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第2夜『カットマネキン』

 



 体に纏わりつくような湿気。Tシャツが肌にぴったりと張りついて気持ち悪い。寝苦しい熱帯夜に、私はどうにも眠れずにいた。


 今年は例年よりも暑いらしい。よりによって、そんな夏の最中にエアコンが故障するなんて、ついてない。修理業者に連絡してみたら、今は繁忙期だから修理には数日かかると言う。


「あ〜、まじで死ぬ……」


 私は冷蔵庫までのそのそと歩いていき、ペットボトルを一本取り出して一気に飲み干す。だが喉が潤うと同時に、頭が冴えてしまった。


「冷たいもの、食べたいな……」


 そう呟いて冷凍庫を覗く。けれど中には氷しかない。仕方なく、一粒掴んで口の中に放り込んだ。でも、甘いものが欲しい――そう思うと自然と、あのコンビニのことが頭をよぎった。


「でも、あんな話を聞いた後だし……」


 あの店員さんの怖い話が、嫌でも脳裏に浮かぶ。それでも、次に近いコンビニは歩いて結構かかるし、それに――もう一度、あの店員さんと話してみたかった。


「……しゃーなし、行くか」


 時刻は深夜2時を少し過ぎた頃。私は汗ばむTシャツのまま、深夜のアイス探しに家を出た。


 街灯を頼りに道を進んでいくと、例のコンビニが見えてくる。やはり駐車場には車が一台もない。そして、少しの緊張感を抱えながら入店した。


「いらっしゃいませ~」


 中庸な響きの挨拶と、効きすぎた冷房が私を迎え入れた。


「……癖になるな、この温度」


 何とも言えない妙な心地よさを感じつつ、辺りを見回す。やっぱり他のお客さんはいない。この時間じゃ当たり前か。


「お兄さん、この前はホットスナックありがとうございました!」


 今日もビジュよし。


「あぁ、お客様は先日の方ですね。喜んでいただけたなら幸いです」


 店員さんが穏やかに微笑む。けれど、その笑顔の奥にはどこか鋭さが宿っているように感じた。私は一瞬、あのガソリンスタンドの話を持ち出そうかと思ったが、なんだか怖くなってやめた。話してしまえば、"答え合わせ"をしてしまうような気がしたからだ。


「今日はお仕事帰りではなさそうですが、こんな時間にどうなさいました?」

「家のエアコン壊れちゃっててさ、蒸し暑くて寝付けなくて。アイスでも食べて、ちょっとでも涼もうと思ったんだ〜」

「それは……またまた災難ですね」

「ほんとよ! てか今年の夏暑すぎ。もう、この店に住んでやろうかな」

「あっはっはっ、それは困りますね」


 彼が声をあげて笑う。――うん、いい……


「では、こんな暑い日にぴったりのお話がありますよ」


 その言葉に、一瞬心臓が跳ねた。


「いやいや、今日は怖い話はちょっと……」

「おや、それは残念です」


 店員さんが、あからさまに寂しそうな顔をした。その表情がどこか儚げで愛らしく、思わず負けてしまう。


「まっ、まぁ、せっかくだし聞いてみようかな。気持ち涼しくなりそうだし!」


 私の言葉に、彼の目が鋭く光る。そして、満足そうに微笑みながら言った。


「では、これはある美容師のお客様から聞いた話です――」



 ◆◆◆



 私が新米美容師だった頃、毎日店長の叱責に耐えながら練習を続けていた。仕事が終わる頃には夜も更け、疲れ切った体を引きずるようにして帰宅する日々。休日も休むことなく、練習用のカットマネキンを持ち帰り、家で髪を切る練習をしていた。


 そのマネキンは首から上だけのもので、無表情な顔がどこか不気味だったが、私は気にしなかった。一人暮らしの部屋は静かすぎて、そんなマネキンの存在すらありがたく感じていた。店長に怒られた日などは特にそうだ。そんな日は、マネキンに話しかけることも少なくなかった。


「キミが人間だったらなぁ……」


 その言葉が自然に溢れたのか、それとも心のどこかで吐き出したかったのか、自分でもわからない。ただ、マネキンの無表情な顔が、少しだけ何かを語りかけているように見えた。


 最初の異変に気づいたのは、それから数日後のことだった。夜遅く帰宅すると、いつも置いていた場所からマネキンが少しだけ動いているように感じた。気のせいだ、と自分に言い聞かせて元の位置に戻したけれど、翌日も、またその翌日も、気づけば少しずつ別の場所に移動していた。


