第11話:迫るもの
教室の扉がまた──コトリ、と揺れた。
薄暗い廊下の空気が重く沈み、まるで校舎全体が息を潜めているように感じる。
葵は無意識に後ずさった。
足が震えているのが、自分でもわかる。
颯が一歩前に出る。
怒りと恐怖で顔が固まっていた。
「……葵から離れろ。絶対に近づけない」
青年は冷静な表情のまま、廊下の奥を睨んだ。
「近づく。必ずだ。
……今の“段階”になれば、もう制御は効かない」
「段階ってなんだよ!」
颯が声を荒げる。
青年は一瞬だけ目を伏せ、言葉を選ぶように続けた。
「“あれ”の目的は単純だ。
葵に触れ、葵を“確保”すること。
さっきの紙の意味は──
『次で確実に手に入れる』という宣告だ」
葵の背中を、冷水のような恐怖が走る。
奏が震える声で言った。
「じゃあ……ここにいたら……葵、また……」
青年は頷いた。
「この階にいる限り、いずれ“来る”。
動かないという選択肢はもうない」
颯がすぐに言い返す。
「動くに決まってる。ここから離れるぞ」
「焦るな」
青年は颯の言葉を遮った。
「奴は“音”を追う。
今の状態で走れば、一瞬で位置が割れる」
颯の顔が歪む。
しかし、その言葉が現実味を持っていることは、誰の目にも明らかだった。
葵は喉が張りついたように乾き、言葉が出せなかった。
(どうすれば……どうしたら……)
すると青年が突然、葵の視線に合わせるようにしゃがみ込んだ。
「葵。
君に一つ……話さなければならないことがある」
声が異様に静かだった。
「……なに……?」
「“あれ”が君に接触したことで……一部が繋がった。
君の記憶の“断片”が、向こうの側にも共有された可能性がある」
葵の心臓が跳ねる。
「共有……?」
青年は淡々と続けた。
「つまり──
君が思い出せば思い出すほど、向こうも正確に“君を追える”。
君の過去は、奴にとって“道しるべ”なんだ」
葵の胸がぎゅっと締め付けられる。
(思い出したら……もっと近づく……?
でも……
思い出さなきゃ、何を返すのかもわからない……)
逃げ場がない。
颯が青年の胸ぐらを掴みかけた。
「ふざけるな……!
葵に何を強いてるんだ!」
青年は目をそらさずに答えた。
「強いてはいない。
だが──葵が思い出すしか、終わらせる方法がない」
「……!」
葵の背中に冷たい汗が流れる。
奏は震える手で葵の手を握り、泣きそうに言った。
「葵……怖いなら思い出さなくていいから……
わたしたちがぜったい守るから……!」
それでも──
葵は、自分の手のひらが汗ばむほど強く握り返していた。
胸の奥で何かがざわついている。
(あの白い子……
本当は……昔会ったことがある?)
喉の奥が熱くなり、呼吸が苦しくなる。
青年が低く言った。
「葵……思い出すなと言われても、君はもう“入りかけている”。
印がそれを示している」
葵の右頬の白い痕が、かすかに熱を持つ。
その瞬間──
廊下の端にある鏡に、ひとりでに“白い指先”が映った。
全員が息を止める。
指先は鏡からゆっくりと引っ込み、
代わりに──“黒い顔の形”が浮かび上がる。
鏡の中から、かすれた声が漏れた。
『……あおい……』
葵は喉の奥で悲鳴を飲み込み、後ずさった。
青年は鋭く叫ぶ。
「動くな!!」
鏡の中の影は、葵だけを見ていた。
指先が鏡面を撫でるように動き──
白い跡が残る。
『……もうすぐ……』
その声がひどく甘く、ぞっとするほど嬉しそうだった。
颯がブレザーを脱ぎ、鏡に叩きつけた。
ガンッ!
鏡が揺れる。
一瞬、影が震えた。
青年が叫ぶ。
「今だ──走れッ!!」
颯が葵の手を取り、奏が背中を押し、
三人が一斉に反対側へ走り出す。
鏡の中で、影が大きく揺れ、ひび割れたように黒が広がる。
『……まて……』
葵の頬の“印”が、ひやりと光った。
追跡が始まった。




