第5話:閉じるべき扉、開き始める心
夜の空気は肌寒く、
四人の足音だけが薄暗い住宅街に吸い込まれていった。
葵の家が近づくほど、
胸の奥が重くなる。
(家に戻るだけなのに……どうして……こんなに……怖いの……?)
颯が隣を歩きながら、そっと声をかけた。
「無理に話すなよ。
ただ歩くだけでいい」
奏も手を握っている。
その手は温かいのに──
足元の影がやけに濃い。
青年だけが、何かを探るように周囲の“気配”を見ていた。
「……ついて来ているな。
けれど形は取っていない。今は“耳だけ”だ」
葵は息を呑んだ。
耳だけ──
つまり、声だけ届いている状態。
(だから……あの声が……)
『……あおい……』
今も、かすかに聞こえる。
「返事をするな」と言われても、
返事をしてしまいそうになるくらい弱い、泣きそうな声だった。
葵の家へ辿り着くと、
颯が玄関の前で言った。
「まずは家の中を確認する。
影が入り込んでないかをな」
葵の母は仕事で遅く、家は無人だ。
鍵を開け、四人は恐る恐る入る。
玄関の空気は、普段の匂いのはずなのに、
今はどこか冷たく感じた。
青年が玄関マットに視線を落とす。
「……まだ侵入の跡はない。
影は葵の“外側”に徹している」
安堵と緊張が同時に胸へ落ちた。
リビングへ入り、四人は腰を下ろす。
葵の家は静かで、優しい灯りがいつも通り照らしている。
本来なら安心できる場所なのに、
今はどこか“薄い膜で隔てられている”ような気がした。
奏が温かいお茶を配りながら言った。
「はぁ……やっと座れた……
ここまで来るの、本当に長かった……」
葵は湯気に手をかざし、
じわりと戻る指先の感覚にほっと息をついた。
しかし、青年が急に顔を上げた。
「葵。
リビングに置いてある、“あるもの”に触れるな」
「……え……?」
「影が最も干渉しやすい“記憶の媒体”が、この部屋にある」
葵は心臓が跳ねた。
(……私の記憶……?
この部屋に、何があるの……?)
颯が立ち上がり、リビングの棚を見渡す。
そこには写真立てがいくつも並んでいた。
家族写真。
小さい頃の葵。
運動会、入学式、旅行のスナップ。
どれも、懐かしい記憶。
しかし──
青年が指さしたのは、その中の一枚。
普通の写真立て。
家族三人で写っているはずの写真。
けれど──
「……え……?」
葵は目を凝らした。
写真の端に、
“見覚えのない小さな手”が写っていた。
それは、家族の誰でもない。
隅にちょこんと置かれた、小さな子どもの手。
(……この写真……こんなの……
こんなの写ってなかった……)
奏が青ざめる。
「えっ……もしかして……
これ、“前からこうだった”わけじゃないよね……?」
青年は短く答えた。
「影が“記憶の隙間”を埋めたんだ。
葵が家に近づくにつれ、干渉が強くなった」
葵は写真を手に取ろうとして──
青年に手首を掴まれた。
「触れるなと言ったはずだ」
葵は震える声で問う。
「……どうしてこれ……
私……覚えてないのに……
こんなに胸が……痛いの……?」
青年はわずかに表情を曇らせた。
「──“あの日の記憶”が近づいている」
颯の顔色も変わった。
「“あの日”って……何のことだよ……」
青年は答えない。
葵は震えながら写真立てを見つめた。
隅に写る小さな手。
影よりも白い。
幼い。
ちいさな小指。
そこから離れられない。
(……この手……
私……知ってる……)
胸を掴まれるような苦しさが走る。
肺が重くなる。
息が浅くなる。
写真の手が──
ほんのわずかに動いた気がした。
葵は思わず口を開いていた。
「──名前……思い出さなきゃ……」
颯が慌てて葵の手を掴む。
「ダメだ!! 葵!!」
奏も肩を揺さぶる。
「やめて!! 葵!!」
しかし葵の視界はぼやけ、
写真の中の“その子の気配”ばかりが大きくなっていく。
影の声が耳の奥で囁いた。
『……おねえちゃん……
さがしたよ……』
葵は涙が溢れるほど胸が締め付けられ、
「……私……
本当に……おねえちゃん……だったの……?」
言いかけた瞬間。
ガンッ!!
家中の照明が一斉に明滅した。
窓ガラスが震え、
カーテンが揺れ、
玄関のドアが“外から叩かれる音”が響く。
ドン……ッ
ドン……ッ
ドン……ッ
影の声が、
“はっきりと聞こえた”。
『あけて……
あおい……
──かえして』
葵の足が勝手に玄関へ向かう。
颯が後ろから抱きしめて止める。
「ダメだ!!
葵を呼んでる!!」
青年が叫んだ。
「距離がゼロになった!!
名前を呼ばれたら、向こうに引かれる!!
──絶対に“聞くな”!!」
葵は必死に耳を塞ぐ。
(聞きたくない……
でも……聞きたくて……
泣きそうに……なる……)
そして、玄関の扉の向こうから。
コン……コン……。
今度は優しいノックが響いた。
まるで──
“帰ってきた家族がドアを叩くように”。
『……あけて……
おねえちゃん……』
葵の心が壊れそうになった。
(どうして……
どうしてその声が……
こんなに……悲しいの……?)
青年が叫ぶ。
「葵!! 目を開けるな!!
その声は“記憶じゃない”!!
ただの影だ!!」
しかし──
葵の心の奥では、すでに答えが揺れていた。
(影は“記憶の形”……
じゃあ本物は……?
私は何を……忘れたの……?)
扉越しの影が、ゆっくりと名前を呼ぶ。
『……あお──』
颯が葵の口を塞ぎ、ぎゅっと抱きしめた。
「聞くな!! 葵!!
お前が返事したら……
本当に……連れていかれる……!」
玄関の扉が歪み始める。
影が、近づいている。
ここから先は──
葵が“本当に忘れている名前”との戦いになる。
そして、その名前を知っているのは、
この場にいる“誰か”だ。




