第9話:目覚めた痕跡
「……葵、聞こえるか?」
颯の声が震えていた。
普段の落ち着きとはまったく違う、必死で押し殺したような声。
葵はゆっくりと瞬きをする。
肺がようやく空気を吸い込み、胸が熱くなる。
「……颯……?」
名前を呼んだ瞬間、颯の肩がわずかに震えた。
「良かった……本当に……良かった……」
その声を聞いた途端、葵の胸がぎゅっと締め付けられる。
颯の手は冷たく、強く、葵の手を握りしめていた。
青年は冷静な声で言った。
「意識は戻った。だが……」
青年の視線が、葵の右頬に向けられる。
葵は反射的に頬へ触れた。
指先に、ひんやりとした感触が残る。
(……指の跡……)
さっき“あれ”に触れられた部分が、うっすらと白く浮き上がっていた。
まるで“消えない印”のように。
奏が泣きそうな顔で覗き込む。
「葵……痛くない……? これ……どうなってるの……?」
「大丈夫……」
葵は震える声で答えたが、自信はまったくなかった。
青年が低い声で説明する。
「触れられた痕だ。あれは人間の皮膚に残る“温度”ではない。
おそらく……葵が引き込まれたことで、印のように痕が残ったんだ」
「印……?」
颯が眉をひそめる。
青年は頷かず、ただ静かに葵を見た。
その目には、警戒と……どこか別の感情が混じっている。
葵は息を整えながら、さっきの“あの世界”を思い返す。
靄の中の廊下。
白い子ども。
「返して」の声。
(あれは……夢じゃない……)
葵はゆっくりと口を開いた。
「……私……小学校にいた……。小さい子がいて……私の名前を呼んだの。
顔は見えなかったけど……何か……知ってる気がした……」
颯が強張った表情で葵を支える。
「葵、それ以上思い出さなくていい。今は休め」
「でも……」
葵は青年を見た。
「あの子が言ったの。“返して”って。
……私、何を返さなきゃいけないの……?」
青年の眉が僅かに動く。
颯がすぐに青年を睨んだ。
「何か知ってるんだろ。お前、最初から――」
青年は言葉をさえぎり、静かに言った。
「葵の記憶は、まだ完全ではない」
「記憶……?」
葵は息を呑む。
「君の過去に、あの場所に繋がる“空白”があるはずだ。
思い出せる時が来る。その“鍵”として……あれは君を呼んだんだ」
「そんな……私、何も隠してない……」
「隠しているのではない。
――忘れさせられている。あるいは、忘れたほうが良かったことを」
葵の手が震えた。
喉がひりつく。
奏が涙をこらえながら葵の背中をさすった。
「葵は悪くないよ……何も悪くない……」
颯は歯を食いしばりながら言った。
「もう絶対に葵には触れさせない。二度と」
青年は視線を落とし、低く断言した。
「触れさせないためにも……急ぐ必要がある。
“あれ”は、今日で終わるものではない。
印が残ったということは……これから本格的に動き出す」
葵は胸が締め付けられた。
(まだ……来る……?)
青年の声には、これまでで最も深い警告が滲んでいた。
「奴は……葵を“完全に見つけた”。
ここから先は、接触が増える。
――この学校だけで済むとは思うな」
葵の背筋が凍りついた。
そして次の瞬間――
廊下の奥で、かすかに金属が落ちる音がした。
カラン……。
颯がすぐに葵の前に立ち、青年も警戒姿勢を取る。
奏が小さな声で呟いた。
「……もう、始まってるの……?」
葵の右頬の白い痕が、ほんの一瞬だけ、冷たく輝いた。
まるで“返して”と囁くように。




