第3夜『かえれ』
「キョウコ〜。あんた彼氏と別れたんだって?」
「まあね〜」
同じ職場のミクがニヤニヤしながら絡んでくる。いつものノリだ。
「男は星の数ほどはいないから、どんどん次探してこっ」
「そうするよ」
「客とかにいい人いないん?」
「“客”にはいないかなぁ……」
ふと、頭にあのコンビニの店員さんの顔が浮かんだ。あの優しい笑顔と、どこか掴みどころのない雰囲気。
「客にはってことは、いるにはいるんだ〜。なんて人〜?」
「えっと……」
言葉に詰まる。そういえば、あの店員さんの名前、知らないや。
「内緒〜」
「何それー。付き合ったら教えてよねー」
「へいへーい」
私は苦笑いしながら、今日も夜の蝶"ユミカ"になる……いや、蛾かな。
「ユミカちゃんってセクシーだね〜」
客の一人が私の太ももを触りながら絡んでくる。金持ちらしいから我慢、我慢。
「ありがとうございます〜」
ぺたぺた触る手を適当にあしらいながら笑顔をキープ。
「俺さ、とっておきの怖い話があるんだけど聞きたい?」
「へぇ〜、どんなんですか?」
どうせ大したことないんだろうな、と思いながら相槌を打つ。「実は……」案の定、仕事場で見た「謎の影」とかいう、ベタでわざとらしい話。盛りに盛ってるのがバレバレだ。
「あの影はなんだったんだろう……って話! どう、怖かった?」
「やだ〜、怖いよ〜」
全然怖くない。でも、わざと身を寄せてビビったフリ。客は鼻の下を伸ばして喜んでる。
「ユミカちゃんってこの後——」
「明日病院行かなきゃで〜」
「ちぇっ、じゃあまた今度ね!」
「は〜い」
枕はしない。別に否定するわけじゃないけど、私には合わないだけ。適当に流して、笑顔で切り抜ける。
仕事が終わって、ふとあの店員さんの名前が気になった。いや、名前だけじゃない。あの不思議な雰囲気、鋭い目、怖い話の語り口——全部が頭にこびりついてる。気づけば、いつもの帰り道を外れて、あのコンビニに向かってた。
駐車場は相変わらず車ゼロ。でも、今日は外の灰皿の近くに、杖をついたおじいさんが立ってる。こんな時間に何してんだろ? ちょっと不思議に思いながら、ガラスドアをくぐる。
「いらっしゃいませ〜」
この挨拶、この冷房のキンキンな温度。うーん、これこれ。
「おや、今日はお仕事帰りですかね」
レジの向こうで、あの店員さんがにこっと笑う。もう顔馴染みって感じかしら、なんてちょっと得意げになる。
「そうなの〜。なんか仕事中、ずっと店員さんの名前が気になっちゃってさ〜」
「自分のですか?」
「うん……」
視線をネームプレートに移すと、なんて読むんだこれ?
「めいあん……?」
「いえ、明るいに暗いで明暗といいます。下の名前はツカサです」
「へぇ〜。珍しい苗字だね」
「夜蛾さんも珍しいですけどね」
そう言うとにっこり笑う明暗さん。あれ? 私、名前言ったっけ……?
「ところで、今日はそれだけのためにわざわざ寄ったんですか?」
確かに、名前聞くためだけに寄ったみたいじゃん! あながち間違いじゃないけど、なんか恥ずかしい。
「えっと、今日さ……客にしょうもない怖い話されちゃって、その口直しがしたくてさ」
とっさに嘘ついたけど、正直、怖い話はもうお腹いっぱいだった。でも、ツカサさんの目がキラッと鋭くなって、嬉しそうな笑顔が広がる。
「それはそれは。では、こんな話はどうでしょう。サラリーマンのお客様から聞いた、ある平屋でおきたお話です」
◆◆◆
俺が高校生の時、友達と三人で、出身高校の近くにある廃墟の平屋に肝試しに行ったんだ。夜遅く、懐中電灯持ってワクワクしながらたどり着いたそこは、ボロボロの平屋で、入り口にはベニヤ板みたいなハリボテが二枚、雑に打ち付けてあった。
そのハリボテには赤いスプレーで「かえれ」って落書きされてた。真ん中の「え」の字が二枚の板を跨ぐように書かれてて、なんか不気味だったけど、俺らは笑いながら「ダッセーな」なんて言ってた。
そしたら、友達の一人が「こんなもん、邪魔だろ!」ってハリボテを蹴り飛ばした。バキッて音がして、板がグシャッと壊れた。俺も別の友達も「やりすぎじゃね?」ってちょっと引いたけど、ノリでそのまま中に入っちゃった。
中はもう、めっちゃ荒れてた。ゴミやら埃やらで足の踏み場もないし、虫がブンブン飛んでて気持ち悪い。とりあえず奥の部屋まで進んでみると、そこの床にポツンと遺影が落ちてたんだ。
