「のりもの忌中」 高柳代理
バスは沿岸を過ぎて、石造りの白い街並みへ入る。港のあるこの街は、潮風が流れている。からりと晴れた空の下で、いつでも絶えず人々が市場を行き交い、賑わう。磯の香りが漂うこの場所は特に関係はなく、重要なのはこの街の中の住居の一室を間借りする男の部屋が信じられないくらい薄暗くて錆びついていることなのだ。ところでこの男、名前を夢良咲蓮といい、明日の食事にも苦しんで、目に見えない黴の雰囲気のあるシーツを洗うか洗わないか考え、六時間も時間を浪費したところで、ついには何の変哲もない東京都心を目黒までのバスで空想することにしたのだ。彼もかつては晴れて爽快な感じを知っていた、というイメージだけがあるのだが、今朝初めてこの世界ができたような不明瞭な暗示をもってして後ろから四列目の座席の窓を陣取っている。いわばサンクチュアリだ。活字体だ。
イタリアの街並み、という嘘の記憶によって、霧のごとく永遠に続く明日を求め、明日から逃れるために、手に触れるガラスの冷たさでひとときの生を思い出し、とかく、逃げ出す算段を考えていた。なにかやらなければならないことはいくらでもあったが、それらのどれにもやる気が起きず、その焦りからやりたいことも忘れているし、もし時間があってもそんな気分にはならなかったとわかっている。それで今、少ない金をブリーフに織り直すような行為でここへ来た。それにしても道路を行くバスの振動はいつでも楽しい。
蓮の視界が暗くなる。背の高い蓮がその感覚を知るのは、十の歳の時に性格の悪い女どもから不条理な言葉群を叩きつけられる習慣以来のことだった。あの時親友は助けてはくれなかった……。
影を落とす存在のために目線を上げる。いつの間にかバスは混みあっていて、蓮の周りにも人が立っている。その顔に影を落としたそれは、堅苦しい黒い服に身を包んだ女で、しかも、白い指は蓮の隣の座席を指さしている。
「となり、いいですか」
「はあ……」
蓮は素っ気ない、不意を突かれたような声で、特に効果もなく窓側へ身を寄せた。女は宣言通り、その隣に腰を下ろす。彼女からは灰の匂いがした。蓮は見るでもなくその女の服や横顔を見た。実際、現実逃避のために妄想を続けるよりも、現実に存在するものに着目した方が楽しそうに思えた。黒い服の女は、くすんだ真珠の連なりを首に掛けて、髪は纏め上げ、遠い国にでも行くような目をして、浅く座っている。彼女が指輪をしているようには見えなかった。まったく決めつけに過ぎなかったが、未亡人だ、と思った。
「そんなに珍しいですか?」
「え……」
蓮は驚いたわけではなかった。言っている意味がわからなかった、すぐには。実に蓮は夢想の延長のように彼女を見ていたために、つまり、自分の思っている以上に他人を凝視していた。それに気づいた時でさえ、蓮は驚かなかった。今では信じがたいことに、感情が湧き起こらなかった。
「葬式から帰る女が、そんなに珍しいですか?」
自分の想像が当たっていたことに、わずかな高揚を覚えた。高揚といってもケジラミの跳躍のようなものだ。蓮はケジラミが跳ねるかどうかなど知らなかったが。そういうことを考えている間に、女への返答は当然忘れていた。
「……ごめんなさい、急に話しかけて。困りましたよね。もう、話しかけませんから……」
「…………」
けれどそういったところで蓮はついに現実に戻った。唐突に世の中がビジュアルノベルでないことを思い出したのだ。きみは突然色々なところが熱を帯びるのを感じた!
「あ、あ、いや、全然。なんでも、いや、そんなことは」
「……」
「えっと、あの。話しかけても大丈夫……」
彼女は奇怪な、面白いものを見る目で黙っていたが、「そうですか」と言えば、蓮のもにゃもにゃした返答にも関わらず死んだ夫の思い出話をし始めた。蓮はそれに中途半端な顔で相槌を打つことしかできなかったが……まあ、シーツのことで悩むよりはずっと有意義な時間だった、といえた。
バスは彼女の話を遮って目黒へ着いた。しかたなく、彼らは別れたが、バスに残る彼女は蓮の姿が見えなくなるまで振り返ってくれて、なぜそんなことがわかるのかといえば、蓮もまた見えなくなるまでずっと見ていたからなのだ。彼女の名前は明星まりか、アケボシと書いてミヨセである。蓮は目黒の街の物々に明星の面影を重ねながら当てもなくさまよい、またこの部屋に帰ってきた。哀しみの象徴のようだった部屋で、アロマのような余韻のために黴フレーバーのシーツに身を投げ出すと、新品のような肌触りで、親しみ深い抱擁のように感じた。これは神がバックアップを怠って、再生成の際に新品のシーツと間違えて配置してしまったからなのだが、蓮はそれを、「鬱からの脱却」と捉えるようになった。やりなおし。