第6話:ちぎれた記憶の先にいる者
玄関の扉が、
まるで中から押し返す力に耐えきれないように、
ギィ……と軋んだ。
影のノックが、もう“ノック”ではなくなっていた。
叩く音ではない。
擦れる音でもない。
──“爪の音”だ。
コン……コン……
ガリ……ガリ……ッ
葵は耳を塞いでいるのに、
その音だけははっきり聞こえる。
(いや……やめて……
そんな音……知らない……でも……
この音、すごく……悲しい……)
颯の腕が、葵を後ろからしっかり抱きしめて動きを止める。
「葵……絶対に前を見るな……!」
奏も必死に声を張る。
「葵……大丈夫だから……!
こっちを見て! 玄関を見ないで!!」
葵は震えている指をぎゅっと握った。
けれど──
『……あお……い……』
その声だけが、どうしても胸に刺さる。
まるで、
助けを求めている子どものように。
(どうして……
どうして“影”なのに……
こんな声……出すの……?)
青年が鋭い声で叫んだ。
「葵!!
“声の質”に惑わされるな!!
優しさに聞こえるのは、
ただお前の記憶を模倣しているだけだ!!」
しかしその瞬間、
葵の胸の奥に何かが浮かんだ。
──白いワンピース。
──小さな手。
──笑顔。
──走り寄ってくる足音。
──呼ばれた名前。
(……あ……誰……?)
それを掴もうとした時、
影が突然、玄関を叩くのをやめた。
静寂。
その沈黙が、逆に怖かった。
青年がゆっくりと玄関へ歩み寄り、
影の位置を感じ取るように目を閉じる。
「……離れた。
葵から一定距離を取った。
攻め方を変えたな……」
奏が震えながら尋ねる。
「攻め方……って……
影ってそんなに頭……良いの……?」
青年は短く答えた。
「“あれ”はただの影ではない。
葵の記憶の奥にいる“誰か”だ」
颯が青年を睨む。
「おい、はっきり言えよ。
“誰”なんだよ……!」
葵もその言葉に胸がひきつった。
(私の……記憶の奥にいる……誰?)
青年は視線を逸らしたまま答えなかった。
沈黙。
だが、その沈黙を破ったのは──
奏だった。
「……もしかして、その“誰か”って……」
奏が俯き、
自分の袖をぎゅっと掴む。
「……葵が昔……
本当に大切だったって言ってた……
“あの子”なの……?」
葵は息が止まった気がした。
(“あの子”……?)
颯が奏の肩を押さえる。
「奏、言うな。
葵が思い出す順番がある。
強制するな」
奏は悔しそうに唇を噛んだ。
「……でも、葵、苦しそうで……
思い出せない方が……かわいそうで……」
葵は震えながら尋ねる。
「……お願い……
教えて……
“あの子”って……
誰……?」
奏も颯も、言葉を詰まらせる。
代わりに青年が動いた。
リビングの棚。
影が歪めた写真の前に立つ。
「葵。
“この写真が歪んだ理由”を考えてみろ」
葵は写真を見つめる。
家族写真。
その隅にある、小さな手。
(……知ってる……
この小さな手……私は……この手を……)
胸が強く痛む。
そして──
その痛みの正体が「言葉」になる寸前、
青年が静かに告げた。
「葵。
お前には──“もう一人”家族がいた」
空気が凍りついた。
奏が涙目でうなずく。
颯は歯を食いしばる。
葵の視界が揺れる。
(もう一人……
家族……?
お母さんと……お父さんと……
私のほかに……?)
喉がひりつく。
手が震える。
心が──何かを“思い出したい”と叫ぶ。
青年は葵の瞳を真っ直ぐ見つめ、
逃げ道を与えない声で言った。
「“その子”が、お前を呼んでいる。
影の姿を借りてな」
葵の目から涙が溢れた。
(どうして……
どうして忘れてたの……
私……そんな大事な……)
そのとき──
コン……コン……。
玄関から
小さな、小さなノック音。
今度は、
“まるで子どもが遠慮して叩いているような音”。
そして
ためらう声で。
『……おねえちゃん……
さみしいよ……』
葵の心が──
砕けた。
思わず扉へ向かって歩き出す。
「……行かなきゃ……
あの子……私を……」
颯が慌てて腕を掴む。
「ダメだ!! 葵!!
本物かどうか……まだ……!」
葵は振り返り、涙をこぼした。
「でも……
“あの子”は……
本当に……私の……」
青年は低く言った。
「葵。
真実を知りたいなら、
“扉の向こうの声”じゃなく──
自分の記憶を信じろ」
葵は震える胸を押さえた。
(私の記憶……
私の“もう一人の家族”……
あの子は……
いったい──)
声にならない問いが、心の中で渦巻く。
扉の向こうの影は
まだ、優しくノックし続けていた。
葵が“名前”を思い出すまで。




