「論理的整合性」と「夜の情緒」
かつて『朝まで生テレビ』という番組があった。
夜も深い時間帯から始まり、早朝の時間帯までライブで、討論という名の「大人の小競り合い」を楽しむ、現実を戯画化したような番組だった。
普段はとっくに寝ているような時間帯に、自論を戦わせる(自称も含めた)言論人たち。夢の中を泳ぐかのように、突拍子のない感情論が飛び出したり、酩酊状態で語る夢のような説を弄する人間が出てきたりで、なかなかに楽しいものであったと記憶している。普段は乱れを見せないひとたちが、真夜中という泥沼で口を滑らせる。酒の席で飛び出した言葉こそが、その人間の「本音」であるかのように、覗き見趣味の視聴者たちをワクワクとさせた(実際に、こんな見方してたのは筆者だけかもしれないが)。
しかし、最早そういった番組も、現代では価値を持たなくなった。なぜなら現代人の大半が、真昼間からその理性を眠らせ、活動しているような状況だからだ。
スマホの登場により、四六時中、情報の波に浸かり続ける人々。「休憩」のつもりでスマホをいじり、結果として「慢性的な脳疲労」を引き起こしている。それでもスマホがやめられない。これでは永遠に泥酔している状態にも等しい。
本来、真夜中の情緒であったはずのそれが、真昼間から、そこかしこで垂れ流される現代。人間が理性を保てる限界値は、せいぜい「午前中いっぱい」といったあたりか、今となっては。
とりあえず、アミロイドβの排出にはサウナだ。
銭湯にでも行くかな。
あ、今日は定休日やんけ……。