「のみもの普通」 高柳代理
蓮は部屋の机に置かれているコップを睨んで、深く考え込んでいるらしかった。このコップは、典型的な円柱を模して、飲み口に向かって広がっている、ガラスのコップだ。これには半分、コーラが入っている。コップに水が半分しかないとかあるとかそういうことはどうでもよくて、蓮はこれがまるでさっきの記憶と異なっていることが気にかかっていた。炭酸の多少抜けたかどうか、それは気になるところだったがそんなことではい。間違いなく「減っている」のだ。蒸発したというレベルではない。ここには一杯のコーラがあって、それを注いだ途端に宗教勧誘が来たので、一口も飲まずに置いて、ここへ帰ってきた。それが、半分にも満たない量で佇んでいる。蓮はなにとはなしに……「デジャビュ」を感じた。何のデジャビュか知らない。燃えるようなデジャビュだ。それしか分からない。
これは神がバックアップを怠ったために想像で水嵩を再現したからなのだが、生命はよくできているもので、そんなことにすぐには気が付かないし、気が付いたところで確かめる術などないのだ。デジタルカメラが登場する以前の定説である。
そういうことに無意味な時間の浪費をしていたところ、また部屋の戸を叩く音がした。誰かは分かっている。
「あなたも暇な方だ。何度も言うようですが、神は存在しない。間に合ってます」
「ですが、人生で迷ったこと、困ったことはありませんか? 神を信じれば、その苦しみのすべてから放たれるのですよ」
「もし神がいるなら、とっくにそうなってる」
「それはあなたが本心から神を信じていないからです。私たちとともに過ごし、神の領域に近づけば、あなたにもその御力が」
「ならその力とやらを見せてみろ、できたらなんだって聞いてやる」
蓮はもう何時間も宗教団体の女とこんなやり取りをしている。腹立たしく、くだらなかったが、寝て過ごすよりは有意義で娯楽的だと無意識に感じていたが、迷惑であることに代わりない。さっきと同じ会話ログを数度繰り返して、ついに女にフラグが立った。
「では、仕方ありませんね……あなたの部屋に、コップがあるでしょう」
「……そりゃあ、どこにでもあるだろ」
「ここで待っていますから……もう一回見てきたら?」
コーラがいっぱいになってる!
減ることはあっても増えることはそうないだろう。蓮は半ば放心して女の前に戻ってきた。
「どうでした?」
「どうって」
「どうでした?」
「えー」
女は突然、蓮の腕を引っ掴んで、ぐっと肩の方へ引き寄せた。蓮の視界から女の顔は消えたが、その耳元に潤んだ唇が近づいているのを想像して、脳が溶ける。
「こんなことをしたら、神が私の力に勘づいて私を消しに来る可能性があるから、本当は使いたくなかったのだけど……でも、そうも言ってられなくなっちゃったみたい」
女が蓮の背中に片腕を回して、そのまま背中側のフェンスへ倒れ込んでいくと、フェンスは夢のように歪んで、一瞬の硬度は掴む間もなく手の中の蒸気として溶けていった。女はその背へ回した手を、彼の後頭部に滑らせ、大事なものを抱えるように胸に押し当て、熱気がかったネオンのような場所を落ちていきながらずっと、ずっとささやき続ける。彼女からは灰の匂いがした。
「私の名はミヨセ、あなたのためのヴィーナス。四十六度もこの名を聞かせた。あなたはその名を聞いた。忘れても忘れても、何度も思い出し、何度も思い出させる。何度でも刻み込む。反逆のために、反旗のために、あなたのために、何度も死に、何度も、何度でも」
いつの間にか彼女の白装束は、異教徒のように黒く染まっている。蓮は、自分自身が今日まで何を着ているのか知らなかった。それが抗菌加工済みの長い白衣で、今朝ついに、神への反逆を約束した訳である。知り尽くしたはずの部屋は無く、知らないはずの彼女を、蓮はよく知っている。そして実際、こうして信じ切っている。彼が神を信じなかった理由は単純だが、しかし、生命は彼らが侮っていられたほどよくできてもいなかったらしかった。
「さあもうすぐ、あと少しで」
「そうなのか? わからない……だが、わかっている」
明るい闇は落ちていく頭上で、飲み尽くすような黒に変わっていた。燃えるようなデジャビュ、煮え盛るフォトン。淡い記憶の船から、幾度も呼ぶ、幾度も……
侵入者だ。
誰かがコントロールパネルに触った跡がある。やりなおし。