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「彼女について」 いはる

「生きてゆかれないね」


 そう言って冷たい床に寝転がるかれの髪が、生きものみたいに広がっていた。それだけ覚えている。


「白すぎる!」


 そう興奮して跳ねるかれの髪が、生きものみたいに躍動していた。それだけ覚えている。


「助かろうな」


 そうわたしを抱きしめたかれの髪が、生きものみたいにあたたかだった。それだけ覚えている。


 


 記憶していることといえば、かれの髪の長さとそのうねりと、あたたかさで、目の前にいたことは夢か幻覚かもしれなかった。かれはよく無言で動くことがあって、わたしがすこしそれを汲むのがうまくなった頃に、その人と別れた。刻限だった。手が繋ぎにくい身長で、ようやく慣れてきた頃だった。抱き合ったときの匂いが自分と同じになった頃だった。


 すべてが惜しい頃だった。その人が黙って置いていったものたちを、どうにか集めた。部屋はすこしかれの匂いがした。その夜ちょっと泣いた。そのくせよく眠った。


 


 ・・・


 


 愛にはいくつかある。ほとんどないみたいな、存在を抱きしめる愛と、目が見えなくなるみたいな、短くて深い愛、おだやかな生活みたいな、波のない湖に似た愛、やさしくて、高いところから見下ろすみたいな愛。いろいろある。愛の数だけある。わたしたちはどうにかこの愛が唯一でありますようにと祈りながら生きている。どうにもしようのない心配事であるが、考えずにはいられないというように、気がつかないほど深いところで祈っている。それは静かで、果てのない海溝のように冷たい。恐ろしいほど柔くて、すこし風の匂いがする。たいていはひとりきりである。ひとりきり底の泥に半分埋まって、ぬくい潮流が肌を撫でるのを待つ。かれはそこにやってきたのである。わたしたちは手を取り合ってそっと眠った。


 


 ・・・


 


 床に横たわるかれをわたしは黙って見つめていた。


「生きてゆかれないよ」


 かれはそう呟いた。冷蔵庫のうなりに掻き消えていくような、低くて小さい声だった。


「生きてゆかれない」


 わたしは繰り返した。生きてゆかれなかった。


「生きてゆかれないね」


 かれの黒い髪が、流れのように広がっていた。わたしはただそれを眺め、かれはただじっと待っていた。


「お腹がすいた!」


 その人は急に起き上がり、のそのそとすぐ後ろの冷蔵庫を覗く。かれはほとんど何も入っていない棚から、フルーツゼリーを取り出した。


 冷たい床の、そこだけがあたたかだった。


 


 ・・・


 


 暑い日だった。夏はまだだというのに日差しがとても強い。わたしは水を見たいと言って、かれを連れ出した。とても暑かった。日焼け止めを忘れて階段を往復した。わたしはうっかりスマホも忘れた。そのくせインスタントカメラはしっかり鞄に収まっていた。とても暑かった。途中で嫌になってしまうかもしれないと思いながら歩いた。わたしもかれも気が変わりやすかった。


 わたしたちは広い河まで歩いた。かれはすべての水は流れているほうがいいとまで言った。流れているのかすら分からないほどおだやかな河だった。水門があって、そこで水の高さが変わっているのを見るまで、わたしたちふたりとも、水が逆の向きに流れていると思っていた。そのときのわたしたちのはしゃぎようったらなかった。人目も憚らず高い声を上げ、写真を撮った。


「白すぎる!」


 曇ってもいないのに、空も河もどこか白く見えた。幻だった。夢だった。嘘だった。それがほんとうだった。歩き疲れたと文句を言っていたはずのかれは、ひどく元気になって、ふたりして飛び跳ねた。へたくそなステップを踏んでいるみたいだった。


 歩き疲れた頃に、わたしたちは植物園を見つけた。とても小さな門に、控えめな看板が立て掛けられていた。窓口で入園券と水を買った。水はよく冷えていた。中には小さな広場があって、薔薇やパンジーが丁寧に植えられていた。どこも手入れが行き届いていた。


 ふと、かれが「あ」と声を上げた。かれはわたしの手を取ると、ずんずんと歩いて行く。そこそこの広さがある囲いの中に、真っ白な孔雀がいた。暑さで幻覚でも見ているのかと思って、カメラを取り出す。孔雀はおとなしく首をもたげていた。ふと顔を上げると、もう一羽白い孔雀がいる。そちらへ足を向けると、先程の孔雀もフェンス越しに後をついてくる。わたしたちはひととおり現実を確かめ、ぼんやりと二羽が戯れるのを見ていた。


 その植物園はひどく広かった。どこにこんな土地が収まっているんだろうかと考えるほど広く、河ではしゃぎすぎたわたしたちには到底周りきれなかった。また来ようとは言ったものの、二度と見つけられないような気がした。途中で嫌になるかもしれないなどという考えは杞憂に終わった。


 


 ・・・


 


 別れ際、かれの長い髪を撫でた。切るというのだ。かれはわたしを抱きしめて、大丈夫だと言った。


「助かろうな」


 わたしはかれの髪を撫でていた。ようやく声を絞り出した。うんだかああだか、呻きだか、ただかれを送り出そうと思った。


 帰った後、少し広い気がする部屋でかれのものを集めた。なんだか泣きたくて、ちょっと泣いた。風呂にも入る力がなくて、そのまま床で眠った。夢を見た。鋏の音で目が覚めて、誰もいなくてちょっと泣いた。

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