第2話:記憶の影
非常階段に響く足音は、妙に乾いていた。
鉄とコンクリートの冷たさがむき出しで、校舎の中よりもはるかに冷え込んでいる。
(外が近いはずなのに……どうしてこんなに寒いの……?)
葵は腕を抱いた。
颯が前、青年が後ろを守り、奏は葵のすぐ横にいる。
四人の呼吸だけが階段にこだまする。
「あと二つ下れば、もう校舎の外だ」
青年が抑えた声で言う。
奏がほっと息をつく。
「じゃあ……もう、あれは……」
だが青年は首を横に振った。
「“まだ”ついてきている」
葵は振り返りそうになって足を止めた。
青年がすぐに言う。
「見るな。
視線を向けると“気配を呼ぶ”。
階段の構造上、あれは姿を隠しやすい」
その瞬間──
ギ……ギ……
階段のどこかで、金属を爪で引っかくような音がした。
葵の心臓が跳ねる。
颯が葵の背中に手を添え、ゆっくりと進ませる。
「大丈夫だ。外に出れば距離を取れる」
(本当に……?
本当に外に出られる?
影は……あの子は……)
喉が苦しくなる。
ふと──
葵の視界が揺れ、また“映像”が流れ込んできた。
──狭い階段。
──泣いている子ども。
──誰かが閉じ込められている。
──扉を叩く音。
(また……記憶……?)
頭を抱えたくなるほど鮮明なのに、肝心な部分がぼやけている。
すると、横にいた奏が小さく葵の手を握った。
温度が戻る。
「……葵、息して……?」
「あ……うん……」
青年がちらりと葵を見て言う。
「思い出しかけているな。
外へ出る前に記憶が暴走するのはまずい」
颯が眉をひそめる。
「暴走ってなんだよ!」
青年は低く言った。
「“向こう側”が、葵の思い出そうとする記憶を利用して干渉してくるということだ。
記憶と現実が混ざる。
幻覚では済まない可能性もある」
葵の背中を冷たい汗が伝う。
(記憶……向こう側……
じゃあ、私が思い出したら……あの子はもっと近づく……?)
ドクン、と心臓が脈打つ。
その瞬間、階段の照明がぱちぱちと不規則に点滅した。
奏が身をすくめる。
「やだ……停電……?」
青年は硬い声で言った。
「違う。
“階段そのものへの干渉”が始まっている」
照明が揺れ、影がねじれ、
階段の中ほどに“黒い染み”のようなものが広がっていく。
黒い染みは、じわじわと形を変えながら蠢いていた。
葵の視界が引き寄せられる。
(……あれ……
見たこと……ある……?)
黒い染みが、ゆっくりと“子どもの背丈”に伸びあがる。
青年が叫ぶ。
「顔を向けるな!! 葵、絶対に!!」
だが遅かった。
染みの中心から、ぬるり、と白い手が飛び出した。
「──っ!!」
颯が葵を抱き寄せる。
影の手が階段の手すりを掴み、ギィッと金属をへし曲げた。
「走れ!! 下まで一気に!!」
青年の怒号が響く。
四人は階段を駆け下りた。
暗闇の中、白い影が蠢きながら追ってくる音がした。
ズ……ズズ……
床でも壁でも関係なく滑ってくる。
階段の踊り場へ差し掛かった瞬間──
葵の足が、何か柔らかいものを踏んだ。
「……え……?」
見下ろしたその足元。
──白い紙。
──赤いクレヨン。
『あおい いっしょに でよう』
息が止まった。
「っ……!」
颯が葵の肩を掴む。
「見るな!! 走るぞ!!」
紙は床からゆっくりと浮き上がり──
裏側の“黒”が表へ滲み始める。
青年が叫ぶ。
「葵を包め! 奏、颯、挟め!!」
奏が葵の手を握り、
颯が葵を庇い、
青年が最後尾で紙の前に腕を広げる。
「下へ行け!! 外はすぐそこだ!!」
足音が響く。
階段を下りきり──
鉄の非常扉に辿り着く。
緑色の非常灯が揺れ、
外の光がかすかに漏れていた。
「開けるぞ!!」
颯が扉を押す。
……だが。
ギィ……ッ。
扉は数センチ開いたところで──
“何か”に押し戻された。
「……嘘だろ……外だよ!? なんで開かねぇんだよ!!」
青年が叫ぶ。
「押せ! 外との境界線が“せり上がっている”!!
今ならまだ──突破できる!!」
颯と青年が同時に押し始める。
葵も両手で押す。
奏も力を込める。
扉はぎしぎしと悲鳴をあげながら、ゆっくりと開いていく。
あと少し。
あと少しで外へ──。
その瞬間。
背後で、黒い影が蠢いた。
振り返らなくてもわかる。
“あの子”が階段の踊り場まで来ている。
空気が凍り、
葵の頬の印が灼けるように熱くなる。
『……あおい……』
耳元で囁かれたように感じた。
葵の胸が締め付けられる。
(この声……知ってる……)
青年が叫ぶ。
「来るぞ!! 押し切れ!!
外が──外が届く!!」
颯が歯を食いしばる。
「うおおおおおおッ!!」
扉が……開く。
冷たい外気が頬に触れた。
葵は一歩、外へ足を踏み出した。
その瞬間──
背後の影が、階段の手すりを掴み、
“跳んだ”。
白い指先が葵の背中を掴もうと伸び──
風を切る音。
葵は思わず振り返った。
黒い影の中で、
小さな白い顔が、
泣きそうな目で葵を見つめている。
『……いかないで……』
葵の胸が締めつけられた。
(──この子を、知ってる)
その直後。
青年が影の腕を掴み、怒号を放つ。
「行け!! 葵!! 振り返るなッ!!」
颯が葵を抱き寄せ、
奏が背中を押す。
葵は外へ押し出され──
影の指先は、扉が閉まる寸前で、空を切った。
バンッ!!
扉が閉まり、
影は内側に閉じ込められた。
外の空気はひどく冷たく、
そして嘘みたいに澄んでいた。
葵は震える手で胸を押さえた。
(いまの……声……
あの子の顔……
やっぱり……どこかで……)
青年が静かに言った。
「──ようやく、“こっち側”に出たな」
颯が息を荒げながら葵の肩を支える。
奏は涙を滲ませながら笑った。
「……外だ……ほんとに……外だ……!」
だが葵だけは、
扉の向こうにまだ残っている声に耳を塞げずにいた。
『……あおい……かえして……』
胸の奥が、痛い。
痛すぎた。
物語は、ここから本当の姿を見せ始める。




