第12話:逃げ場のない校舎
階段へ向かって全力で走る。
だが──靴音が跳ね返るたびに、校舎が奇妙なほど揺れているように感じた。
(こんな……長い廊下だっけ……?)
息が荒い。
喉が焼けるように熱い。
背後を絶対に振り返りたくない“気配”が、ずっと張りついていた。
颯は葵の手を強く握ったまま、走りながら叫んだ。
「下の階に行けば出口に近い!
とにかくエントランスまで走るんだ!」
奏も息を切らしながら必死でついてくる。
青年は殿を務めるように最後尾を走っていた。
そのとき──
ギィィィ……ッ。
階下から、重い扉が開く音が響いた。
全員、動揺に足を止める。
奏が震える声で言う。
「……下にも……いる……?」
青年が低く答えた。
「いや、下に“いた”んじゃない。
下の階そのものが、あれの“範囲”に入った」
「は……?」
颯が息を呑む。
青年の声は冷たかった。
「もう校舎全体が、奴の“通路”だ。
上下階の区切りはなくなった」
葵は震えた。
逃げ道が一つ、また一つと消えていく。
視界の端で、薄暗い階段の影が揺れた。
“何か”が、階段の途中からこちらを見ている。
黒い影。
目のような光。
影はすっと奥に沈み──階段から姿を消した。
颯の顔が強張る。
「……マジかよ……なんで……なんでこんな……!」
青年が即座に言う。
「引き返すぞ。奴は“階段を使わない”。
今の位置なら廊下のほうが安全だ」
颯が叫ぶ。
「安全って言えるかよ!」
青年は振り返りながら言った。
「まだ追いついてはいない。それで十分だ」
葵は胸の奥に、妙な違和感を覚えていた。
足元の床が、いつの間にかざらついている。
(この廊下……こんな質感だった……?)
黒板やロッカーの配置も微妙に違う。
掲示物の日付が一週間前のまま。
“少しだけ違う学校”。
ぞっとした。
──もしかして、わたしたち……もう別の“階層”に入っている?
そのとき、後ろを走っていた青年が突然、葵の腕を掴んだ。
「葵、ダメだ! 止まるな!」
「え……?」
青年が必死に言った。
「“見て”しまうと、引き込まれる!」
葵の視線が、廊下の壁に貼られた“白い紙”へ吸い寄せられた。
紙は一枚だけ、異様に浮いて見えた。
そして──そこに書かれていたのは。
『あおい ここだよ』
ぞわり、と背中が音を立てて凍る。
颯が叫ぶ。
「葵ッ、行くぞ!!」
引っ張られ、走り出す。
だが──紙は音もなく剥がれ、ひらりと舞って葵の方へ……追いかけてくる。
「嘘……紙が……!」
奏が悲鳴を上げた。
「そんなのありえない……!」
紙はふわりふわりと舞いながら、確実に葵へ向かってくる。
その裏側は──真っ黒に染まっていた。
青年が前に出る。
「近づかせるな! 颯、葵を連れて曲がり角へ!」
「言われなくても!!」
颯が葵の腕を掴んで走る。
奏はすぐ後ろについてくる。
青年は紙へ手を伸ばした瞬間、表情を変えた。
「……これは……!」
紙が青年の手をすり抜ける。
まるで“存在しない”かのように。
そして──紙は進路を変え、葵へ一直線に向かった。
「来るな……来るな……来ないで……!」
葵は必死に逃げる。
紙は、重力を無視して追いすがってきた。
廊下が歪む。
天井が低く、床が揺れ、教室の扉が勝手に開閉する。
“校舎そのもの”が葵を捕まえようとしているようだった。
颯が叫ぶ。
「曲がるぞ!!」
廊下の角を勢いよく曲がった瞬間──
紙は壁にぶつかり、真っ黒な煙のように散った。
青年が追いつき、息を荒げながら言う。
「……助かった……今の角度なら……奴は追えない……」
奏が泣きそうに言った。
「こんなの……どうすればいいの……?」
颯は拳を握りしめた。
「出口に向かうしかない……どれだけ歪んでても……
外に近づけば、奴は弱るってお前言ったよな!」
青年は頷き、息を整えながら言う。
「外に向かえば、必ず圧力がかかる。
奴は焦り、動揺し、形を保てなくなる。
そこに“隙”が生まれる」
葵は胸を押さえた。
(本当に……外に出られるの……?)
でも──
(外に出たら……あの子は……追ってくる?)
“返して”という声が胸の奥に引っかかる。
その瞬間、視界が揺れ、葵の頭にフラッシュのような映像がよぎった。
──白い服の、小さな手。
──誰かを呼ぶ声。
──暗い部屋。
──扉が閉まる音。
(いまの……)
足がふらつく。
颯が慌てて支える。
「葵!? 大丈夫か!?」
青年の顔が強張る。
「……来たか。
“第一の記憶”だ」
葵は息を吸った。
苦しくて胸が痛いのに、不思議と涙は出なかった。
(私……あの子と……どこかで……)
青年が静かに言う。
「葵。外に出れば、“記憶”はもっと強く現れる。
だが……同時に“真相”にも近づく」
颯が葵の手を握る。
「怖いなら無理に思い出すな。俺が絶対守るから」
奏も必死に頷く。
「そうだよ……いっしょに帰ろう……」
葵は小さく息を震わせながら──
「……うん……帰りたい……」
その一言は、誰より弱く、誰より強かった。
青年は静かに廊下の先を指差した。
「行こう。
外への最短ルートだ。
ここから先は、“校舎が本気を出す”。
気を抜くな」
廊下の先は、まるで深いトンネルのように黒く沈んでいた。
風もないはずなのに、葵の髪がそっと揺れた。
『……あおい……』
どこからともなく、小さな子どもの声が響く。
外へ向かう道は──
外へ近づくほど、影が深くなる。
葵たちはその闇へ、一歩踏み出した。




