第4話:影が名前を求める夜
放課後。
沈みかけた夕陽が校庭を染める頃、四人は歩道に沿ってゆっくりと家路についた。
外に出られたというのに、
胸にあるのは解放感ではなく“薄い膜のような違和感”だった。
葵は歩きながら何度も肩を震わせていた。
振り返るたびに、誰もいないはずの場所に“気配”がある。
(ついてきている……?
だけど……見えない……)
奏が心配そうに覗き込む。
「葵、今日はうちに泊まっていきなよ。
ほら、怖いなら大丈夫だから」
「……奏の気持ちは嬉しいけど……
家の人、心配するよ……?」
「じゃあ連絡入れれば──」
「駄目だ」
颯が低い声で遮った。
奏がむっとすると同時に、青年が静かに言葉を継ぐ。
「葵の家から“影”が遠ざかれば、しばらくは落ち着くだろう。
今は距離を変えすぎる方が危ない」
奏が目を丸くする。
「距離が……危ない?」
青年は頷いた。
「影は“記憶”に寄る。
記憶の濃い場所──葵の生活圏を外れると、不安定になる。
不安定になった影ほど、荒れる」
葵は息を呑んだ。
(……塗りつぶされるような気配……
荒れるって、どうなるの……?)
颯が短く言う。
「葵の家に戻るしかねぇ。俺も送る」
家の前まで四人で向かうことになった。
道を歩くうちに、夕陽は沈み、
やがて薄闇が街を包み始める。
街灯の下に葵の影が伸びた。
その影の隣──
“もうひとつ影がある気がした”。
(いや……違う……
気のせい……)
葵は震える指先を握りしめる。
奏がぎゅっと手をつなぐ。
「大丈夫。ちゃんと起きてることだからね。
夢なんかじゃないから、支えるよ」
頷いた瞬間──
ふっ……
街灯が一つ、消えた。
そして、次の街灯がまたひとつ。
順番に、ぽつ、ぽつ、と闇が降りてくる。
「……っ」
葵は息を止めた。
静かすぎる。
夜が“無音”になる。
車の音も、人の声も、風の音さえも曇る。
颯が葵の肩を抱き寄せた。
全部守るように。
「この感じ……外でも来るのかよ……!」
青年が周囲を見渡す。
「境界が近い。早すぎる。
本来、夜一回目ではここまで濃くならないはずだ」
葵の心臓が跳ねる。
(来る……
あの子が……)
耳の奥で、小さく何かが触れた気がした。
『──あ……お……』
葵の背筋が凍る。
(聞こえる……
声が……)
青年が急ぎ声で言う。
「葵、絶対に“返事をするな”。
声の主に気づかれた瞬間、呼ばれる」
「呼ばれるって……どこに……?」
奏が震える声で問う。
青年は静かに、しかし残酷に言う。
「“向こう側”だ」
風が吹いた。
その風は冷たく、
まるで指で頬をなぞるように葵の肌をかすめた。
葵はその“触れられた感覚”に息を止める。
(触られ……た……?
外にいるのに……?)
影は扉の向こうに閉じ込めたはずなのに。
いや──
“あれは扉の内側にいた一部でしかない”。
青年が言った言葉が胸に蘇る。
(全部じゃなかった……?
一部分だけだった……?)
颯が葵を庇い、叫んだ。
「ゆっくりでもいい! とにかく家まで行くぞ!!」
奏が葵の手を握りしめたまま離さない。
「大丈夫……怖くても、ちゃんと進もう……!」
葵は頷いた。
そして三歩ほど歩いたとき──
ガシャッ。
何かが地面で砕ける音がした。
振り向くと、
街灯の下のアスファルトに“赤いクレヨン”が落ちていた。
どこからともなく転がってきた。
ひとりでに、赤いクレヨンが道に立った。
カリ……カリ……。
地面に文字が刻まれていく。
葵は息を呑んだ。
奏が震える声で言う。
「や……やだ……見たくない……」
颯は葵の目を塞ごうとするが、
葵はその手を止めてしまった。
(見なきゃいけない気がした……
見ないと……ますます……)
地面に現れた文字。
それは──
『……おねえちゃん……』
血のような赤。
葵の喉が詰まる。
(……おねえ……ちゃん……?
私……?)
青年が低く呟く。
「……まずい……
“関係性の記憶”に触れ始めている」
颯が振り返る。
「関係性……?」
「影は自分が“何者だったか”を思い出しつつあるということだ。
葵の記憶が呼応して、形を与えてしまっている」
奏が必死に葵の腕を掴む。
「ダメだよ、葵……!
思い出したら本当に“迎えられる”よ!!」
けれど葵の脚は震え、呼吸は浅くなる。
心の奥が痛む。
胸の中心で、柔らかい声が囁く。
『──ねぇ……
おねえちゃん……』
鼓膜ではなく、“心の中”で響く声。
葵の膝が崩れ落ちそうになる。
(妹……?
私に……妹なんて……)
頭をかき乱すように、忘れていた記憶が疼く。
青年が鋭く言う。
「違う! 引っ張られるな!!
その“妹”は記憶の欠片が作った“形”だ!!
まだ真実ではない!!」
(真実じゃない……?
じゃあ……私が今感じてるこの痛みは……?
嘘……?)
痛い。
胸の奥が“切り裂かれるように”痛い。
颯が抱きしめるように葵を支える。
「葵! しっかりしろ!!」
葵は震える唇で、呟いた。
「……なんで……
私を……“おねえちゃん”って……」
その瞬間、
三人が一斉に葵を見る。
影の声がすぐ耳元で囁いた。
『──おねえちゃん……
あの日……』
ガンッ!!
青年が地面を蹴り、葵の前に飛び出して叫んだ。
「葵!! 今の言葉を続けるな!!!」
影の声が切断される。
風が止む。
世界が凍る。
青年が必死の表情で葵の肩を掴んだ。
「いいか葵……聞け。
今、“名前”の記憶が開きかけた。
名前を思い出した瞬間──
影は“完全な存在”になる」
葵は震えた。
奏は泣きそうな顔で頭を振る。
「思い出しちゃダメ……!!
名前だけは……!!」
颯は葵の手を握りしめた。
自分の震えを悟られないように。
「絶対に言うな。
葵が名前を知ったら──絶対に戻れない」
葵は苦しげに息を吐いた。
「……でも……
あの子……泣いてるのに……」
青年は静かに、しかし強く断言した。
「“泣いているように見える”のが影だ。
あれはまだ“人”ではない。
思い出せば──殺される」
夜の空気が冷たく刺さる。
葵は胸を押さえ、震えながら呟いた。
「……私……
名前を……思い出しそうだった……」
青年は低く言った。
「それが“今夜の代償”だ。
──影は、名前を求めて迫ってくる。」
そしてその名を、
“葵自身の口”で言わせようとしている。
今夜はまだ終わらない。
影の“呼び声”は、ここからさらに強くなる。




