第3話:外に出た代償
校舎の外に出た瞬間、
世界は音を失ったように静まり返っていた。
風の音も、鳥の声も、遠くの車の音さえも──
まるで消されてしまったかのように無い。
葵は外の空気を吸い込んだのに、
胸の奥に重く沈む感覚は消えなかった。
(……助かったはずなのに……どうして……)
颯が息を整えながら葵の肩を支える。
「大丈夫か? 立てるか?」
「うん……大丈夫……でも……」
葵は校舎の非常扉を見つめた。
そこには誰もいない。
ただ金属の扉がひび割れたように歪んでいるだけ。
けれど──
耳の奥では、まだ。
『……あおい……かえして……』
小さな声が、しつこく、絡みつくように囁いていた。
身体が凍りつきそうになる。
奏が気づいて葵の手を握った。
「無理に思い出そうとしなくていいよ。ね? 外だよ。もう安全だよ」
けれど青年だけは違う顔をしていた。
空を見上げ、眉間に深い皺を刻んでいる。
「……外に出られるとは思っていたが」
低く言う。
颯が眉をひそめた。
「何が言いたい」
「代償が、まだ見えていない。
“扉は閉じた”が、“境界は閉じていない”」
葵は驚いて青年を見る。
「どういう……こと?」
青年はゆっくりと葵を見る。
「“あれ”はまだ、君を追ってきている。
物理的な距離で止まる存在ではない。
向こう側とこちら側の境界に生じた綻びは──
君が開いた記憶によって広がる」
葵の背筋が震えた。
(……記憶……
私が……?)
颯が青年に詰め寄る。
「じゃあ、どうすれば止められる」
「簡単だ。
──葵が“思い出さないこと”だ」
空気が止まるような沈黙。
奏が息を呑む。
「思い出さない……?」
青年は頷く。
「葵の記憶は“向こう側”の歪みと強く結びついている。
思い出せば思い出すほど、あれは形を得る。
声を持ち、姿を持ち、意味を持つようになる」
「じゃあ……さっきの……あの子の言葉は……」
葵の声は震えていた。
(あれ……
あの泣きそうな目……
私を呼んだ声……)
青年は淡々と告げる。
「思い出しかけた瞬間に“具現化”の速度が上がった。
本来ならまだ現れる段階じゃなかったはずだ」
颯が歯を食いしばった。
「……葵をそんなものに巻き込むな」
「巻き込んだのは“記憶”だ」
青年の声には容赦がなかった。
葵の胸が締め付けられる。
奏が葵を庇うように立ちはだかる。
「そんな言い方しなくても……! 葵は悪くないよ……!」
青年は言葉をつぐんだ。
少しの間を置いて、静かに息を吐く。
「……悪い。
葵が悪いわけではない。
ただ事実として、記憶が鍵になっている」
颯が葵の手を取って言った。
「思い出さなくていい。
だってそのせいで苦しんでるんだから」
(でも──)
葵は胸に手を当てた。
影の子どもが見せた泣き顔。
震える声。
クレヨンの文字。
『あおい いっしょに でよう』
(知らないはずなのに……
どうしてこんなに苦しいの……?)
考えるほど、胸が痛くなる。
息が詰まる。
青年が言う。
「代償はもう始まっている」
颯と奏が同時に青年を見る。
「代償って……まだあるの……?」
青年はゆっくりと言った。
「扉が閉じる直前──
“触れそうになった瞬間の記憶”を持っていかれたはずだ」
葵の心臓が跳ねた。
「……記憶……?」
青年は葵を見つめる。
「葵。
学校を出た瞬間、何か思い出そうとして“急に途切れた記憶”はないか?」
葵は息を止めた。
(ある……
ある……!)
非常扉の前で聞こえた声。
影の子どもの顔。
そして──
その直後に記憶が“ぷつん”と切れたような感覚。
葵は震える声で言った。
「……私……
誰かの名前を思い出しかけた……
でも……思い出した瞬間に……
“なくなった”みたいに消えた……」
青年は目を細めて頷いた。
「それが、代償だ。
“影”は、触れられなかった代わりに葵の記憶を奪った」
颯が怒りで震える声を上げる。
「ふざけんな……!!
葵の記憶を勝手に──!」
青年は静かに告げた。
「奪われた記憶は、“返すために呼んでいる”。
──あの影は、おそらく“奪われた本人の記憶”だ」
葵は言葉を失った。
(影が……
私の“記憶”……?)
“大切だった誰か”
“忘れてしまった誰か”
“本当は一緒にいた誰か”
その影が、あんなにも泣いて、呼んでいた?
胸が痛い。
痛すぎる。
青年は言った。
「葵が思い出した瞬間──
“影”は完全な形を得る。
現実に干渉できるようになる。
その時はもう、扉ごときでは止められない」
外の静寂が、ひどく重くのしかかる。
颯が葵を抱くように支えた。
奏が葵の手をぎゅっと握る。
葵は震える声で呟いた。
「……思い出したらいけないのに……
思い出さないと……
あの子が泣いてる……」
青年が言う。
「その矛盾こそが、代償だ」
外なのに、逃げられない。
校舎から離れられたのに、距離が意味を持たない。
安全なはずの場所なのに、心が一点で縛られている。
葵は青い空を見上げた。
どこまでも広いのに……胸は狭くなる。
(あの子は──誰……?
私は……何を忘れたの……?)
答えはまだ、影の中。
影は、ただ静かに──
“返して”と、泣いている。