 ある時、はっきりとわかった。そのマネキンは、着実にテレビの方へ向かって動いているのだと。


 恐怖を感じた私は店長に相談したが、鼻で笑われただけだった。「疲れてるんじゃないの?」と軽く流された私は、それ以上何も言えなかった。


 そして、あの日。


 仕事が遅くなり、深夜に帰宅すると、玄関を開けた瞬間、部屋の中からかすかに誰かがすすり泣く音が聞こえた。心臓が跳ね上がるような感覚に襲われながら、恐る恐る部屋に足を踏み入れると、音はピタリと止んだ。


 リビングに入ると、マネキンがテレビの前のテーブルの上に置かれていた。いや、あれはまるで「座っている」ように見えた。そしてそのガラス玉のような目は、テレビの画面に映る自分自身をじっと見つめていた。


 恐る恐る近づき、マネキンの顔を覗き込んだ瞬間――気がついてしまった。目元に、小さな涙の筋ができていたのだ。私は凍りついた。触れてみると、それは確かに冷たい液体だった。


 恐怖と混乱の中で、私はそのマネキンを美容室に戻し、それ以来、家に持ち帰ることはしなかった。


 でも、今になって考えると、私は後悔の念に駆られることがある。あの日、無意識に放った言葉、「キミが人間だったらなぁ……」。その言葉が、あのマネキンに何かを宿してしまったのではないか。テレビの前まで移動したのは、きっと自分自身の姿を確かめるため。そして――そこに映る自分が人間ではないという現実を知り、涙を流したのではないか、と。


 それを思うと少し悲しくなって、休憩中、たまにそのマネキンの頭を撫でてあげるんです。



 ◆◆◆



「このお客様は、最近自分のお店を出したらしいですよ」


「……」

「少しは涼しめましたか?」

「おかげさまで……」


 やっぱ聞かなければよかった。冷房の効いたコンビニの中、おかげで体はすっかり冷え切り、いつもなら魅力的に見えるアイスにも全く食指が動かなかった。それでも何か口に入れたかった私は、結局ホットスナックをひとつだけ買って帰ることにした。


「また太るな、これ……」


 独り言が深夜の静寂に小さくこだまする。その日は、疲労感と微かな恐怖心がまじり合ったせいか、意外にもぐっすり眠れてしまった。



 ***



 数日後、長く放置していた髪をそろそろ整えたいと思い立ち、スマートフォンから美容室を予約した。どうせ切るならお得な初回クーポンを使いたい。そんな浅ましさを抱えつつ選んだサロンの評価は良く、スタッフも親切らしい。どこにでもある普通の美容室だ。


 当日、エントランスをくぐると爽やかなアロマの香りが出迎えてくれた。担当してくれたのは、落ち着いた雰囲気の店長だという女性だった。艶々のその髪の美しさに、思わずうらやましいという感情がこみ上げた。


「すごく綺麗な髪ですね……」

「ありがとうございます。髪はその人自身の一部ですから、大切にしたいですよね」


 穏やかに微笑む彼女の言葉に、何故か心がほっとした。髪を洗ってもらい、シャンプーの心地良さに酔いしれる。


 ところが、椅子に戻り、彼女がはさみを手にして私の後ろに立つ頃になると、どういうわけか、妙な視線を感じ始めた。なんだろう――鏡越しにぼんやりと目に入ったのは、後方の棚に鎮座するマネキンだった。


「……」


 無表情な顔はどれも同じはずなのに、あれだけは違う気がする。ただのマネキンにしては、妙に存在感があった。


 髪を切る間中、ちらちらと視界の隅を這うその姿。鋭いはさみの音に合わせて、小さく胸がざわめいていく。時折、美容師さんが話しかけてくれるが、どうにも集中できない。


 あんな話聞いちゃったから、意識しちゃってるだけだろう。そう自分に言い聞かせた。


「大丈夫ですか?」


 突然、美容師さんの声にハッとさせられた。どうやら動揺が表情に出ていたらしい。


「あ、すみません……ちょっと疲れてるのかも」


 苦し紛れの返答をしながら、内心ではそのマネキンを正視する勇気が出ずにいた。


 そのまま、まともに話も続けられないままカットが終了した。美容師さんが仕上がりを見せてくれるよう促した際、私は思わず意識的に鏡から目を逸らした。その視界の片隅で、そのマネキンの位置が微妙に変わっているように見えたが、確認する勇気なんて、あるはずもなかった。


 私はぎこちなくお礼を述べ、美容室を後にした。足早に歩きながらも、どうしてもあの異様な存在感が頭から離れない。


「美容室選び、間違えたかな……」






お読みいただきありがとうございます。

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また、誤字脱字や気になる点がありましたら、ご指摘いただけると嬉しいです。

引き続き、この物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。

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