埃まみれで、虫食いがひどくてさ、顔の上半分——目とか鼻とか——が全部ボロボロに食いちぎられてて、口元だけが残ってた。その口が、なんかニヤッと笑ってるみたいに見えて、めっちゃゾッとした。
「なんだよこれ、キモすぎだろ!」
俺ら三人、怖くなって一気に逃げ出した。外に出て、壊したハリボテの残骸見て、「やっぱヤバかったんじゃね?」なんて言いながら帰ったよ。
次の日。別の友達がその話聞いて「マジ? 俺も見たい!」って騒ぎ出して、結局またその平屋に行くことになった。
同じ夜、同じ道を通って着いたら——なんか変だった。入り口のハリボテが、ピカピカに直ってるんだ。昨日、粉々に壊したはずなのに。「え、誰か直したん?」って友達がハリボテに近づいて、また蹴り壊そうとしたその瞬間、俺、気づいちまった。
「待て、待てよ!」
「どうしたんだよ?」
「これ、昨日と同じハリボテだぞ」
「は? 何言ってんの?」
「ほら、よく見ろ! 『かえれ』の『え』が、昨日と同じように二枚跨いで書いてあんだよ!」
そう、ただ直されたんじゃない。俺らが壊したはずのハリボテが、まるで何事もなかったみたいに元通りになってた。赤い「かえれ」の文字も、昨日と全く同じ位置、同じ筆跡。ゾッとした瞬間、ハリボテの向こうから、微かに声が聞こえた
「……れえ……」
心臓が止まるかと思った。友達も顔真っ青で、悲鳴上げながら全力で逃げ出した。それ以来、俺らは二度とその平屋に近づかなかった。
◆◆◆
「その平屋はもう、取り壊されたらしいですよ」
「いっ、今はそこに何があるんだろ……」
恐る恐る聞くと、ツカサさんはにっこり笑った。
「公園らしいですよ」
私の体は冷え冷えになっていた。そのせいで、急にあったかいものが食べたくなった。
「じゃあ、これください」
夜食用のレンチンそばを手に取る。太るってわかってるけど、今はそんな気分。
「ツカサさんっていくつなんですか?」
ふと気になって聞いてみる。
「25ですよ」
「ふ〜ん」
「今、25にもなってコンビニバイトなんだって思いました?」
「おっ、思ってない! 私27で、年下なんだって思っただけ!」
「冗談ですよ」
クスッと笑うツカサさんの顔に、なぜか胸がキュッとなる。なんか今日、ほんのちょっとだけ距離が縮んだ気がする。
会計を済ませてコンビニを出る。外は相変わらずムシムシしてるけど、そばの袋を握りしめて歩きながら、なんか少し気分が軽かった。
***
次の日、私は隣町の病院にいた。母のお見舞いだ。といっても、別に重い病気ってわけじゃない。足を骨折して、入院してるだけ。夜職の私以外に家族がいないから、母にはしばらく病院でゆっくりしてもらってる。
「たまには外に出たいねぇ」
病院生活に飽きたらしい母の言葉に、私はピンときた。
「じゃあ車椅子に乗って、公園でも行こっか」
母の顔がパッと明るくなって、なんか私まで嬉しくなる。車椅子を借りて、母を乗せて病院近くの公園まで向かった。
公園はこぢんまりしてて、子どもたちがキャッキャと遊んでる。ブランコで笑い合う子や、滑り台を滑る子を見て、母も私もつい微笑んじゃう。
「やっぱり子どもって元気だねぇ」
「ほんと、癒されるわぁ」
母が楽しそうで、私もホッとする。そんな時、公園の隅に、なんか妙なものがあるのに気づいた。
「ねえ、あれ何?」
木々の間に、ぽつんと石碑みたいなのが立ってる。墓……? 公園に墓って変じゃない?
「ちょっと見てくるよ」
母をその場に残して、近づいてみる。やっぱり墓だった。苔むした石に、名前が彫られてる。
えっと、「鈴木れえか」。女の人かな? でも、なんか変だ。下の名前、「れえか」の部分だけ、赤いインクみたいなのがベッタリついてる。落書き? いや、なんか、わざと塗ったみたいに濃い。
「キョウコ、危ないから離れなさい」
母が車椅子から身を乗り出して言う。私はハッとして戻るけど、母は真剣な顔でその墓に手を合わせて拝んでた。
「母さん、知ってる人?」
「いいえ、知らないわ。でも、なんか……放っとけない気がして」
母の言葉に、なぜかゾクッとした。あの赤いインク、なんかイヤな感じだった。
「もう帰ろっか」
「そうね」
子どもたちの笑い声が響く中、私は母を連れて公園を後にした。でも、あの墓のことが、頭から離れなかった。「れえか」って名前と、赤いインク。なんだろ……。