。
(どうして……?
私が思い出したら……
何が……起きるの……?)
青年がゆっくりと、
葵の前に立つ。
「葵。
“本当の名前”を思い出す前に──
お前には先に知るべき真実がある」
葵は息を呑んだ。
「真実……?」
青年の声は低く、
鋭く、
逃げ場を与えない。
「“あの子”が消えた日──
お前の家で何が起こったかだ」
葵の胸が激しく脈打つ。
颯も奏も、顔を伏せた。
玄関の影が叫ぶ。
『あけろぉぉ……!!
おねえ……ちゃ……んッ……!!』
そして、
青年が静かに言った。
「葵。
次に開くのは扉じゃない。
──お前の“最初の記憶”だ。」
葵は震えた。
(“あの日”の記憶……
私が閉じ込めた、何か……)
影は叫び続けている。
扉がひび割れそうな勢いで。
葵は涙を拭き、
震えながら言った。
「……教えて……
私の中で、何が起きたの……?」
青年はゆっくりとうなずいた。
「では始めよう。
──“葵が忘れた家族の話”を。」
影の声が、
凍りついた。
まるでその一言が、
最も触れられたくない“真実”であるかのように。




